第三章 その5
***
湖の上だった。
空の星も、水面の煌めきも、手の届かないほどの広さに溢れている。水辺に寄せる並みの音は遠く、虫たちの声も届かないほどの夜の深さに沈んでいる。
寝苦しい暑さから切り取られ、生ゴミの臭いの元も遥か遠い。
穏やかで、優しいゆりかごのような――ただ、絶望だけがぷかぷかと浮いていた。
ぎしり……と揺れるボートに寝かされたボクは、せめてもの逃避として、一番近い幸せな時間を思い出そうとする。そのたった数時間前の事が余りにも遠かった。
※
「まーくん、早くっ、早くっ!」
眩しい太陽の向こうから溌剌とした声がボクを呼ぶ。しかし、どちらかと言えば外で遊ばない子供だったボクの体は元気よく駆け抜けるその声についていかない。
「……だから、ま、待てよ……」
炎天下、息も絶え絶えのボクには、呼び止める力も残っていなかった。
「わんっ、わんっ」
肩で息をするボクの横を白い塊がぐるぐると回って、飛び出して行った。
「あははっ! かりんの勝ち! かりん速い! えらい! わん、わんっ! あははっ!」
どしん、とぶつかった白く大きな犬を、尻餅をついて抱え込み、顔を舐めさせてやる。かりんの大きなお腹がひんやりとして気持ち良い。
そんなボクらの様子を、二組の男女が木陰から見詰めていた。
もちろん、変態のタッグがボクを狙うために一時的に共闘しているというわけではなく、普通にボクらの親たちだ。
ボクにものはらにも、まだ父親と呼べる人がいて、家庭の安全さを信じていられた頃のことだった。
隣同士で仲の良かった猫魔と犬神の家は、小学校に入ったばかりのボクらを連れて、その夏――運命の夏――数日間のキャンプに行っていたのだった。
それはきっと楽しかったに違いない。もうよく覚えていない。いや、全てを忘れたというのではない。必死に忘れようともがきもした。だけど、深い記憶の淵に沈んだのは楽しい思い出だけだった。断片的になった記憶の狭間では、今はもういない父や犬神家の皆と自然に触れ合いながら幸せに笑い合っていたのだろう。
あの場にあんな狂人が紛れ込んでさえいなければ、その思い出は今とは違うボクを形作ってくれていたのかもしれない。明るく素直で他人を信じることができて、幸せを疑うことのないボクを――
起こってしまったことをぼやいても仕方がないのだけれど。そう夢想せざるを得ない。
思い出したくない記憶がまた甦る。
でも、思い出すことで、何かに気付けるはずだと、今は思った。