世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし
拝啓、天国のお母様。
不肖沢木時子、部屋で野郎が泣いてました。
沢木時子(仮名ではない)十五歳、高校の入学式という晴れがましい行事を終えた直後。家の鍵をさして、帰宅して、制服を着替えるのもそこそこに、新品も新品、ぴかぴかの鞄を下ろすために二階の自室に足を踏み入れた瞬間。
な、んか、いたん、だが。
私の部屋は、ドアを開くと真正面に窓があって、そのすぐ下にベッド、右隣に机で左は本棚がある。まあ一般的な学生によくあるレイアウトだと思う。細かい配置はまちまちだろうけれど、ありふれた部屋だ。
そのありふれていたはずの部屋をことごとく台無しにしやがったふざけた身の程知らずは、よりによってその、正面の窓枠にもたれていた。それだけでも万死に値するというのに、謎の物体はこともあろうか――本当、自分でも気色悪いこと言っているのは重々承知だが、苦情は目の前の不法侵入者に申し立ててくれ――泣いて、いたのだ。
はらはらと、涙しているのだ! これだけでも私の置かれた場面の異常性がはかれるというもの。
それで、どうしたって?
閉めたよ。速攻ドア閉めたさ! それ以外にどうしろと!
とりあえず深呼吸して、状況把握に励んでみた。こんなに頭を使ったの、もしかしたら高校受験でもなかったかもしれない。
えーと、今日はお父さんが先に出勤したから、朝食の皿洗いをして、そのあと洗濯物が干されていないことに気付いて、慌てて干して――ちくしょう、あのオッサン上手くずらかりやがって、覚えてやがれ――それから時間がやばいことになってて、超特急で家を出て……アレ?
鍵、閉めたっけ?
「待て、待て待て待て。いや待て、これは待つんだ。落ち着け落ち着くんだ何事も冷静沈着それが僕らのモットーだろそうだろジェファニー」
失礼、やはり私ではこの事態を呑みこみ、咀嚼し、理解するまでに結構な時間を要するようだ。所詮私の錆びたシナプスではこれが限界ということだな別に悲しくなんかないさ! ちなみに私の交友関係に外国の友人はいない。ジェファニーという名前の日本人もいない。
話がそれた、とどのつまり、私が施錠したかの記憶がないわけで、鍵をかけていない可能性も無きにしも非ずなわけで、そうすると最も確率的に高いのは、あの物体は人間で、さらに、いわゆる、いわゆる、泥棒とか空き巣とか呼ばれるものなのでは?
んでもって、そういう輩が家人に現場を目撃され、なおかつ逃げられない場合、取るであろう行動は? ハイハーイ、簡単だよその家の人を殺しちゃえばいいんだよー! そうですね。さすが沢木さん、論理的ですね。えへへー……。
こ ろ さ れ る
ちょ、まずいよ、自問自答家庭教師バージョンなんかやってる場合じゃないよ。つうかさっきから私のシナプスはどうなっているんだ、錆びてるどころか腐ってんのか。しかも未だに私の脳内はどことも知れない家庭教師と話しているんだが。どこの電波受信しているのかぜひとも伺いたい。あ、今、家庭教師のことジェファニーって……おまえかよおおおおお! まじで何者なんだジェファニー!
と。
そこで。
「――お?」
私は肝心なことに気がついた。
目下の疑問はアレが何者であるのかということだが、その下層フォルダにある施錠の成否について、私はある重大な発見をした。むしろ何で今の今まで見逃していたのか不思議だが、そこはそれ、先ほどまでの言動含めて温かい目で見守ってもらいたい。
発見とはほかでもない、冒頭部分を再読すればすぐさま判明する事実であったのだ。
>家の鍵をさして、帰宅して、制服を着替えるのもそこそこに、新品も新品、ぴかぴかの鞄を下ろすために二階の自室に足を踏み入れた瞬間。
家の鍵をさして。ということは、家の鍵を差し込まなければドアが開かなかったと、そういうわけで。
ええと?
恐る恐る、ほんのわずか、ドアに隙間をつくってみた。ひどく狭い視界で、逆光になっているせいで黒い人影は、相も変わらずそこに佇んでいる。見たとこ――男か? 女の人とは明らかに違う骨ばった体躯がシルエットになって映し出されている。
その黒一色の最中で、ただ、涙が描く一筋だけが陽光を反射して小さく煌いた。
私はこくりと息を呑む。
これが盗人というなら、日本は既に滅んでる。そう思った私を誰が責められるのか。
「……あの、」
「――美しいな」
ざあ、と。
まだ肌寒さを残す風が強く吹きつけてきて、開け放された窓から近所の桜並木の花びらが舞い込む。風にさらわれた桃色は、黒い影をところどころ遮ってはあちこちを彩った。
あふれんばかりの桜花。ああ、もう散ってしまう。今週末には花見をしないと、と私は春霞のようにぼんやりした頭でそんな場違いはなはだしいことを考える。
男は口元に付いたひとひらを丁寧に摘んで、聞こえるか聞こえないかぐらいの微かな嘆息を漏らした。
「はかないな。……こうも、はかないかよ」
愚痴のようなのろけのようなさっぱり分からない調子で呟いて、男は一心に窓の外の桜を見つめる。その場から身じろぎひとつせず、彼は整然とそこにあった。はらはらと零れ伝う涙はとどまることを知らず、また男自身、とめるつもりもないようだった。
て、いうか。
「誰だ、おまえ」
ろくでもない人間とはろくでもない出会い方をすると亡き母は言った。私もそう思う。実証してみろといわれたら、私は迷わず答えるだろう。
忌々しいことにその典型が私、沢木時子と彼のファーストコンタクトなのです。実に遺憾だが。
「世の中に たえて櫻の なかりせば 春の心は のどけからまし」
世の中にまったく桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうになぁ、みたいな歌。素人解釈ですすみません。