第三章 その7
麻酔薬か電気ショックかわからないが、意識を失ったボクらは手漕ぎボートに乗せられていた。
湖上でボートを停めた男がボクの服を乱暴に脱がしにかかろうとしたところで記憶が再開するのだが。
「ワンッ!」
それは単なる偶然なのか、それともボクの意識が戻るのを待っていたのか。偶然というのならば、かりんものはらも同時に意識を取り戻したというのは正真正銘の偶然だろう。そこで男の計画に乱れが生じる。
ボクが何かをされていることを察したかりんが吼えたのだ。
「キャンッ!」
だが、男歯無言で拳を振り、かりんの横っ面を殴りつける。ボート上を転がったかりんはすっかり怯えてしまっていた。シッポを股の間に隠し、耳を垂らした姿は躾でもなんでもなくて本当に惨めだった。
威嚇ではなく痛みと恐怖でキャンキャンと鳴くかりんを煩がった男がナイフを振り上げた。それでもかりんは鳴き止まない。本当に降り下ろされると思った時、のはらが「やめて!」とその腕にすがりついた。
男に跨られた状態で見上げたボクには逆光を受け血走った目だけが爛々と光る男の姿が化物そのものに見えた。牙がぞろりと出てきそうな口を開くと、低い声でのはらに何かを告げた。
その時、ボクは――動けなかった。のはらが何かされるのではと思いながら――思ったからこそ、動けなかった。直前のかりんの勇気ある行動を見ても――見たからこそ。
またボク以外に矛先が向けば、その後のことはともかく、その間だけは助かるのだから。
実際にそこまで考えていたわけでもない。でも、その時のボクが動けなかったことをそう考えてしまうことはできてしまった。幼心に護りたいと思っていたのはらを囮にする、その『何もしない』という選択に、ボクはボク自身を信じられなくなった。
ボクが他人に心を許さないのは、性犯罪者たちに襲われ続けたばかりではないし、本質的にはきっとそんなことはどうでも良い。自分を信じられないやつが他人を信じるなんてできるものか。
ボクがそうして口も手も出さず地蔵のように見ている合間にも、のはらは変態に嬲られ続ける。肉体的な接触を持たず、精神で支配されているのだ。びくりと身体を強張らせ、首をかすかに振って拒否の意思を表すが、男が再びかりんへナイフを向けると、小さな手を胸元に合わせもぞもぞとボタンを外し出した。強風にはためく紙細工のように震える指先がなかなか思うように動いてくれなくて、嗚咽を漏らす彼女に鬼の目をした獣が分厚い刀身の獲物を閃かす。恐怖から来る緊張で吐きそうになるのはらを、ほんの少しだけ楽しそうに眺める鬼畜がこの場に存在することすら耐えられなくなった。そう感じた瞬間、胸の奥底で何かが爆発的に燃え上がる。血の気が引いて冷たくなった全身に熱が行き渡り、身体が勝手に動いた。
小柄な身体に勢いを付けて享楽のために浮かした腰から一気に引き抜く。
体力も技術も何も持たないガキができることといえば体当たりくらいだった。しかし、これが虚を衝いた形になり、予想以上に効いた。男は反対側まで吹き飛び、小型のボートは安定を失って大きく揺れる。
だが、反撃はここまでだった。虫けら以下と思っていた獲物に牙を剥かれた男は、憎しみを両の手に宿らせ殴りかかってきた。先刻までのように船底に固定されていたのならば、幼く柔らかな骨を叩き割り、一撃で死に至らしめていたのかもしれないほどの強力な打撃だった。
「やめて!」
再び、のはらの制止の叫びが上がった。
それが、のはらを救う最後のチャンスだったのかもしれない。