余章 画龍点睛
余章 画龍点睛
「なに人の顔じろじろ見てンだよ?」
巳津が不機嫌、というよりは不思議そうに聞いてくる。
私は後ろ頭をポンポンと叩く。別に顔じゃないですよ、その長ったらしい髪を見てたんです。そういう意味だ。
長い付き合いなのでそれだけでも伝わるものだ。それがはぐらかしだということも含めて。
「ああ、髪か。どうした急に? いやあ、なんとなく伸ばしてたんだけどリュウがこれ触るの好きでさ、好いぜえ? 好きな奴に触られるってのはさ」
『……おのろけなんて貰ったってバイト代は増えないですよ』
半分しか伝わってなかったので、手近にあったスケッチブックに、そう書いてやった。
「お、おう。バイトな……ほれ、かりん。ご主人さまだぞ」
巳津がリードを引くとぐてっと寝ていたかりんが目を覚ます。私の姿を認めると、元気なく「わん」と吼えた。お疲れ様なのはわかっているけれど、お婆ちゃんになったものだなあとも思う。散歩なんて要らないんじゃないかとさえ。連れて行かないとそれはそれでうるさいので仕方がないが。
座って撫でてやると喜んでくれる。少し湿ってて触ってる方は微妙だけど。
家の近くで巳津からかりんを引き取っていたのだけれど、乾くまで待ってた方が良かったんじゃないだろうか。
最近忙しかったので、巳津にかりんの散歩代行を頼んでいたのだ。といっても金銭を渡すほど余裕がある身でもない。バイト代は巽の新作ができたら客になること。お金を払って食べてやってくれ、できれば感想も伝えてやって欲しいということだった。必要経費は請求させて貰えるので実質タダ飯だ。陰でこっそりサポートしてやりたいのだろう。旦那の心配をする古女房かよと言いたい。ま、二重の意味で私には言えないけど。
巽龍の創作料理は癖が強いが、私の口に合わないというわけでもない。私の食べっぷりが気に入ったのか、頼んでもいないものまで笑顔で出してくれる。
あの岩でできているような男が笑うとか、他人は信じないようだし、私も最初はわからなかった。変化が微妙すぎて。でもまあ慣れればわかる。
ともあれ、巳津の当初の思惑であろう公正な味見役からは離れて、コストパフォーマンスの良いおやつを確保してしまっている。
お陰で最近少し体重が……ってそんなことはどうでもいい。
私のスケッチブックにひらひらと手を振って巳津が口を開く。
「厭味ったらしくそんなもん見せんなって。ほらよ、かりんの引渡しだ……と言いたいところだが、正直に言うわ。すまねえ、一回逃がしちまった。今日の分はイイわ」
しっとりと濡れているかりんがぶるんと体を震わせるとまだ残っている河の水が飛沫となって飛び散った。
知っている。そのためにどんだけ駈けずり回ったことか。ちょっと買い物のついでに会ってきた猪塚が無駄に長話をして、挙句の果てに馴れ馴れしく家へ誘おうとしたのでかりんの散歩があるからと断ったのだ。そしたら、その場にかりんが現れたのでびっくりした。
そこからは、年寄のくせに健脚なかりんを追いかけ回すことになった。
猪塚には少しかわいそうだったかもしれないな。思ったよりもストレートに私が彼を避けていることを伝えてしまっただろうから。
「猫魔と宇喜多の関係を知りたくないか?」
という誘いに若干心が揺れたのは認めよう。
宇喜多先輩のことは知りたかったけど、のこのこ男の家についていくくらいなら自分で直接聞くわよっての。内容は同じなんだし。結果を受け止める覚悟の量が違うだけじゃない。それに、大変な強敵もいるらしいし。どうもあいつ……〝魔法少女〟が好きなんじゃないの? やたら正体探りたがってたみたいだし。だとしたら非常に勝ち目が薄い勝負になりそうだ。右手と左手でじゃんけんするような。でも――――この決意は今すぐに残しておくべきだと思ったと同時にペンが紙の上を滑る。
「はん? なんだいそりゃ?」
勝手に人の決意を盗み見る悪いヘビだ。巳津は私の顔と文字を交互に見ていたが、やがて何かを感じ取ったのか、いたずらっぽく笑うと言った。
「がんばれよ」
『負けません』