第一章 その5(前)
『美味しいたこ焼きどうですか~? 瀬土公園内で販売中で~す』
そんな呼び込みが聞こえたわけでもないが、ボクの足は自然に公園の方へと向かっていた。
どうしてこうなったのかを考えると、ボクが宇佐美を嫌いじゃないからだ。
自分の教室を出て、さてどうしようと頭をひねる。考えを行動の後に持ってくると、得てして当初の目標からはズレまくっていくものだ。
面倒なナキウサギから離れると、途端に自腹切って何か買ってくるのが億劫になってきた。
まあ、宇佐美にああ言ってしまった手前、痛む心もあるが学食辺りで手堅く済ませるのもアリだとは思った。ボクひとりで。
しかし、あの先生はボクが食ってる間も、お茶飲んでくつろいでる間も、排泄行為に及んでいる間ですら、ずっと指でもしゃぶって待っていそうだ。いいトシした餓死者をボクのネグレクトで出してしまうのも寝覚めが悪い。5限には最強の導眠術師と名高い古文の教師が控えていることだし。良い夢が見られなさそうなのは勘弁願いたい。
購買にパンでもあれば良かったのだが、お菓子みたいなものしか売っていない。宇佐美のあの小さくてぷっくりした口に黒々としたぶっといチョコバーでもぶち込んでやっても良いが、ボクは宇佐美のことはそんなには嫌いじゃない。仕方なくコンビニまで遠征することにした。
メロンパン1個ずつでも十分だな。ボクは小食だし、宇佐美は放課後まで持てば十分だろう。腹減ったなら早退しろ。
倒れられるよりは遙かにましだ。
嗚呼、まったくボクは宇佐美のことが嫌いじゃないな。
授業時間外の昼食時などに学外へ出るのは自由だ。弁当を持参していなかったり弁当が昼まで残っていなかったりした同じ学校の連中が近くの店に殺到する。非常に鬱陶しい。少し離れている所へ足を延ばすなら、公園を突っ切るのが近道になっている。
多分、そんな風に考えてこの場所まで来てしまったのだろう。
公園なんて変質者の巣だろうに。
緑の影に彩られたベンチに、着物姿の老婆が腰掛けている。
昼間の公園に老婆。
特に問題ないシチュエーションだ。にも関わらず妙に気になる。
なんとなく目を離せないでいると、変な動きをしていることに気付いた。着物の前をはだけ、皺が寄り、くすんだ色の地肌を露出させている。一方の手を懐へと滑り込ませると、円を描いて動き出す。腰もいつの間にか全体的に前へスライドされていて、やたらとごつい杖と股間がねっちょりと密接している。胸を揉む手が激しさを増すと、杖を支える方の腕に力が入り先端は大地へと突き立てられる。老婆の腰は完全に宙に浮き、上下へとリズミカルに浮沈を繰り返していた。
昼間から人目も憚らず恥部をさらけ出して自慰に耽る痴女だった。醜悪なふてぶてしさは昨日今日頭がイカれたとかそんな感じじゃない。相当年季が入っているだろう。
他人を無断にオカズにするくらいじゃ〝魔法少女〟の出番はない。公序良俗的には問題があるが。
ボクにしても嫌悪感はあれど特段被害が出ているわけでもないのだから、文句こそあれど被害者意識があるわけでもない。係わり合いにならずにおこうと決め、足を速めようるために老婆から目を離し、前方へと向き直る。そのスライドする視界にぴったりと老婆が張り付いていた。
「え?」
首を振るのと同じ速度で高速移動した老婆という現実離れした現象に言葉を奪われた。
「もっと……もっと…………アタシを見ていけぇえええええええ!」
たるんだ顔面を波打たせ老婆が絶叫する。汗ばんだ全身から異様な臭いが立ち上る。おそらくは何日も風呂に入っていないのだろう。垢と付着物とそこに発生した細菌の放つ悪臭が混じり合った不快な臭いだ。思わず顔をしかめると、老婆は――油が溶けて流れるように笑った。
他人の嫌がる様に愉悦を覚える性癖なのだろう。しなびた乳房をもっと露出させようと、たぐりよせるように懐へ手を差し入れる時、ちらりと光沢のあるスーツが見えた。着物に不釣合いなメタリックの輝き。老婆には決して為し得ない動きと考え合わせると、あれは『運動性能補助スーツ』なのだろう。
『運動性能補助スーツ』は機械的に身体の動きを何倍にも増幅してしまうもので、体力のない人たちが重労働をするなどの用途で十数年前から実用化されている。最近のものでは筋肉や骨格に対しての保護機能も進歩しているので、補助の域を越えた超人的な動きも可能になっていると聞く。そのかわり可動部分も含めた人体の大部分を覆いつくすことになってしまうので長時間装着すると蒸れてしまうらしいが。
老婆が着用しているのは効果範囲を限定したハーフタイプで下半身と腕力の強化のようだ。
ちゃんと使えば身体能力が衰えていたり過酷な肉体労働に従事する人たちの助けになるというものを、悲しいことにこのように悪用してしまう人間は後を絶たない。
道具は適正な使い方をするべし。
傍迷惑な馬鹿の被害に遭いまくっているボクからの苦言だ。おかげで一般人より詳しくなってしまったじゃないか。
などと余裕を持っていられるのも――
閃光が疾る。そんな表現が可能なほどに鮮烈な瞬間が訪れた。
白く目映い衣装に身を包み、長い髪がぱっと広がると芳しい香りが弾ける。
性犯罪者の前に完全と立ちはだかる無敵の〝少女〟がそこに立っていた。
――〝魔法少女〟が助けに来てくれるとわかっているからこそ可能なことだ。
この公園も周良町にあるので、やはりというか、現れたのはあの犬を彷彿とさせる〝魔法少女〟だった。被害者を確認しようと振り返って、早速固まっている。颯爽と登場したのに、なんだその黒い油虫に遭遇したようなツラは。さすがのボクでも少し傷つくんだけどな。
気を取り直して老婆に目を戻すと、突然現れた〝魔法少女〟に驚きを隠せないようだった。しかし、身動ぎもせず犬娘の出方を窺っているようにも思える。無駄に年輪を重ねた醜怪な変態面も緊張に引き絞られ正気を取り戻していた。〝魔法少女〟がとてつもなく強い『人間兵器』とでも呼ぶべき存在なのは広く知れ渡っている。それでも、無力な少女の姿から危険性を察知できる罪人は少ない。数知れない変態どもを相手取ってきたボクが断言する。
先ほどの身のこなしは、スーツの性能ばかりでもないのかもしれなかった。若い頃、何がしかの武道をやっていた可能性がある。F1マシンには優秀なドライバーが必要なのと同じだ。
まあ、基本性能が象と蟻なので、そんなことはまるっきり関係ないのだけれど。
それより、いくら殺したところで文句の言われない性犯罪者とはいえ、この気弱な犬娘は老婆相手に殴る蹴るできるのだろうか。〝魔法少女〟の兵装は基本的に素手のみだ。中には手製の『魔法の杖』を携えている者もいるようだけれど、いざ戦闘となればどつき合いの肉弾戦になるのは変わらない。
結果、ものすごく生々しい戦いになることもあって、凄惨な光景にどん引きしてしまう一般大衆も少なくない。やりすぎだとでも言いたげに眉を顰めるのも何度も見た。
そいつらも一遍襲われてみれば良いと思う。
ボクなどむしろ残酷に殺してしまえれば良いのにと思うことすらあるのに。
さて、幻の武術の達人(仮)の死にかけ老婆を相手にどう料理するのか固唾を呑んだが、喉を落ちきる前に勝負は一瞬で決まった。
流れるように体を差し込むと、絡みつく動作からアームロックで肩を外していきやがった。反撃どころか反応の機会すら与えない。老痴女は余りの痛みに気絶してしまっている。
戦闘不能状態に追い込んだのでそのまま立ち去っていくのかと思えば、白眼を剥いて倒れてる相手を見下ろしてちょっと小首を傾げてから御丁寧にもアキレス固めで脚も破壊してみせた。もう誰かに危害を加える心配はないことを確認すると公園の出口へと足を向けた。
「待て!」
その場から去ぬ流れに入っていた犬娘に慌てて声を掛ける。
犬娘はぴたり、と足を止め、恐る恐る振り返る。気持ちが嫌がってもカラダは言うことを聞かないと見える。
警戒されていても話が進まない。ポケットを探ると飴玉があった。
「いつかの分も併せてお礼だよ。持ってけよ」
ひと粒ずつ包装されたそれを掲げて無害そのものの笑顔を見せてやる。もちろん、釣りエサに引っ掛かるまでの騙しだ。
ぱちくりと目を瞬かせると、顔を真っ赤に染め上げつつも近寄ってきた。やはり、シツケにはご褒美か。
犬娘の小さな手が差し出されると、飴玉を引っ込めた。
何も掴めなかった手をぽかんと見る。ボクの顔を見る。また手を見る。
目標の誤差を修正し、ボクの手めがけてひょいと手を伸ばすので、こちらもまたひょいとかわして頭上へ持って行く。
何をされたかわからない顔で、届かない高さに持ち上げた飴玉に爪先立ちで必死に手を伸ばす。
「礼儀がなってないな」
いきなり冷水のような声を浴びせる。思いがけぬ態度に何か悪いことをしたのではないかと心配になっているのが手に取るようにわかる。その焦りを心地よく感じながら続けて言う。
「ください――だろ?」
言ってみろ、と目顔で促す。はっと見開らかれた目には混乱が渦巻いている。嗜虐心を刺激するじゃないか。
犬娘はしばらく考えていたようだが、意を決したのか桜色の唇を開かせて、
「く、くりゃさい」
ガラスを軽く打ち合わせたような澄んだ声が響いた。言った本人は、ちゃんと言えなかったことで湯気が出てくるほどに恥ずかしがる。その様をじっくり眺めているのも良かったが、このまま放って置けば逃げ出してしまいそうだったので、鞭はこれくらいにして文字通りアメをくれてやることにした。
「ふっ、いいよ、やるよ」
顔の高さにまで手を下げてやるといそいそと手に取ろうとする。そこでまた「待て」をしてやった。
「?」
ぴたと動きを止める犬娘。すでに命令を聞く態になっていることにも気付いていないだろう。ボクは包みを解いてやると、オレンジ色の飴玉を指で摘んで差し出した。「待て」はまだ解かない。
「特別だ。手ずからご褒美をくれてやるよ。口で取りな」
指で摘めるほどの大きさの飴玉を咥えるということは、必然的にボクの指ごと口に入れることになる。それがわかったのか、滝のような汗まで流れるパニックになった。〝魔法少女〟ってこんなに汗が掻けたんだな、と変なことに感心してしまった。
手の届く距離にご褒美があるということが、犬娘の逃亡を妨げている。後は時間の問題。頭の中でカウントダウンすると、案の定犬娘は食いついてきた。
口で取ることに最後まで抵抗して伸ばした舌がかえって艶かしく光る。しっとりとした口中が遅れて指先を包んだ。鼻息がこそばゆく掛かってくる。軽く当たる歯が爪の生え際をマッサージする。もったいなさ感じだボクは摘む指に力を込めてやる。
中々飴玉が取れない犬娘はより深く指を咥え込むと口をすぼめて搾り出そうとする。困ったように上目遣いで見詰められ、そこでようやく力を緩める。余りやりすぎて飲み込まれても厄介だった。ところが、長く素手で持っていたせいで飴の表面がべとついて指に引っ付いてしまっていた。僅かに角度を変えてひっぺがすが、指先にはべとつきが残っている。そこで、離れようとする犬娘の口腔へ、ずいっと指を押し込んだ。
予想外のことに驚いた様子だったが、ボクの意を汲み取ったのか残り滓となった飴を舐め取ろうと舌を伸ばし――思わず引っ込めてしまった。ボクの方が、自分の手を。
犬娘への責めを徹底させられなかったことに恥辱を感じたが、どうしてなのかはよくわからなかった。ただ、ざらりとした舌の感触が背徳感を逆なでするような危うさはあったと認めざるを得ない。
いや、飴玉しゃぶりなんてついでのことだ。時間がもったいなかっただけだ。そう納得させると咳払いで調子を整え、本題に入った。
「さて、こっからが本番だ。飴、美味しいだろ?」
「……」
こくこくと頷く。まあ、そこらで売ってる10円の飴なのだから格別美味しいということもないわけだが。
「だったら、その見返りに少々質問に答えてくれないか?」
「……!」
とんでもないとぶんぶん首を振る。
「なに、こっちだって〝魔法少女〟には他言無用が多いのはわかってる。それほど大きな期待をしているわけじゃない。ハイかイイエの二択で良い。これならやれるよな?」
「……」
要求のレベルを下げ、微妙に義務のような置き換えをしたことで心理的箍が緩んだようだ。口元を手で覆いつつもこっくりと頷く。
「お前は、ボクを知っているか?」
「……」
答えない。いきなり核心に触れすぎたか。ついうっかり答えてしまうこともあるかと賭けに出たのだが。
「この近所に住んでいる。そうだな?」
「……」
答えない。少しでも〝魔法少女〟のことを知ってればわかるはずのことなのに。警戒させてしまったか。
「この公園にはよくくるか?」
「……」
その後もいくつか質問を重ねたが、怒られたこどものようにしゅんと俯いて、何を聞いてもふるふる首を振るだけになった。そんなに正体がバレるのが嫌なのだろうか。もし、かりんが犬娘だとしたら少々ショックだ。だからというわけでもないが、こんな質問をしてしまった。
「ボクのこと好きか?」
なんで「嫌いか?」と聞かなかったのかはわからないが、質問を受け取った犬娘の反応は劇的だった。
ブッっと何かが弾ける音と、コーンとボクの額に何かがぶつかる音とはほとんど同時だった。察するに、犬娘のやつ、飴玉を〝魔法少女〟の化物染みた力で噴出しやがったのだ。
そのまま真後ろへと倒れこむボク。意識が飛ぶまではいっていないが、うろたえつつ薄情にも逃げていく犬娘に対しては目で追うくらいしかできなかった。