第一章 その7
「もう終わりだ……」
まだ何も始まっちゃいねえよ!
なんとなく自転車の2人乗りでもしながらそう叫びたくなった。
そう、まだ犬娘の正体探しも、授業の5限目も始まっていなければ、ごちそうさまも、いただきますも言っていない。
ちょっと買い物に出るだけで2度も犬娘のお世話になってしまったが、ようやく校門まで辿り着いた。昼休みはまだ半分くらいは残っている。胃袋は空っぽだ。まったく、酷い目に遭った。
そこへもってきて気が滅入るような呟きだ。無粋な声のした方へなんとなく目を向けると、クラスメイトの日辻潤がうずくまっていた。校門から続く塀沿いにある花壇に埋もれるようにして地味なジャージ姿が背を向けて縮こまっているが見間違えようがない。脱色した髪を細かく結わえた数十のリボンという特徴で断定できる。
玉子に負けないくらいの矮小な体を折り畳み、家庭菜園部が丹誠込めて育成中の青々としたトマトをツンツンとつついている。陰気臭いな。
「はぁ……」
今度は盛大な溜息ときた。ボクの腹の虫も負けずにうるさくなってきたがこのままじゃメシが不味くなりそうだ。
「どうしよう、お腹空かせてるんだろうなぁ。はぁぁぁぁ…………」
ぷちぷちと頭のリボンをむしり取りだした。これは本格的に危ないのかもしれない。近寄ってみると、解いたリボンを開いて目を走らせている。中にはびっしりと文字が書き込まれていた。「これはやった」「これもできてた」と呟いているが、メモ帳代わりにしていたようだ。へんてこな頭しているなあと思っていたがこれで謎が解けた。
「どうしたんだ、日辻」
「いや、私が悪いんだ……お弁当を持ってくるのを忘れなければ」
一見会話が成立しているっぽいが、日辻は自分の世界に入っているようでこちらを見向きもしない。小柄な体をさらに縮めて面を伏せる。
日辻潤という女を理解していたわけではないが、こいつはこんなキャラだっただろうか。自己主張こそ控え目ながらクールに淡々と雑務をこなしているような印象があったのだが。
もっとも、教科を間違えるなんてのは日常茶飯事で、教室移動などあると必ず最後に駆け込んでくる。そんな時でも息一つ切らさないでいるポーカーフェイスが印象的。
調理実習の時間など『日辻注意報』が出るくらいだ。火気厳禁。だけどそれじゃ授業にならない。ゆえに、『日辻注意報』。普通に作業をこなしているようでいて、あいつの腕の届く範囲には地雷が埋まっている。
どんなドジをしたところで、何事もなかったかのように振舞う、ある意味大物っぷりを発揮しているのが日辻潤だと思っていたのだが。それがここまで取り乱すとは何があったのか気になろうというものだ。
「だから、何があったんだよ日辻」
「うるさいな! ちょっと黙っててくれないか!?」
逆ギレされてしまった。しかし、振り返った日辻の目はボクの手元に釘付けになる。
「おおぉぉ……」
餓鬼のように気味の悪い唸り声を出してまで凝視しているのは、ひょっとしてこれのことだろうか。ぷんと匂ってくる焼き色の付いた小麦粉と甘辛いソース、それらを渾然一体とまとめるカツオブシの香り。
「タコ焼きと大判焼き。ボクの昼飯だけど?」
怪訝に問うとがっしりと肩を掴まれる。意外と握力が強い。
「ね、猫魔……いや、猫魔クン? ちょっと、それは君みたいなチ――スリムな人間の食事としてはいささかばかり多いんじゃないかな? 過剰なカロリーは脂肪にしかならないぞ?」
今、チビって言おうとしただろ。人のことは言えないくせに。
「いや、宇佐美の分も併せてだし。それにボクは太らない体質だ」
本当はそれでも多いと感じていたが黙っておく。相手がカードを伏せているなら、そこに黙って乗るのは気に食わない。
「う、う、宇佐美先生は最近ダイエットしていると聞くぞ?」
「してねえよ。する必要ないだろあの貧弱な体型で」
「い、いいい、いや、女の人というのはだな、見えない所で気を使うものなのだ。あれでいてちょっとお腹を開いてみればぞろりと黄色い脂肪が飛び出てくるほどにメタボっているのかもしれないぞ」
手に力が込められる。痛いほどだ。ボクを見る目も某妖怪絡繰り月光漫画家のように瞳孔が縦にひしゃげるような異様な力が渦巻いている。
「び、微妙にグロい想像をさせるな。内臓脂肪ならお前の方が怪しいんじゃないか? 血色良いほっぺたしやがって」
うう、と両手で顔を抑える日辻。テキトーこいただけだが、心当たりはあったらしい。なるほど、女は外見だけじゃ測れない。
「で、何があったんだよ? 事と次第によっちゃ協力してもいいが」
ボクが甘い水を差し向けると、顔面百年戦争と呼べるほどの葛藤の後、日辻は膝を折った。というのは比喩表現だが日辻は本当に戦いに敗れた騎士のように膝をついてうなだれていた。ここまで大袈裟なヤツだとは思ってもみなかった。
「わ、私は今日、弁当を持ってくるのを忘れてしまってだな、その、財布も忘れてしまったがゆえに買い物もできず……」
「はあ、ひもじくて困っていると」
まだなんか隠しているなとも思ったが、聞いてみればたいした事はなかったし放っておくことにする。宇佐美と2人では食いきれないほどおまけを持たされたことだし、ここは是非とも巽さんの創作料理の方を処分、もとい、分配してやることにした。
「ほれ、こっちはやるよ」
ところが、2個重ねて下駄のような無骨さとなった大判焼きを持たされた日辻は、まだモノ欲しそうにこちらをチラチラと見ている。
「……それで十分だろ?」
一人前以上と思える分量を手にしているはずだ。
「いや、私は胃袋が人より大きくてな……ははは……」
羊の腸は体長の20倍、伸ばせば11メートルにも達するというが、まあそれは関係のないことだ。
問題なのは、すでに日辻がうんざりとした顔をしているということだ。野良猫だってこんな顔してたら煮干しも跨いで通るだろう。
本当に食べきれるのだろうかという疑問も浮かんだが、どうせボクらも食べきれないなと思っていたので、巽さんにサービスで持たされたたこ焼きも分けてやった。これで貸しが増えたと思えば良い。後で過払い寸前まで請求してやろう。
ところで、日辻とは口を利かない仲でもない。常日頃からボクを敬遠している他のクラスメイトに比べればという程度ではあるけれど。日辻にとってボクは避けるのすらどうでもいい存在なのかもしれないが。
あいつのキャラからして〝魔法少女〟候補から自然と外していたのだが、ああいううろたえる姿を見てしまうとそれとなく犬娘と重ねてもしっくりくるような気もする。何より、困らせてみるのも楽しそうだと思った。実用的な利点はほぼ皆無でも、人生には無駄も必要だ。
しかし、対犯罪という失敗することの許されない任に就いている〝魔法少女〟にあのようなドジ娘が選ばれるものだろうか。
そういう疑問を持つ人も多いかもしれないが、〝魔法少女〟に選ばれるかどうかは天賦の才能や優れた資質だとかそういうものとは無関係である。
そのことについて考えさせられる手記があるので引用しておく。
私の配偶者は緊急に骨髄の移植をしなくては助からない病気にある。そのことは何度も確かめたことだ。たとえ、あの人が死んでしまった後も、そのことを忘れることはないと言っても良い。
それには理由がある。
私自身が死ぬまで公になることはないが、私は〝魔法少女〟だ。私の実際の姿を目にしている知人に話したところで一笑に付されてしまうだけだろう。誰もがなれる〝魔法少女〟。だがそのイメージは少なからず清らかで美しいものであるはずだ。自分でもそのことは務めて心がけてきたつもりだ。
その幻想を守るために戦ってきてなんだが、今にして思えば自分でも笑ってしまうほど、実に薄っぺらでちっぽけで頼りない陽炎だ。空想でしかあり得ない少女にも普通の人間と同じ実生活があるということに目を瞑り、犯罪者と雖も血の通った人間を問答無用で叩きのめす凄惨さに耳を塞ぎ、どこまで行っても血腥い結末に口を噤む。
この幻想を壊そうとしない理由など一つしかない。持たざる者の憧憬だ。せっかく手に入れたのだからナントカして欲しいという無言の欲求がその裏には潜んでいる。
もちろん、私個人もせっかく与えられたのだからと日々努力している。やることに努力は必要ないとしてもだ。たとえ、私以外の誰かがなれる可能性があったとしても、私が怠ける理由にはならないと思う。
だから、〝魔法少女〟はなってしまった側からは運命的でありながら単なる偶然でもあり、何処かの誰かと自分を置き換えてしまう苦悩を伴うものなのだ。
私の配偶者のドナーが、あの人の妹しかいないのと同じようなものだ。私は家族というものは崇高であり神秘的ですらあるという考えを蹴るつもりはない。しかし、適合者はたった一人しか見つからないというものではないし、妹であるということに必然性はない。単に、一人しか見つからなかった適合者がたまたま妹だったというだけのことなのだ。
私がどれだけ努力しようとも、あの人がどれだけ素晴らしい人で友人知人が多くあろうとも、誰も救いの手を差し伸べる資格を有しなかったのだ。〝魔法少女〟になれるということはそれだけのことでしかない。それが齎す物の大きさはともかく、ただそれだけのことでしかないのだ……。
〝魔法少女〟とドナーという持つものと持たざるものという二つの立場を一遍に経験してしまったがゆえに、私が何を持たされ、何を持てなかったのか、ということについて考え続けなければならない。だから、私自身に死が訪れ神に全てを返す瞬間まで忘れることはないと思うのだ。
引用終わり。
ちなみに、この男性(繰り返すが〝魔法少女〟は性別とは無関係だ)は結婚してからずっと妻とその妹を間違えていたといううっかり屋さんである。そして、その妹(記述的には妻本人とも読み取れるが、注釈では『事実検証の結果、ドナーは真実、妹だった』となっていた)がドナーであったことを考えると非常に恐ろしいものを感じずにはおれない。「いや、これはわざと間違えたフリをしていたのではないか」という憶測も飛び交ってはいたらしい。が、真相は藪の中である。
***
「あれ? 先生もう食べてるんですか?」
教室に戻ると、宇佐美はおにぎりを両手で抱えるようにして小さな口でぱくついていた。
一瞬でも、泣きべそ腹ペコ兎を想像していたボクは本当にバカだったんだな、と思った。
「うんっ! オオガミさんに貰った!」
無邪気な笑顔には、ダイエットなどという浮世の憂い事など微塵も浮かんでいない。ちなみに、〝オオガミ〟というのは犬神のはらのことだ。出席簿で「犬」の点を見落としてしまったのが原因と伝え聞く。一回間違えるとこの先生はなかなか修正できないらしい。気を抜くとすぐに間違える。
優秀な先生だと評価したこともあるが、気のせいな気もしてきた。
のはらは所謂痩せの大食いなので弁当はいつも余分に作ってきている。おすそ分けでもしてもらったのかと思ったが、見れば、同席している玉子も同じおにぎりを口にしていた。
玉子の前には大きな重箱が3段ほど重なっている。その内の1段がのはらの前にあるということは、自分の分はとうに食べ尽くしてしまって、それでも足りなくて玉子から貰ったということだろうか。すでに2段ほど空けている。まったく、意地汚い。
と、心中で推理を働かせつつのはらの目の前のおにぎりに手を伸ばしたら、ひょいと重箱ごと退けられてしまった。
「……!」
口いっぱいに米粒を頬張ってもごもごとさせながら睨まれた。言葉にしなくても、薄汚い野良犬を蔑むような目をしていたのがバレたらしい。
「はん、ちょっと美味そうかななんて思っただけだよ。取りゃしねえよ。どうせ見た目だけで不味いんだろ――ぅあっ!?」
のはらの隣に腰掛けようとしたボクの脛に激痛が走った。
痛みにかがんだボクの顔面を白い物体が襲う。くにゃりとした感触が弾けた。
多分、おにぎりだ。塩味がいい具合に利いてて目が痛てえよ。
いくらのはらでも、おにぎりで殴ろうなんて発想が出てくるはずもない。ボクに差し出そうとした途中で激昂して脛にトゥ・キックを叩き込んできたので、前のめりになったボクの顔面が白米塗れになったというだけだ。
なんで怒るんだよ。玉子のもらい物じゃないか。あいつなんてどうせメイドかなんかを日の昇る前に叩き起こして無理言って作らせてるんだぞ。それにしては、たまご焼きとおにぎりだらけの安い内容だったが。そこまで玉子に友情を感じてるのか?
「くそ……もったいないだろ」
憎まれ口を聞きつけると、のはらはバッグからタッパウェアを取り出す。マジックで大きく『かりん専用』とある。ああ、無駄にはしないと言いたいわけね。
まあ、そんなことは放って置くとして……せっせとボクの頭部周辺に散らばったおにぎりを掻き集めているのはらも放って置くとして、どうもエサは行き渡っているようだし手に持っている袋の重みも増してきた。
「しょうがないな……これどうしようか」
素っ気無い無地の袋を掲げると、宇佐美の目が煌いた。ちまちまと食べていたのにほっぺにまでご飯粒をくっつけている。もう満腹なんじゃないのかという言葉を遮ってシュビっと手を挙げる。
「あ、うさ先生まだまだ食べられますよ~」
一瞬で巽さんのところのたこ焼きと判別できたらしい。宇佐美はあの店の常連だしな。だから買ってきてやっても良いかと思ったのだが。
「たこ焼きは別腹ですから~」
よほど燃費が悪いのだろうかこの小動物は。本当に女はわからない。嬉しそうに包みを開けるとまだ湯気の立つひと粒を頬張った。
「うん、おいしいですぅ~」
口の周りをソースとかつぶしと青海苔としょうがでべとべとにしながら宇佐美は微笑む。
「へぇ、どれどれ。あたしもひとつもらおかな」
ひょい、と玉子が横合いから失敬する。玉子の口の大きさからするとギリギリ通過できるかどうかなのに、口元にはソースも青海苔も付いていない。そういう宇宙の神秘に思いを馳せていると丸い物体が目の前に突き出された。
「あーんしてください」
「は?」
「おいしいですから、まねきくんもおひとつ、あーん」
要するに、たこ焼きを食べさせてあげるからお口を開けなさい、ということだろうか。
「いや……やめてくださいよ。いいですよ、ボクの分もたくさんありますから」
方便でなく、本当に食い切れないくらいあるのだが、宇佐美は手を引っ込めない。
仕方なく目を閉じると、またもや脛に痛みが走った。同時に口中へ転がり込むたこ焼き。
思いの外熱々だった小麦粉と魚介類の包み焼きはボクの悲鳴を焼き尽くしてしまう。上と下から迫る苦しみを無言でのた打ち回って耐える難しさを知った。
やっとのことでたこ焼きは処理できたので、そっぽ向いてもくもくと食べ続けるのはらに憎まれ口を叩き込んでやることにした。
「なんだよ……意地汚い奴だな。そんなに欲しけりゃボクの少しやるよ。それとも、あーんしてみるか?」
ほれほれ、と楊枝に刺したたこ焼きを眼前に揺らしてやる。
と、脛に3度目となる烈痛が、いや4度5度、6、7、8……と立て続けに上履きとは思えないほどの、皮膚を突き破り骨を砕き神経へと直接痛覚を与えてるような打撃が叩き込まれた。
ポロリと手からこぼれ落ちたたこ焼きは、のはらが神速の箸捌きで救出している。お見事とでも厭味を言ってやりたかったが、今度は本当に声も出ない。
なんだか歩き回って痴女に遭遇して犬娘調教してオカマをあしらって変態に遭遇して日辻をからかってそれから蹴られたり蹴られたり蹴られたりばかりでボクもガス欠になってきた。腰を落ち着け巽さんの腕の上達振りでも照覧するとしようとした時、ガラッ!と威勢良く扉が開いた。
扉を開けたのは日辻だった。
「おじょ……」
とまで口にした日辻が何か怖ろしいものでも見たように硬直していた。あいつに関しても、女だからわからないということにしておこう。
日辻は、昼休みぎりぎりまでかかって、大判焼きを食べ続けていた。涙まで浮かべてよっぽど嬉しかったのだろうか。
***
「せんせー、日辻さんは体調悪くなったので保健室で休んでいます」
こんなオチが付くのだけれど。