第三章 その9
後からのはらから聞いた話だが、湖に落ちたボクの首を引いてくれたのは、いつもは頼りないかりんだった。
一度も泳いだことなどないかりんが、ボクが湖に投げ出されると躊躇いも見せずに飛び込んでいったというのだ。
命の恩犬というかどうかはわからない。なぜなら、かりんが泳いだことがないのは誇張でもなんでもなく、幸運にもボクのところまで辿り着いてはしたものの闇雲に手足をばたつかせるだけで、結局はかりんの力では引き上げられることはなかったからだ。
だけど、ボクもかりんも現在生きてここにいる。
種明かしは単純で、遅れてきた〝魔法少女〟が水上で男をやっつけた後に助けてくれたのだ。ボクもかりんも一緒に。
湖中から一気に水上に飛び上がったのは朧気に覚えている。
その一瞬に、両脇にボクらを抱えた柔らかいカラダが、霞みがかった意識に刻まれている。
真夏の夜風に長い金髪を揺らす。
凹凸が少ない純潔なボディー。
夢色を光らせる布を巻き付けた外装。
若木が伸びるように細くしなやかな手足。
だけど――――
あどけなさの中にも強く後悔を滲ませ俯く顏。
降り注ぐ蒼い光に、澄み渡る瞳は暗く澱んで弱々しい。
非道な罪人を許さない強い意志を宿せる眉目が途切れ途切れの思い出に繰り返し現われる。ほんの少し、申し訳なさそうに翳を落とす表情は、その時のことを思い出す度いつも鮮明に甦る。
湖上に吹き上がった水しぶきが月夜に舞い、アーチを描いて降り注ごうとする一瞬に黒い虹を幻視する。全てが夜の闇に吸い込まれる中――眩しいほどに優しさが輝いていた。
その姿を見ていたのなら、感動も覚えただろう。感謝の念も懐いただろう。
そして、何よりも、こうなりたいという憧れに胸をときめかせざるを得なかったはずだ。ボクがそうであったように。
その時の〝魔法少女〟が言ったわけではないのだが、後に性犯罪者を対象にしている〝魔法少女〟には、他の動物を探知する能力に乏しいことがわかった。つまり、むしろかりんはボクと一緒だから助かったようなものなのかもしれない。
だが、かりんに感謝はしている。〝魔法少女〟に助けられたことしか覚えていなくても。
泳ぎを知らなかったかりんがどうして溺れたボクを助けに飛び込んだのかかりん本犬に訊けたとしてもわからないだろう。それと同じで、感謝というのは理解を超えたところにある気持ちの問題だからだとボクは思う。
だから、傷付いたのはらに泣いて欲しくもなかったし、〝魔法少女〟が後悔して欲しくもなかったし、かりんは重いからさっさと退いて欲しかったけど、そういう気持ちとも無関係に、冷たい湖の水を押し流すように、熱い涙とともに「ありがとう」と口にしていた。
あの事件は多くのものを奪って行った。
ボクから人を信じる心を、かりんから恐れずに突き進む勇気を、そして、のはらから――
単に魔法という単語からの連想なのだが、虹を超えて行った『オズの魔法使い』の一団は、足りないものを魔法使いに貰いに行こうとしたけれど、深夜の湖に掛かる黒い虹を超えたボクらは何を探さなければならなくなったのだろうか。