第一章 その6
「あらん、マネちゃんてば学校おサボりぃ?」
両手を重くしての帰り道。気持ちまで重くなる呼び掛けにうんざりする。
変態ババアのせいで余計な時間食っただけで、何も口に入れていない。
断食というのは空腹で辛いものだが、いざ食べても良いとなってもいきなりがっついてはいけない。空腹時の胃は荒れているのでまずは刺激の少ない粥だのを少量ゆっくり食べるのだ。そんな腹ペコのボクへ、香辛料を利かせすぎたような作り声がぶつかってきた。ボクは辛いものとか苦手なんだ。相手にする必要もない。
「なにヨ、ツレないわねん♪」
速足で遠ざかるボクへ、しかしその声は周波数を上げて近づいてくる。音よりも速く逃げる心に現実は幾何かの歩みで追い縋る。
たこ焼きだって暖かい方が美味しいだろう。なるべく早くケリをつけたい。意を決して音源を睨み付ける。
そこには、巽さんほどではないにしても、190はありそうな長身が威圧感たっぷりに見下ろしていた。不自然にカールした長髪に人工的な美を描き出そうとしている前衛的化粧。チャラチャラとしたアクセサリーを全身にちりばめ、チャイナドレスでまとめている。チャイナから飛び出た逞しい足には密林の若草のようにしっかりとした体毛が植わっていた。
平たく言えば、歩幅のでかいオカマに付き纏われている状況だ。
「メシ買いに出ただけですよ。サラさんもこんな時間から店開いたって誰もこないでしょ」
そして、認めたくはないが面識のあるオカマだった
「結構入るわよぉ。仕事サボったリーマンとか、大学サボった学生とか、人生サボってるニートとかね」
サラさんはバチコンと重たげなつけまつげを打ち鳴らすかのように気持ち悪いウインクをしてそう言う。まあ、お天道様が高い内からオカマバーにしけこむ連中もいるということか。
ボクが神妙な顔をしてみせると、
「マジメに受け取らないでよ。ランチもやってるのよ」
ああ、飲み屋で昼も開いてたりするアレか。
「その格好で接客しているわけですか……」
「そぉよぅ。女はいつでも綺麗に見られたいものなのよ」
間近に顔寄せられれば間違える奴はいないのだが、改めての確認するとサラは生物学的にはオスに分類される。サラは源氏名で、本名は騎馬駆という。上背はあるものの、やや馬面の顔から始まって全体的にはほっそりとした身体をしている。それでいて威圧感があるというのは、引き絞られた筋肉の隆起が薄い皮膜越しに見て取れるからだろう。スーパーヘビー級以外のボクサーのように闘う力だけを残して無駄な肉を削ぎ落としている。まるで刀剣だ。
そんな身体をチャイナドレスで露出させては女らしさを出すには逆効果だとは思うのだが、この人はチャイナを愛用している。需要はあるということなのだろうか。オカマの世界はよくわからない。
「昼休みもったいないんでもうカンベンしてください」
聞く耳を持たない気持ちを言葉に込める。邪険にしっしっと手で掃くのも忘れない。
しかし……このオカマもボクに関わりがあるといえばあるのだろうか。オカマを手駒に加えてもなあ……。二度と顔を見せるなって命令すれば聞いてくれるのだろうか。なんだかんだで理由付けてもっと親密になろうとしてきそうな最悪の予感もしないでもないのだが。
ところで、ボクにセクハラしまくっているこのオカマ、こんなのが〝魔法少女〟になって大丈夫なのかと心配する声が聞こえてきてもおかしくないだろう。隙あらば人のケツを追いかけるのだから、ケツに隙間があればどうなることか。
罪人が〝魔法少女〟になった例はあるならば、〝魔法少女〟が罪人になってもおかしくはない。確かに、〝魔法少女〟が性犯罪を犯してしまえば悪徳警官みたいなもので取り締まる者がいなくなってしまい腐敗が始まるだろう。
だから、それを防止するようなルールが〝魔法少女〟には存在する。それは、『他所の担当区域へ出場することは自由』というものだ。〝魔法少女〟は厳密な担当区域が割り当てられ、それはしばしば市区町村等の境界と一致する。それを超えて活動することは許されない、というわけではない。〝魔法少女〟同士の不正防止監視のために活動自体は制限していないのである。隣接した区域とまでは指定されていないが、多くのケースでは近場の〝魔法少女〟が出てくることになっている。
とはいえ、〝魔法少女〟を〝魔法少女〟が裁き鉄拳制裁を加えたことに関しては記録が残っていない。だからこのルールの用途は推測にしかならない。同じ人間のやることだし、間違いが起こらないとは言えないが、とにかくこういったルールは存在している。
なんらかの理由で担当区域を離れる場合などでも適用されるので、まったくの無駄だとまでは思わないけれど。
ところで、このルールだとあることが想定できてしまう。それは、〝魔法少女〟同士が一堂に会するというシチュエーションだ。土地に縛られることなく動けるので、変身さえできてしまえばどこにでも行けるわけである。変身だけは担当地域内で行わなければならないが。
〝魔法少女〟同士が素性を明らかにして密会することは禁止にこそされていないが、推奨はされていないようだ。この点に関しては警句となる手記があるので引用しておく。
*月*日
今日、初めて自分以外の魔法少女に出会った。どうもコミュニティによっては定期的にお茶会なんてものも催していたりしていたらしい。ストイックにミッションをこなしていた自分にとってはカルチャーショックだった。それにしても、流石に魔法少女だけあって皆一様にかわいい。自分だってオッサンだからあの人たちの中身だって知れたものだとはわかっている。わかっちゃいるが、かわいいものはかわいい。
不満だとかをぶちまけるのも楽しかった。普段中々そういう機会はないし。
それと、今まで思い至らなかったのだが、名前を決める必要があることに気付かされた。「魔法少女さん」では混乱するだけだ。あそこにいるのは協力者を除けば魔法少女だけなのだから。
(中略)
*月*日
***ちゃんと最近よく話をしている。***ちゃんは本当に魔法少女そのもので、他の連中がすぐに本性を透かしてしまうのとは違ってどんな時でもキャラを崩さない。いや、あれは自然に構えているだけで、内面もあのように美しいのだろう。
*月*日
***ちゃんと会う約束をしてしまった。いけないことだとはわかっていたが、人格として好きになってしまったのでもっと腹を割った話をしてみたい。そのためには魔法少女のままでは無理だから、この気持ちがわかるのならば……と口説き落としたのだが、こんなムチャな話も真面目に取り合ってくれる彼女が素晴らしい人でないわけがない。
*月*日
会わなければ良かった……。
引用終わり。
彼がどんな人物と遭ってしまったのかは謎のままだがどれほど残念な結果が彼を襲ったのか想像することはいくらでもできる。
文通だのネットだのと同じで、仮面を被ることが当たり前になっているからと言って、今自分がどんな仮面を被っているのか、そしてその下でどんな表情を浮かべているのかを忘れてはいけない。それは相手にも言えることなのだから。
騎馬に対してボクが被っている仮面はどういうものなのだろう。セクハラが嫌ならば〝魔法少女〟を呼んでしまえばいいだけなのが、今のところ〝魔法少女〟が現れたことはない。ボクの方としてもわざわざ呼ぶほどのことかなという思いもあるので、性犯罪認定に引っかかるだけの事実とそれに伴う感情の形成がいまひとつなのだと思う。
などと考えていると肩に触れるものがあった。
空気のような軽やかさがねっとりと質量を持ったものに変わり、肩から二の腕、肘へと降りてくる。明らかに意思を持った人間の手の動きに全身の毛穴が縮まる。直感するのは、欲求の捌け口にされるあの感覚。咄嗟に騎馬の顔が浮かんだ。
「しつこいなあ、もう!」
騎馬が遂に直接的な行動に出たものだと思ったボクは、軽く手を振り払おうとして予想外の抵抗力を感じる。焦ってもがくと、今度はがっしりと掴まれた。
「き、き、き、綺麗な肌してるね」
接触しているのは腕だけなのに、じっとりと湿った感触が全身に伝わってくる。怖気が錆のように全心に広がる。恐る恐る振り返ると、騎馬の姿はすでになく、代わりにマスクで顔を隠した禿頭の男がゆだるような熱の籠もった目つきで立っていた。
遠慮のない不躾な眼差しはボクの心をぬらりと撫で、絡みつくでも通り過ぎるでもなく、おぞましい鱗を擦り付けながら蠢いていた。
「は、離せ!」
言ったところで離さないのはわかっている。だが、叫びは止められなかった。禿男に掴まれた腕がぴくりとも動かなかったからだ。痴漢が強化服を着ていることは昨今珍しくない。だけど、当たり前だったら何も感じないのかと言えばそんなことはないのだと思い知る。湧き上がる恐怖がせめて視界だけでも閉ざしてしまえと瞼を下ろす。
風が吹いた。変態を吹き飛ばす突風でもなく、頬を撫でる程度のそよ風だった。しかし、それは予兆を孕んだ希望の風だった。
「……!」
「……!」
希望の姿を見るために瞼を上げるとそこには、ボクの腕を掴む禿男と、その腕を掴む犬娘とがにらみ合う光景が展開されていた。禿男はなんとか腕を振りほどこうともがいていたが、ボクの場合と同じくなんの効果も得られなかった。その内、禿男に変な具合の力が入ったのか、掴まれたままのボクの腕に激しい痛みが伝わってきた。
「痛っ……!」
堪えきれない呻きが漏れる。
その瞬間、犬娘が爆発した。爆心地は掴んだ手の内側。禿男の腕を握り潰さんとでもする力の入りようで、スーツを隠す服の上からでも、あり得ないほどの細さに絞られているのがわかった。腱も血管も筋肉も骨も、まとめてぐちゃぐちゃに圧縮される嫌な音がした。
もはや禿男に握力は甦らず、犬娘の怒りを見詰めたまま指一本動かさないボクの腕からずるりと滑り落ちた。
そこで我に返った犬娘は、悲鳴を上げる犯人に対して冷静に当身を食らわせて去っていった。本日2度目のおでましだったが、今度は呼び止める暇もなかった。