分かれ道
閃光があたりを包み込むと、そこに残されたのは白一色の世界だった。
次の瞬間、全身の燃えるような疼きと動悸、骨がギシギシと軋む痛みで目が覚めた。視界は何重にもぶれ、視点が定まらない。それでも、ここが長年暮らした我が家だということは感覚で分かった。
体を少し動かしただけで軋む寝台の上で、芋虫のように体を捩らせ枕元に置いてある薬箱から、解毒薬が入った瓶を取り出し口に含む。喉が焼けるような味に咄嗟にむせると、力の入らない体がバランスを崩し寝台から転げ落ちた。
指ひとつでも動かせば生じる激痛に身悶えながらも、まだ私にはやらなくてはならない事が残っていた。
ところどころが腐って穴が空いた床を這いつくばりながら、手を伸ばしたのは積み上げられた本の上に無造作に置かれた日記帳だった。
その古めかしい装丁の縁に手が触れると、痙攣した手の弾みで本がバラバラと崩れ落ちた。
震える手を無理やり動かすと、その刺繍が施された紺色の装丁を開き、パラパラと頁をめくっていく。
最後の文章が書かれた日付を確認すると、私は漸く脱力して床に丸くなった。
熱い……熱くて苦しい。
初めて感じる壮絶な痛みにひたすら堪えることしか出来なかった。
痛いよ、苦しいよ。
ねぇ、王子……時渡りは成功したよ。
貴方は今頃、大切な彼女を取り戻すために必死なんでしょう?
成功して本当に良かった。
諦めにも似た虚無感に身を包まれると、あまりの痛みに私の意識はまた遠退いた。
薄暗の中で最後に見たのは、愛おしいあの人の笑い顔で、彼が熱っぽく見詰めるその先を確かめる勇気のなかった私は、更に深い暗闇へと自ら堕ちていったのだった。
****
ここは…俺の執務室か。
羽根ペンを手に持ちながら、したためていたのは一ヶ月前の晩餐会での挨拶文で、そのことから時渡りが成功したことがわかる。
西側の窓からはまだ朝日が射し込んでいるから、幼馴染の魔法は心配した誤差もなく無事に完了したのだろう。
レオンハルトは使い慣れた椅子に背をもたれ体重をかけると、浅黒い骨張った指で目頭を抑えた。
これでディアナを取り戻せる。
一度は手に入れ、この腕で抱きしめたはずだったのに。彼女の心が折れるほど傷つけ、二度と手に入らないところまで追い詰めたのは、紛れもない自分自身だった。
だが、今度はそんな失敗はもうしない。誰になんと言われようと俺は二度とディアナの手を離すつもりはない。
その為ならば、もう己の手を汚すことも躊躇いはしまい。
レオンハルトが椅子から立ち上がると、正面に位置する扉が二回叩かれた。たしか晩餐会の前日にここを訪れたのは、議長だけだったと思い起こし入れといつものように促した。
「早朝より失礼致しますレオンハルト第三王子様、議会の総意を伝えにきた次第です」
「問題ない、それで今日はどんな嫌味だ?」
頭を深く下げた白髪交じりの灰色の頭をした男は、歳のわりには顔に皺も少なく常に人当たり良さそうな笑みを浮かべてはいるが、レオンハルトにとっては議会の古狸共を統べる長という事だけしか、特に印象のない関心が薄い人物だった。
「またお戯れを…明日の晩餐会ですが王子様はヘレナ様をエスコートされないとか。……議会は最近の貴方様の行動を快く思ってはおりません」
俺がお前らと戯れた事などあったか?
湧き出る皮肉を軽く受け流し、レオンハルトはわざとらしく驚いてみせた。
「俺の許嫁はディアナだ、婚約者を披露する場で他のものをエスコートするなどおかしいだろう」
「……恐れながら、そのような方は存じません。貴方様の許嫁はヘレナ様と決まっておりますでしょう」
勝手な事を言う。
ディアナとの婚約とてお前達が決めた事だろうに、都合が悪くなれば使い捨てか、反吐がでる。
議長の方に視線をやると、彼は柔和な笑みを浮かべたが、レオンハルトの表情は冷え切っていた。
「俺はそんな事は承認してはいない。お前たち議会が勝手に決めたことだろう?」
「議会は民の代表です。民は貴方様とヘレナ様とのご婚礼を待ちわびております。貴方様には民の信頼に応える義務がある事をお忘れですか?」
「お前達は最後にはいつもそれだな。……ふっ、もういい。議会の総意とやらは……明日はヘレナを連れて行く。それで満足だろう?……下がれ」
「はっ、ご多忙の折失礼致しました。では私めはこれにて下がらせていただきます」
パタンと静かに扉が閉められると、レオンハルトは扉に向かって持っていた羽根ペンを投げつけた。
何が民の信頼に応える義務だ。
程のいい脅しだろう、彼奴らの考えることなど虫唾が走る。
表面上は王族を敬う素振りをしているが、腹の中では俺の存在など飼いならしの犬ぐらいにしか思っていないだろうに。
……民とて所詮、我々王族などお飾りとしか思っていまい。
レオンハルトが、第三王子として生を享けたレオン皇国は、議会が国事を司り、建国者の末裔の血を引きし王族がそれを承認するという政治体制をとっている。議会は民の中の有力者が台頭し、議会で決定したことは王族の承認なしには執行されることはない。
しかし、表向き権力中枢を王族に置いているものの、長年他国や裏社会と癒着してきた議会は威力を増し、実質王族に承認権などあってないようなものとなっていた。
王族は皇国の柱と民は敬い、尊ぶもの。
だが、それは王族もまた人の子だという至極当然の事を都合よくも忘れたに過ぎないことだった。
「王族は尊い血筋、その血が穢されたとき皇国は穢され、民は暴徒と化し歴史を抹消する」
古より王家に受け継がれし伝承。
いや、教訓と言うべきか。
俺たちは人ではない、民の為だけに生きる人形だ。
だから王族は、民が望むまま、議会の決定に従う。己の意志を持つ事は赦されず定められた道を歩む、これまでもこれからも変わる事なく。
今度こそ失敗は許されない。
俺はディアナを決して諦めない、たとえ彼女がそれを望まなくとも。
レオンハルトが執務卓に置かれた、銀色のベルを鳴らすと、続き間になっている隣の部屋から彼の補佐官が欠伸をしながら顔を出した。
「ふぁ~あ、まだ勤務時間は始まってないってのに…これだから年寄りは早起きで嫌だよ」
背の低い可愛らしい顔をした少年は、見た目とは違い、正面に立つ不機嫌そうな男などお構いなしに辛辣な愚痴をこぼした。
少年の開けた扉の向こうから漏れた朝日が、彼の耳に嵌め込まれた新緑色の石をキラリと光らせた。
「寝ぼけたことをほざくなジン、お前は俺の補佐官だろう。ならば俺が動く限りお前の仕事があるということだ」
ジンと呼ばれた少年は、うへ~っと舌を出すとレオンハルトに向かって苦い顔をした。
「勘弁してよね。そりゃあさ、朝から大嫌いなおっさんに慇懃無礼な態度とられて機嫌が悪いのは判るけどさぁ?
おいら達はさ、基本的に夜行性なんだよ」
「お前はいつも寝てばかりしているだろう。……まぁ、いい。ジン、お前に頼みたいことがある」
眼を閉じたジンの身体が、緑色の光を帯びながら半透明になると、彼の耳に嵌め込まれた石に反応するように、レオンハルトの左中指の指輪が共鳴した。
執務室に高い金属音が鳴り響くと、ジンの瞼がゆっくりと開かれ、彼の瞳は緑色からレオンハルトと同じ水色へと変化した。
「知ってるさ、おいらは主様のジンだからね。……嗅いだことのある魔力の匂いがするね主様。これは相当無理したんじゃないあの子」
「あぁ、だがそれも全てディアナを取り戻す為だ致し方ない」
主人の冷やかな表情に、ジンは悲しい気持ちになる。
同調した状態のレオンハルトとジンは記憶や意志を共有出来る。あまりに感情を表に出す事が不得手な主人を、ジンはいつも苦々しく見つめてきた。
「主様、おいらはあの子が泣くのは見たくないよ」
胸の息苦しさに、思わず瞬きをしたジンの瞳は元の淡い緑色に戻っていた。
レオンハルトは、ジンから目を逸らすと椅子に掛けられた外套を羽織った。
「……お前にはヘレナの所に行ってもらう。もし、少しでもおかしな動きをみせたら俺にすぐ知らせろ」
淡々とした口調で語る主人の心はジンにはもう理解出来なくなっていた。
「えっ!ヘレナってあのフェンリルの主だろう?ちょ、勘弁してよおいらあいつとは……ってどこいくのさっ⁉」
「国王陛下に会いに行く。陛下の代わりに叔父上が表に立たれる様になってからもう三年経つが、俺はその間陛下の姿を直接見ていない。もしかした……いや、なんでもない。日が暮れても戻らなかったら、一度顔を出せ」
「無理、無理、むーりー‼王様のいる離宮は宮廷魔術師が結界を張ってるんだ!あれってバチバチッてなるんだよ⁉おいらみたいな精霊には無理だよ」
全身を使って拒否するジンにレオンハルトは嗜めるように笑いかける。
金髪碧眼のレオンハルトが微笑むのは、公務を除けば限られた人の前だけだと知っているからこそ、ジンは目をそらす事など出来なかった。
「おい、ジン。あまり我儘を言うようなら里帰りさせてやってもいいんだぞ?」
「無理じゃないです!やります、やらせて下さい」
「さすがは俺のジンだな、利口なお前にはあとで褒美をやろう」
ほとんど脅迫じゃないか、おいらがあっちに戻りたくないこと知ってるくせに。
どんなに意地悪くても無茶ぶりでも逆らうことは出来ない。それは自分が主の為に存在するからだとわかってはいても、ついつい愚痴りたくなってしまう。
ひとつ文句でも言ってやろうとジンが口を開くと、もうレオンハルは部屋を出て行くところだった。
「もう、自分勝手な人だなぁ!」
投げかけた文句は、扉がバタンと閉まる音に掻き消されたのか、レオンハルトに届くことはなかった。
その様子にジンはわずかな不満を感じながらも、ただ扉の向こうに消えた主の身を案じずにはいられなかった。
「不器用すぎるんだ、あの人は……どうか主様を見放さないでおくれよ、ディアナ」
祈るような自らの願いに、随分と人間みたいな事をしたものだとジンはひとり苦笑したのだった。