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 密封された袋を開けると、あたりに香ばしい匂いが立ち込めた。私にはとてもとても飲めない粗挽き深煎コーヒー、ブランドはややマイナーながら根強いリピーターを誇る老舗だ。何を隠そう、その根強いリピーターのうちの約一名は我らがお父さまなのだ。酒も煙草も嗜まない分、まるっとこいつにつぎ込んでいる。父子家庭のエンゲル係数が一般的四人家族と変わらないのは、はっきり言ってこれのせいだ。たかが嗜好品のくせに、生意気な奴である。そんなにぞっこんならいっそコーヒーと結婚してしまえ、と以前キレたことがあるが、あのときのお父様の反応はなかった。正直言ってなかった。

 情けなさそうに眉をハの字にして、「いちばんは文子さん。コーヒーは二の次だから、ね?」。ね? じゃないよ、私はどこ行った、愛娘はコーヒー以下ですか。ああそうですか。

 前置きが長くなったが、とにかく以降私は一切のコーヒーがきらいだ。受け付けない。あんな憎いアンチクショウの姿なんか二度と目にしたくない。バクテリアが繁殖した泥みたいなビジュアルの液体をよく飲めるものだ。信じられん。

 で、そんな私がなぜバクテリアが繁殖して、さらに最近では醗酵してみました、エヘッ、みたいなイカレタ溶液をつくっているのかといえば。

 そそいだ先のマグカップに注目してもらいたい。真新しいシンプルな無地のマグカップ。勘のいい人はこれで気付くと思うが、客人用である。


 ――客っていうか、あの人むしろ賊だよね、という突っ込みはスルーさせていただく。



 誰何の声に、男はゆっくりと振り返る。男の背後で少し傾いた日が覗いて、私は目を眇めた。

 男は、正直に言おう、――すげえ、イケメンだった。

 涼しげな目元に通った鼻梁、やや薄めの唇は綺麗な弧を描いている。昨今のジャニーズのような甘い顔立ちではないけれど、硝子のように透明な雰囲気をまとう人間だ。


 そしてそんな男だが、私の姿を認めたとたん、


「うおっへ!?」


 ……百年の恋も冷めるとはこのことだろう。いや恋してないけど。いつ何時もコイツに恋した瞬間は存在しないけど。

 男はそんな奇想天外奇妙奇天烈奇奇怪怪な叫び声をあげて、

 落ちた。


 改めて言っておくが、私の部屋は二階である。そんでもって、下には庭があって、物干し竿があって、今日のような日和にはたくさんの洗濯物が干してあるのが定石だ。

 案の定、男が落下した1.67秒くらいにとんでもない騒音が発生した。慌てて窓に身を乗り出せば、せっかく干した衣類がしわくちゃになりながら山をつくっていて、その中央に男が半分埋もれるように転がっている。

 ……とりあえず、お父さんのパンツを頭に被るのはよしたほうがいいと思うよ。



 と、まあ一通りの回想が終わったところで、私は現在男にコーヒーを差し出して、正面に座しているわけだが。

 どうしてか男はマグカップの中身を見て、ぎょっとしたように頬骨の辺りを強張らせている。あ、コーヒー駄目でしたか。同志! 心残りなのは、せめてもっと健全かつ常識的な状況下でお会いしなかったことだ。こんなよく分からん、暫定泥棒みたいな男と盛り上がれるほど私の神経は図太くない。いや、ここまで間抜けで泥棒とか言われたら、私は日本警察の操作能力を疑わざるを得なくなるが。

 とにかく、妙な事態になってきているのは間違いないので、極力相手を刺激せずに話を聞こうじゃないか。そのために洗濯物の山から救い出し、あまつさえ父親の秘蔵コーヒーに手まで出したのだから。

 深呼吸、スーハースーハー、はい口を開いて!


「それで」

「待て」


 あんまりひどくないか?


「……なんですか?」

「これはなんだ」


 男が示す先は、毒々しい色を放つ魔の液体。ああ忌々しい。


「……コーヒーですけど」

「こーひぃー?」


 やばい、そろそろ目を背けるのも無理な展開になってきた。くそ、おとなしく玉露でも出せばよかったぜ。


「ご存じないんですか」

「知らんな」


 私は男の着ているものとか、男がお父さんのパンツの代わりに今被っているものとか、その他諸々を見ないように、つまり男の顔をひたすら凝視した。超絶イケメンを見つめるとかどんな拷問だ。眼球が焼ける。これで下旬にある測定で視力が下がったら、100パーセント貴様のせいだ。三代先まで祟ってやる。

 男はしばし、マグカップに目を落として、それから優雅な仕草でテーブルに置いた。おい、飲まないのかよ! それお父さんの地雷同然だったのに、私の犠牲はどうしてくれる!

 男はカップの取っ手を掴んでいた手を頬に当てて、物憂げにこちらを見た。ちょ、心臓に悪いんでやめてくれませんかね。


「ばれたら仕方あるまいな」


 いやばれてませんから大丈夫ですから都合よく目を逸らしておりますから視力低下の危険まで冒してますからお願いだからその苦労を無駄にすんなよ!


「実はな」


 実でも虚でも何でもいいから黙ってくれませんかね! 私の華々しい高校生活に水を差さないでください。

 という私の必死の願いも届かず、


「俺は平安時代から来たのだよ」


 微笑を含んだような口元を呆然と眺める。その目線を直下すれば、現代では早々お目にかかれない手の込んだ衣服。服っていうか、これは中学のときに国語便覧に載っていた直衣のうしにクリソツなんですけど、どうすればいいですかね。

 ついでに、目を高速で急上昇させると、視界を占めるのは、ドームのような半円球をスマートにさせてみました、とでもいいたげな被り物。つーか、これもいつぞやの国語便覧記載の立烏帽子たてえぼしとかいうシロモノじゃなかったですかね。

 というかもしかしなくてもそうだよね!


「あああああのっ!」

「俺は在原業平という」


 ――は?


「いやほんとあの、私はそういう冗談に疎くてですね、そういうノリで不法侵入誤魔化そうとか通用しませんから」


 貴様が頭が弱いということは分かった。十分分かった。何も盗ってないなら見逃してやるから、そんなかわいそうな言い訳は言うな。私も聞きたくない。

 在原業平なんて軽く千年近く前の時代の人間だ。そんなあほあほしい言い逃れがあるか。小学生でも見破るわ。


「困ったな」


 そうだな間違いなくお前は困ったちゃんだ。警察と救急、どっちに通報するか私も迷うところだよ。ひとまず帰ってくれますかねマジで。


「帰れといわれてもな……あ、」

「あ?」


 イカンイカン華の女子高生がこんなチンピラのカツアゲのような台詞。脳内補正がかかっていたからよいものの、第三者が聞いたら絶対に濁音がついていたはずだ。もっと精進しなくては。

 男はあ、と声を漏らしたきり、しきりにうんうんと頷いている。


「帰ればよいのだな?」

「はい」


 ぜひともそうしてくれ。


「では帰ろう」


 そう言って男はつと立ち上がると、一階の居間を抜けて――階段を上り始めた。


「へ? ――ちょっと!」


 帰るんだろーが、舌の根も乾かぬうちに何しでかしてくれんだ。真面目に通報するぞ。今度は迷わず110と119どっちにも通報するぞ。

 冷め切ったコーヒーに舌打ち一つ残して、私も男のあとを追いかける。足音荒く階段を踏み鳴らし、上り終えたところで私の部屋に消える直衣の裾が見えた。

 ドアを突き破る勢いで駆け込むと、私は本日二度目のトンデモ光景を目の当たりにした。


 男は本棚の中段にある本の背表紙をなぞっていた。あそこにはお父さんが道楽で買ってきた古事記とか源氏物語とか万葉集とかが収められている段だ。

 男はその中の一つで指を止めて、口の中で何事かを呟く。


「――え?」


 そうするとどうだろう、男の身体が徐々に陽の光に透けはじめた。だけでなくふちに淡く光が溜まって、まるで男自身が発光しているような錯覚すら覚える。

 なにこれ。なんだこれ。


「すまぬな」


 男は、その場に立ちすくんでいる私に気付いてほろ苦く笑った。


「学び舎が今日に限ってこうも早くしまいになるとは思わなんだ。すまぬな」


 なに、いってるの、このひと。男の言葉の意味が分からない。私のシナプスはやっぱり腐っているらしい。

 窓の光と男の姿が同化する直前、私は確かにこんな言葉を聞いた。


「こーひぃー、馳走になった」


 そうして男は『帰った』。



 男が帰ったあとに残されたのは私と、私が帰宅する前とそっくりの部屋。ただひとつ違うのは、空間のあちこちに貼りついている桜だけで。

 開け放たれた窓から、風が私の前髪を吹き上げる。私は先刻の男の台詞を思い出して脱力する。


「結局、飲んでないじゃん……コーヒー」


 というか、この部屋を掃除するのは誰ですか。私か。

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