白玉か 何ぞと人の 問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
「おい沢木! おまえ何してる」
ヤベ、しくった。
突如飛んできた名指しの叱責に思わず頭を抱えたくなった沢木時子ですどうも皆さん覚えてますか?
――と、そんな誰とも知れない読者に向けてメッセージを送ってみる。……どいつだ、現実逃避とか言いやがった奴。ぶっ殺すぞ。
「国語図説なんつーモンを熱心に読みふけるたァ感心感心。さぞかし次の模試の成績が期待できそうだ。だがなァ――授業開始三十七分、教科書も開かずノートも取らず一心不乱になっちまうようなFカップのねーちゃんはそこに載ってなかった気がするんだが?」
「センセー、セクハラです」
「そういうおまえは俺の授業ほっぽってシカトですか。言っとくけど、それ完ペキイジメだかんな。教師相手だから許されてるだけで」
「誤解も誤解で誤解が過ぎます」
「んだ、それ。何組み合わせたらそんななんちゃって日本語が出来上がるのかぜひともお聞きしてーよ俺は。――いいから、何読んでたんだよ。センセーに見せてみろって。ダイジョーブ、痛くしないから」
「何が大丈夫なんですか訴えますよ」
「ッたく、生娘じゃあるめーし。処女か」
「処女ですよ! つーかなんですかその欧米か! の最低劣化バージョンは、て、ッああああああ!」
「えーなになに? ――『古典を読み解く~六歌仙が一人・在原業平の生涯~』。……こんなタイトルセンスで国の指定教科書とか、よく許したな文部科学省。ラクショーじゃねーか」
え、ていうか、おまえこれ読んでたの?
図説を取り上げられた私に無情にも向けられた素っ頓狂な声。同時に寄越される、摩訶不思議な物体でも目にしたかのような視線に、私はいよいよ机に突っ伏したくなってきた。
「だから、知られたくなかったんですよ……」
ここまでの流れからして一目瞭然だが、あえて言ってみる。そうなのである、私は未だにあの男の正体を暴くべく、こうして日夜研究にいそしんでいるのだ! どうだこの熱意! 褒めろ! 誰か私を褒めてくれ!
奴は自分のことを『在原業平』だと名乗った。そして残念ながら、この現代社会でそういうアレなことをのたまう野郎はたいてい馬と鹿がフレンドシップを築いた感じの人間であると相場が決まっている。
だがしかし。誠に! まことに残念極まりないが、男があの日、目の前で何のタネも仕掛けもなく消えてしまったのもまた、事実なわけで。
とにかく、在原業平についてもう一回復習してみようかキャンペーンのごとく色々調べた結果が、これだよ。
私が今春入学したここ、私立橘学園で一番の問題教師、桐谷周一センセーに悪酔いしたオッサンのノリで絡まれている。この人絶対公立でやってけないよ。PTAに苦情殺到で即アウトだよ。
どうせ古典なんか睡眠時間と同義だから、ちょびっとばかし有効活用しても構わないかなー、と思ったんですけどね。駄目ですか。駄目でしたかセンセー。こんな、高校生活一週間目で、ぜんぜん馴染めてないクラスメイトの面前で、色々暴露されちゃうくらいには駄目でしたか。テメーのほうこそイジメなんじゃねーのか。教師だからって何やってもいいと思ってんのか。泣くぞ。公衆の面前で泣くぞ。女子高校生に泣かれる古典教師って、かなり外聞悪いぞ。私立でもクビってされるんだぞ。
心の中ではなんとでも言えるけど、口に出せといわれたらその一割にも満たない。チキンハートな自分、乙。……ところで、クラスの皆はなぜ私たちから目を逸らしているのかな? 小一時間かけて問い詰めたい。
とりあえず、最後の抵抗として、悲痛な顔で「あんまりだ……」と呟いてみた。
「入学したばっかなのに、私変人みたいな扱い……いじめられたらどうしてくれんですか」
「問題ない。どのみちばれてたさ、おまえの変人奇人捻じ曲がった根性なんてすぐによ」
「いい加減それはこっちの台詞だということを分かってくれませんかねこの淫行教師」
「ほーら、そうやってすらすらっと罵詈雑言、仮にも入学一週間目の初々しい生徒が教科担当に吐く台詞じゃねーよ」
「桐谷センセーもね」
「おうよ。俺は、変態だからな」
「認めますか」
「事実なもんで。淫行は断じてしてねーけど」
「ハッ、どうだか」
「オイ、言ってるそばから性格崩壊してんぞ」
つーか在原業平なら今やってたんだけど。
「……はい?」
「いや、ほら、伊勢物語の芥川」
黒板には確かに白墨で芥川と書いてある。確か伊勢物語の一節で、昔男が高貴な身分の女を屋敷から盗み出したが、途中で女を鬼に喰われてしまう話だったはずだ。
それと業平に、いったい何の関係が?
「……それで?」
「アレの昔男って、業平」
「……は?」
「確定してるわけじゃねーけど、最有力候補みてーな?」
私はぼうっと、黒板を眺める。声に出さずに読んでみた。
むかし、男ありけり。 女の、え得まじかりけるを、年を経てよばわたりけるを、辛うじて盗み出でて、……
「……あ?」
なんで、こんなもの、が。
「鬼って言うのは、アレだ、盗み出した女――二条の后っつーんだが――そいつの兄の堀川の大臣と太郎国経の大納言に女を取り返されたのを鬼って言ってるだけなんだがな。一方的な駆け落ちさえ美談にしちまうなんざ、」
「すいません早退します」
桐谷センセーの長々しい解説を遠慮会釈なくぶった切って、私は机の中の教科書類をまとめて鞄の中に突っ込んだ。鞄を肩にかけながら軽く頭を下げ、上げると、呆気にとられた面々が映る。
「ハイ?」
「いやあのほんとすんません母親が危篤のような気がしなくもないというかぶっちゃけ今夜が峠みたいな」
「マジでか!」
「マジもマジでマジが過ぎます」
そんじゃ。
私は勝利を確信する。だが人生とは時としてままならないものだ。そもそも私の十五年間の人生の中でままなったときが一度もないんだがハハハちくしょう神は死んだ!
この日の私もそうだった。そのまま教室の戸まで突っ切り、ドアを閉める直前、
「アレ、でもアイツの母親ってもう亡くなってんじゃなかったっけか……?」
一人の男子生徒の何気ない台詞に、教室中の視線が戸の隙間で硬直する私に向けられる。てめえええ一之瀬ええええええええ! あとで覚えとけよ! 夜道には気をつけるんだな!
センセーは黙りこくっている。ちょ、恐ろしいから何か反応してください。プリーズリアクション。
「……」
「……先生」
「……」
「……先生」
ぐるん、とセンセーの眼球がものすごい速さでこっちを向いた。めっちゃドアを閉めたいんですが。むしろ叩き付けたいんですが。なんなんですかその視線。ドリル光線か何かと間違えてませんか。ていうか、もう絶対教師なんかじゃないですよね分かります人を殺したことのある目ですよね前科持ちですかやめてください若い美空、違った身空で散りたくない!
「沢木いぃぃぃ! テメッ、次の時間にぜってえ東下り全部現代語訳してこいよ!」
「ひいいいいい! だが断る! 次の時間って、次の古典の授業って、明日じゃないですか!」
学生のハードスケジュールなめんなよ!
「じゃなきゃお前、古典の評価、五段階下げるからな!」
「五段階評価で五段階も下げたらいったい何が残るんですか!」
「えーと……おまえの屍?」
ダイジョーブ、骨は拾ってやるから。
「死ねええええええええ」
「おまっ、死ねっておまっ、――泣くぞ!」
――キーンコーンカーンコーン。
被せるように響くチャイムに、一年二組はいっそ不気味なほど沈黙した。先生、と誰かがポツリと呟く。
「芥川……訳してないんですけど」
黒板には原文のみの芥川。訳を書き足すために空けた行間がやたら空虚な雰囲気を漂わしている。
桐谷センセーは首をこきりとまわしたあと、教室を見渡した。目が合う。にやりと笑いかけられる。
いやなよかn
「じゃ、これの現代語訳も追加でな、沢木」
「……頼むから死んでくれませんかね」