第三章 その4
「……っ!」
躊躇ったのは、川面が目に飛び込んできたから。
怖い。
勿論、増水した川は危険だ。でも、それだけが理由じゃない。海でも湖でもプールでも、時には銭湯や温泉のような巨大浴場でさえも、一定の量を超えた水に、理性を超えた恐怖を感じる。感じるようになってしまった。
手足を浸さなくても、視界に入るだけで足が竦む。
だったら、目を瞑ってしまえ!
見るから怖いなら、見なければ良い。これで、かりんを追うのに障害は何もない。欄干を飛び越え川にダイブする。
この恐怖症のせいで、ボクはある時期から水泳を避けてきた。だから、水と言う凶器の恐ろしさを甘く見ていた。
1秒に満たない浮遊感の後、体の片側を衝撃が襲う。不自然な体勢で落下したボクの身体は水面を叩いた。数メートル分の落下衝撃が襲ってくる。
半身がちぎれ飛んだように感覚がなくなる。首だけは守っていたが身体が思うように動いてくれない。焦っていると、鼻から口から水が入り込んでくる。
硬く拒んだかと思えば、とらえどころのない柔軟さで絡めとり纏わり付き、ボクを飲み込んでいく。
いや、飲んでいるのはボクの方なのか。
水道水とはまったく違う不純物の入り雑じった川水が口の中に押し寄せる。吐き出したいと反射的に思ったが、次から次に送り込まれる液体は留まることがない。鼻から入った水は独特の刺激を伴って思考を奪いまくる。
まるで脳に直接流し込まれているのではないかという恐怖をもたらした。
とにかくどうにかしなくちゃいけないと必死に手足を掻く。考えてどうにもならなかった四肢の一時的な運動麻痺が、思考が混乱した今になって復活するとは。しかし、出鱈目に動かした手も足も効率的に水を押し退けて進ませることはなく、水を吸った衣服が絡みついて逆に動きを制限してきてしまい、それがまた焦りを呼び込む。
要するに、ボクは溺れていた。
数年来まともに泳ぎを習おうとしていなかったのだから水に飛び込む前からこうなるのはわかっていた。
だから、かりんも同じように苦しんでいるかもしれないと、なお一層水中で掻く手足を止められない。命を削って1ミリでも近づけるのならば上等だ。現実はただ流されていただけなのだろうが。
ガッ、と大きな衝撃があった。大きな岩に頭をぶつけたらしい。流石にこれは効いた。流れる石でもないのに。
そこでまた身体が動かなくなった。スパークする脳内は予告もなしに過去の映像を映し出した。
だから、その声は――喉を振り絞り泣き叫びに近い呼び声、遠い記憶の彼方にあった懐かしい呼び掛けは――現実のものだったのか、定かでない。
「マーくん!」