第三章 その8
のはらの服が絶望の夜にふわりと溶ける。
夏場のことで元から薄着ではあったが、普段から大半が見えていた肩もその下が何も覆われていないのとではまるで印象が違う。シルエットになってよくわからなくても、幼い胸を覆い隠すブラジャーがなく、最後の一枚に手を掛けようとしているのは、ゴムが伸びる形で感じ取れた。
精通もまだだったボクにその感覚はとらえどころのないふわふわとしたものだったが、幼児でも性的な興奮を求める傾向はある。いっそそこでボクが強制ワイセツにでも及んでいればまだマシだった。
萌芽を待つ性欲を抑えてしまったのは、皮肉にものはら自身の影響だった。
ボクは、のはらの未成熟な肢体に――――美しさを感じてしまっていた。裸婦像という言葉も知らず、母親の実用に特化した肉体しか知らないでいたのに、あの頃のボクは確かにそう感じていた。
それは何より、のはらの表情に引き寄せられていた。恥辱に練り固められながらも、その悍ましく分厚い層の下からは、なお何かを成そうとしている哀しくも強い光が発せられているようだった。
のはらが自分の腕を掴む。震えは恐怖や寒さからだけではなく、文字通り血が滲むほどの強い決意の現れだ。
「お父さん! あたしこんなのもうイヤ!」
のはらの声は、小さく、細く、そして鋭く湖上を駆け抜ける。
その残酷な真実の刃は、ボクの閉ざされた目蓋を切り取って、見たくもないものを見せつける。
のはらは、実の父親に度々――汚されていたのだということに。
ボクの上で押さえ付けていた変態――――犬神ヒロシに変化が生じた。
のはらのあからさまな拒絶に、ヒロシが腰を浮かせた。飼い犬に手を噛まれたとでも言いたげな、想像力が欠如した動揺と自分勝手な憤慨が入り雑じった、世界で一番醜い表情だ。
だが、舞い込んだ好機だった。密着が解けてヒロシの下からするりと身体を引き出せた。
恐ろしさで糞まで漏らしていた。
すぐ後ろには湖だ。
ボクは泳ぎには自信があった。たとえ真っ暗な夜の水中であっても、糞のこびりつく着衣のままでも――――実際に泳ぎ切れるかはともかくとして――――泳ぎには自信があったのだ。
「のはらから離れろ!」
だが、ボクの手は水を掻くことを拒否した。
ボクの足は震えながらも立ち上がることを選んだ。
息継ぎを覚えたばかりの未熟な泳者のように口をパクパクと開閉しながらも息苦しいままで。
のはらの勇気を無為にしても、見捨てることができなかった。
これでヒロシをノックアウトできるほどには、現実は甘くなかった。ボクの蛮勇は狂人の狂った歯車を元に戻し、狂える変態を甦らせてしまった。
変態の握り拳がボクの腹部にヒットする。
しかし、揺れる船上では拳から十分な破壊力が伝わる前にバランスが壊れていた。
墨を流したような黒い水面へ叩き込まれたボクは手足を動かして泳ごうとすらできなかった。おそらく、男の拳が悪いところに入ってしまっていたのだろう。溺れているという自覚もないままに湖底へと沈んでいく。ところが、首筋の辺りをぐいと引っ張る力を感じると少しずつ浮き上がろうとしていた。