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思考と言うのは、一体どこで行われているのだろうか。無論、脳である事は間違いないのだがそれは生きている生物の話である。現時点のわたしの考えはどこで行われているのか、というのが今のわたしの疑問なので「脳でしょ?」みたいな答えは欲してはいない。
仮に脳であるならば、わたしが考えた事がベッドの上で寝ている『わたし』の脳に送られ、更にわたしに戻ってくるとでも言うのだろうか。さながら無線LANの様に。そうだとすれば今のわたしの思考には、情報を送り送られる際のタイムラグが発生していると思われる。そんな気配は全くないのだが……しかしまあ、それは各々の主観なので何とも言えない。老いたとき、体の動きが鈍くなるのにはすぐに気付くが、思考が鈍る事にはなかなか気付かないだろう。わたしだって、十代に比べれば体が動かなくなっていると感じるが、思考が遅くなっているとは感じない。実際にはそうなっているのかもしれないのに、それに気付かないと言う事は、今もそうであってもおかしくはない。
とまあ、くだらない事を考えているのも単にわたしが暇なだけだからである。
黄泉平は、あの後用があるとかですぐさま去ってしまったのだ。久しぶりの話し相手を失った後では、ひたすらに続く無言の時間がそれなりに退屈になってしまった。
『いてて……』
わたしは屋上の床にしたたかに打ち付けた尻を撫でた。
『痛い訳ないじゃん。ユーコ解脱中だよ』
『そうだけどね……』
しかし、わたしの脳は今までの経験から算出された痛みの感覚をわたしに与えた。言われてみれば痛くないような気もするが、何となく尻をさすってしまう。
『ってかごめんねー。うろんちゃん、考え事して手ェ離しちった』
『うん……』
『え? ユーコ怒ってる? 怒ってるんでしょ? マジで!?』
『いや……』
わたしは屋上の床に立つと、尻をさする。そこへ黄泉平がふわりと舞い降りる。
『ってかてかてかさぁー、もしかしたら手ェ離したらユーコ飛べるかもとか思ったんだけどさァー』
軽く地面を蹴ると、バク転の様に飛び、一回転反すると逆さまになって止まる。
『ダメだったね! ユーコ、頭固いのよ。だいたいね』
黄泉平は逆さまのまま地面に降りてくる。
『床なんて概念に縛られてるからぶつかったりするんだから』
そのまま頭から床に沈み込んでいく。首から先を生やしたまま、彼女は文句を言い続ける。
『ほら、こうやって壁と同じようにすり抜ける事も出来るのに! ご丁寧にぶつかるなんて頭固すぎる! もっとフレキシブルに生きなきゃダメよ!』
『はい、すみません』
『まあ、謝らなくてもいいんだけどさー。うろんちゃん、心広いし』
ぶつぶつ言う黄泉平の言葉を、面会時間終了の放送が覆い隠す。
『あ! てかもうこんな時間じゃん! うろんちゃんやる事あるんだよね』
『やる事?』
『うん! 探し物!』
首から下だけだった黄泉平は、既に胸から下だけになっている。
『探し物? なにそれ、ルーシーモノストーンでも探しているの?』
『ルー……何それ?』
わたしとしては黄泉平の趣味に合わせた気の効いたギャグのつもりだったのだが、全く通じずにジェネレーションギャップを思い知らされた。
『うろんちゃん急ぐから。じゃねー。ばっははーい』
そう声が聞こえたときには、既に膝から下だけになっていた。
黄泉平うろんについて思い出していると、口元に自然に笑みが浮かんでい事に気づき愕然とした。わたしが他人の事を思い出して微笑むなど、前代未聞の事である。いや、前代未聞は言い過ぎた。しかし、かなり久しぶりの事である事は否定出来ない。この土地に移り住んでからは初めてだろう。これは断言出来る。なぜなら引っ越してきてから、わたしは親しい人を作らなかった……いや、胸中で言い訳をするのは止めよう。わたしは友達を、作れなかったかのだ。
そもそも友人を作るには共通の話題が必要だ。学生ならば授業の話、先生の話などとたくさんあろう。テレビの話もいい。あれは万人に共通する話題になるだろう。見てさえいればの話だが。
『うううううう! 苦しい! 助けてくれ!』
趣味が同じなら、その話をすればいい。それに、休日趣味に当てる時間をともに過ごす事も出来るだろう。
『クソッ! 苦しい、息が出来ない! こんな事で死ぬなんて! クソ!』
『……しかたないな』
通りかかった病室から、うめき声が聞こえてくる。散々わめいているのだから誰かしら助けにくるだろうと思ったのだが、気配はない。今のわたしに何が出来るわけでもないが、様子くらいは見ておいてあげよう。
するりとドアをすり抜けて病室に入る。
『ドアすり抜けるのは簡単なんだよな……』
一人ごちながらベッドの上を見ると、枯れ枝のような老いた男性が静かに眠っていた。
『あれ? 部屋間違えたかな?』
しかし、確かにここのような気がしたのだが……。
ベッドに近づくと、横に車いすが立てかけてあった。
わたしの脳裏に中庭で見た光景が蘇る。
中庭で付き添いの婦人に散々罵詈雑言を浴びせていた、あの老人とこの人は同一人物なのだろうか。なんとなく、そんな気がする。
どうせなら顔を拝んでおこう。そう思ってベッドを覗き込んだわたしは違和感を覚えた。
『……? なんだろ』
じっと顔を見る。知り合いではないと思う。だとしたら、何が……。
『あれ? 息してない……?』
静かに眠っているにしては、静かすぎるのだ。胸も上下していない。さっきまで騒いでいたのはやはりこの老人で、今静かなのは……つまり……。
『え? なんで誰も来ないの?』
患者の一人が由々しき自体なのに、誰一人病室に駆け込んでこないとは何事か。監督不行き届きもいいとこである。
しかしわたしも幽体離脱が身に付いてきた頃で、この体では人を呼ぶ事など出来ない事を知っている。
『どうしようどうしようどうしよう』
わたしは自分の死体(死んでなかったけど)を発見したときくらい狼狽えた。死体には人を狼狽えさせる力があるのだ。
しかし、狼狽えついでにわたしの死体発見時に試した技を思い出した。生体には、経験から学ぶ力があるのだ。
老人の手を拝借し、枕元のナースコールを押す。
わたしは病室で、ナースが来るのを待った。




