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 そうは決めたが、わたしは襟裳が普段どこにいるのかを知らなかった。ブックス・セサミでバイトをしている以外は、どこに住んでいるのかも、どこの大学に通っているのかも分からない。興味が無いのだ。

『こんな事になるんならさっき会ったとき尾行すればよかったなぁ』

 わたしの部屋は逃げないが、襟裳は逃げる。

『明日までどうやって時間潰そうかなー』

 独り言を言いながら、病院に戻ってきてしまった。どこに行ってもいいのだが、幽体となった今ではやる事がほとんど無いのだ。出来る事ならこの疲れを感じない体と、メガネのいらない目で本を読み続けていたいのだが、生憎今の状態ではページをめくる事が出来ないのだ。

『映画でも見るかなー。あんまアレだけどなー』

 幽体離脱から戻れなくなって二日目。完全に他の人と遮断された生活をしているせいで独り言が多くなってしまう。まあ、その独り言さえ誰にも聞こえないので特に問題はないのだが。

『テメー、こんなところに連れてきやがって! いい加減にしろ! パチンコに連れてけ! 酒をもってこい! タバコもだ!』

 怒号に体が跳ね上がる。

 ここは病院の中庭。入院中の患者が許可無しで散歩に出られる唯一の場所である。そんなただ一つの憩いの場で、こんな大声を出す男がいるとは……。さぞかし他の患者も煙たがっているだろうと思ったが、意外にも誰一人として男を気にしてはいなかった。

『入院生活が長引くと皆心が広くなるのかもしれない』

『誰だ! ふざけた事抜かしてるとひっぱたくぞ!』

 男がまた大声を上げる。

 嫌な奴はどこにでもいる物だ。関わりあいがないとはいえ見ているだけで気分が悪い。この先の長いであろう入院生活で、出来れば同席したくない人物だ。顔を覚えておいても損はないだろう。

 意外にも、わたしの視線の先にいたのはおじいちゃんだった。もっと若い、頑固親父的な容貌を想像していたが、男はよぼよぼで毛もなく肌は枯れ木のような色と乾燥具合であった。しかも車椅子に乗っている。押しているのは上品な老婦人であったであろうおばあさんで、恐らく老人の夫人だろう。こんな良さそうな人に罵詈雑言を投げつけるなんて予想通りのひどい奴だ。

『こりゃあ死期も近いな』

『ふざけんな!』

 老人の罵声が、丁度わたしの言葉に応えるような形で響いた。


 結局、屋上に入り浸る事にした。

 もう夜と言っていい時間帯だけど、街はまだ明るい。たくさんのビルが建ち並ぶ繁華街方面と大きな道路沿いに一階建ての面積がやたら広い店が点々とある反対方面とのギャップが激しい。

 夜明けとは違い、太陽に照らされた街は全く美しくなかった。きちんと見えるよりも、ほとんど見えない物の方が美しく感じるのは、結局のところ見えないところを想像力で補っているからだろう。人だってそうだ。モノクロや、光で飛ばした写真の方が美しく見える……ような気がする。

 わたしは柵をすり抜け、屋上から身を乗り出して真下を覗き込んだ。先程までいた中庭が見える。

 老人はまだ中庭にいて、奥さんに対して何か言っているようだった。

『あら?』

 彼はやがて体を大きく動かした勢いで車いすを倒してしまった。地面にへたり込みながらも激しく怒鳴っているようだ。声は聞こえないが、どうせ内容なんてないのだろう。

 そのうちに看護婦が出てきて老人を諌め始めた。それに大してもあまり動かない体を動かして全身で抗議している。まるで駄々っ子のようだ。この距離でみる分ならまあ興味深いで片付けられるが、実際に身内だったらたまったもんじゃないだろう。現に奥さんとおぼしき老婦人は、かなりやつれてしまっていた。

 老人を男の看護士が持ち上げ、車いすに乗せると看護婦が院内に速やかに搬送してしまった。その横で奥さんはぺこぺことお辞儀をしている。奥さんには一切悪いところなんてないのに……なんだか見ていていたたまれなくなってしまう。

『ねえ、アンタなんなの?』

『え?』 

 突然後ろから話しかけられた。屋上にいる人間……のようなものはわたし一人のはずだ。屋上の扉は施錠されているようだったし、扉を開く音も聞こえなかった。

 それにそもそもわたしの姿が見えたり声が聞こえる人間も少ないだろう。例外として、今日会った少年の存在が会ったが目の病気だと言っていたのでどう判断していいのか分からない。目が見えない人間は、他の感覚が優れていると聞いた事がある。彼は視力の代わりに第六感的な物が発達しているのかもしれない。

『あのさ、聞いてる?』

 わたしは渋々振り返った。

『アタシは黄泉平よもつひらうろんちゃん。ねえ、やっぱりアンタなんなの?』


 屋上の床から三十センチ上方に、セーラー服を来た少女が浮いていた。


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