序
幽体離脱をするときには、意識を身体に置いてはいけない。
これは、わたしが見つけ出した一つの法則である。
幽体離脱を始めるときには、布団の上に横になり、目をつぶり、上体を起こす想像をする。
始めのうちは焦ってはいけない。出来ないからといってすぐに諦めてもいけない。
じっと動かずに、ただ体を動かしたいと思う。眠いときなら尚更いい。わたしだって、眠くて体が動かないときに幽体離脱が出来るようになったのだ。
無事に幽体離脱が成功しても、すぐに動こうとしてはいけない。焦って手が動かない、足が動かないなどと身体について考えてしまうと、すぐに魂は体に戻ってしまうのだ。
まず始めにすることは、周りの風景を見ることだ。
見るのだ。もう想像ではなく、確実に、自分の目で見る。幽体だけでも周りを見ることは出来る。そう信じなければ遠出は出来ない。
始めは自分の部屋の中を見回す。汚い壁、セールで買った分不相応な大きさのテレビ、横に積まれて崩れかけている書籍雑誌類。
自分の部屋は、想像が出来やすいが身体感覚を思い出しやすいという欠点もある。万が一、あの本は重かったとか、テレビを組み立てるとき疲れたとか、そういった身体的感覚を思い出してはならない。思い出した瞬間、意識は身体に戻ってしまうのだ。
なのでわたしは見ることが出来たらすぐに、壁をすり抜けて隣の部屋に行く。
隣の部屋の主は、男と女。どちらもお近づきになりたくないタイプの人間だ。男は金髪の髪を汚らしく伸ばしっぱなしにしているし、格好も常に小汚い。女はケバいし見た目から頭のよわそうな感じが伝わってくる。部屋はヤニで汚れて薄汚く、チューハイや第三のビールの巻が転がっている。
わたしが一人で住んでいる、決して高い家賃ではないこの狭いボロアパートに二人ですんでいるので、彼らの経済状況はよくないと察せる。現に、今は二人で並んで小さなブラウン管テレビを仲睦まじく眺めているが、彼らは三日に一遍、貧乏に起因する喧嘩をしている。まあ、そのおかげでわたしはこの能力を手に入れることが出来たのだが。
眠くなってきちゃったぁ。女が呟いて男にしなだれかかった。その瞬間、わたしの頭にも眠い、と言う文字が浮かぶ。
こうなってしまったらもうおしまいだ。わたしの意識はするすると肉体に戻り、気付くと薄っぺらい布団の上で横になっていた。
そのまま目を開けず、睡魔に身を委ねる。
わたしの眠る前の儀式が、ゆっくりと夜に解けていく。