第三章 その3
駆ける。丘を駆け降り、商店街を駆け抜け、武蔵大橋へと駆け上がる。
一息も入れずに、河を渡る橋の上に出た。ボクの町に行くのなら通学路にも使っているこの道が一番近い。後は橋を渡りさえすれば良いだけだった。
のはらの居場所なんてわからない。でも、何もせずに手遅れになったら――そう思うと、運動で心臓がバクバクいっているのか、それ以外の理由で胸が破裂しそうなのかも何もかもがわからない。ただ身体の動くままに突き動かされてここまできた。
ふわっと涼しい風が髪を撫でる。
河の上流を見た。左岸には周良町の家並みが並ぶ。右岸の方向には、ここからでは見えないが猫魔の家がある武蔵町。そして、河を挟んで周良町の飛び地になった一角に犬神の家があるはずだった。
河面に目を落とすと、ぎょっとした。先日の雨で増水した濁流が広がっている。
水の流れを見ていると恐ろしくなって遠くへ視線を移す。ボクがこんなに一生懸命走っている時に、あいつはどこにいるんだ。お前もちょっとは走ってみろ。そんな無茶を思って気を紛らわせるのが精一杯で、また開けた視界が欲しくなって顔を上げた。
「そう、あんな具合に!」
遠くの土手を、犬神のはらが走り抜けていく。
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「あ?」
足が鉛に変わったみたいに一歩も動かなくなった。今まで取りこぼしていた酸素を一気に取り戻そうというほどに呼吸も荒くなる。疲れがどっと押し寄せるというのはこういうことだろう。
あのバカなんであんなとこにいるんだー!
脱力感に見舞われたボクがへたっていると、そこを狙い済ましたように予想外の人物から声がかけられた。
「あら、なんでこんなとこいるの? マネちゃん?」
ライトバンに乗った、オカマ――騎馬駆だった。呼吸を整えるのに精一杯で横目で見るだけでいたが、速度を緩めた車は、通り過ぎることもなくボクの横に停まった。
「ちょっと、すごい汗じゃない? だいじょうぶ? 送ったげようか?」
いつものようなナヨナヨした口調で明るく誘ってくる。
「いいえ、結構です」
「家までは行かないわよ。涼しいところまででもいいんじゃない?」
「ここも十分涼しいですよ」
「遠慮することないのに」
「遠慮……? いいえ、警戒ですよ。魔法少女を殺そうなんて考えてる人の車にウッカリ乗れないでしょう?」
その言葉が引き金になって、空気が変わった。あれだけ苦しかった呼吸は平常に戻り、耳の奥をガンガンと揺さぶる脈動は正確なリズムを刻み出す。
「……どうしてわかった?」
とぼける気はないらしい。声から完全に遊びが消えた。
「まあ、単なる消去法。あんたには関係ないことさ」
犬娘を炙り出す際に使った関係図に犯人が含まれていない可能性もゼロではなかったが賭けに出た。これでハズレならイチからやり直しだから同じことだ。ハズレりゃ謝れば良い。本当は巽さん巳津さんのダブルドラゴンと宇喜多が残っていたが、あの人たちはどう考えてもやりそうにない。
「ああ、本当なんですね。どうしてあんなことしてたんですか……?」
「要するにね、あいつらが使い物にならないってことよ」
「魔法少女が?」
「そうよ。……っと、このしゃべりももういいか。俺は役にはまっちまうと抜けにくいのがやっかいだな。文字通り馬脚も現したことだし、改めて自己紹介でもしとくかね。騎馬駆だ。元警官のな。だから、あいつらで100%性犯罪を防げてるなんて嘘っぱちもいいとこだってのも知ってる。俺の大切なヒトは性的な悪戯目的で殺されたにも関わらず、あいつらは助けにも現れなかった」
宇佐美の一件などのように見過ごされている性犯罪は実は多い。しかし――
「そ、それは……性犯罪チェッカーは年々更新されているんだから今は違うかもしれないじゃないか……!」
「それで納得できるってもんでもないんだがな……少しテストしてみたんだ」
「テスト?」
「ああ、マネちゃんにいつもちょっかい掛けてたろ、俺?」
確かに。通学路なのをいいことにいつも待ち伏せを掛けられていた。
「いっつも迷惑してた」
「でも、俺を成敗するために魔法少女が現れたことなんてないだろ? そう、一度もない。最初はあいさつ程度。それを段々と本気にしていった。最後の方は囮を用意しなくちゃそのまま押し倒してしまいそうなほどにな。妙にあの近辺で襲われることが多かったろ? 実は俺がヘンタイをけしかけてたってわけだ。チェッカーが厳しくなった? ザルじゃねえかよ! 俺の大切なヒトを殺した奴もそうやって性犯罪になるギリギリのラインを狙って近づいた。だが、アイツはもっと簡単だったろうな。何しろ生きている人間には興味なかったんだから。手を伸ばせば届く位置になるのをじっと待ち、命を奪ってから欲望を遂げたんだ」
「そ、それって……」
走り続けたことによる胃の異変が今頃襲ってきたかのような吐き気に見舞われた。落ち着け、どんな過去があろうと、今は今だ。
ん? 聞き捨てならない箇所があったような。騎馬がボクに本気だった……。
「いや、待てよ。あんたの大切なヒトってのは……」
「ああ、もちろんゲイだ」
「やっぱりオカマじゃん」
「バカヤロウ! ゲイをひと括りにするんじゃねえ! そういう理解を放棄したやつらが蔓延ってるから悲劇は止まらねえんだろうが!」
騎馬が嘶く。まずい。興奮させても利はない。
「あ、ああ、それは悪かったよ。別にボクも個人の嗜好にまで口出す気はないし。ボクの身が安全ならそれで良いんだしさ」
なだめすかしが上手くいくだろうかと騎馬の表情を見ると、微妙にばつの悪そうな顔をして目を逸らしている。
「べ、別に、マネちゃんを責めてるわけじゃないさ」
しゅんとなった騎馬は慈しむように顔の筋肉を和らげた。
だが、ボクの中の霊感山勘第六感が総動員してある種の危険を告げる警鐘を鳴らしまくる。
「でも、俺はマネちゃんとの将来を真剣に考えたいんだ!」
「断る!」
思わず突き放す言い方をしてしまった。まずいと思ったが、すでに騎馬の目は据わっていた。ライトバンの中に何か指示を出す。やはり、仲間がいたのか。体力が尽きかけてしまっている、この無防備な状況を呪いたくなった。
しかし、騎馬の行動は予想外だった。車内から出てきた騎馬の、その腕に抱えられていたのは白く美しい毛並の大型犬――かりんだった。
「どうして……」
「ちょっとさっきそこで拾ったんだよ……このワン公、水が怖いんだろ?」
事実だ。犬の癖にというほど犬の習性に詳しくないが、水辺を異常に怖がる。そう、ボクと同じように。
そこまでリサーチ済みかよ。拾ったってのも疑わしい。さっき走っていたのはらはよくよく思い出すとかりんの首輪を持っていたような気がする。遠くてよく見えなかったが。
「何を……する気だ?」
騎馬の大柄な身体はかりんをぬいぐるみのように軽々と玩ぶ。
かりんはといえば、極楽極楽シアワセ~ってな顔してるな。仔犬時代でも思い出しているのだろうか。緊張感も糞もない。場合によってはリアルに天国行きだというのに。
「魔法少女って死ぬと後任がそこに住んでいる人の中から選ばれるんだろ? だったら俺たちの仲間が当選するまでぶっ殺していけば良いんじゃね?」
騎馬の思惑に電撃のように閃きが走る。
〝魔法少女〟になり替わる。それが目的……なのか?
〝魔法少女〟に選考の基準などない。どこの誰がいつ選ばれてもおかしくない。大人も子供も男も女も人間も動物も善人も悪人でさえ――。
そして、前代未聞なのだろうが、〝魔法少女〟を殺した奴が選ばれることだって――ないとは言い切れないだろう。
もちろん、この町でさえ何万人という人が住んでいるわけで、多少サイクルを早くしたって順番が回ってくるとは限らない。
だが、それでも構わないのだろう。当たるまで殺し続ければ良いのだ。
その動機を騎馬に問い質す気にもなれなかった。この異常者から一刻も早く遠ざかりたい。いや、逃げ出したい。でも、それはできない。なぜなら――
「かりんに何をする気かって訊いてるんだよ!」
「ここから落とす」
橋の欄干のすぐ外はもう河だ。安全ネットくらいつけとけ。今更施工者に文句を言っても遅い。落ち着かなくてはいけない。考えることで好機を見つけ出すことはできないかもしれないが、考えないことで機を逃すのはもってのほかだ。
「それで……要求は?」
「仲間になってくれ。それと、俺の運命の人に」
「バカですか? 少しでも嫌がれば速攻でアウトですよ。やってくる魔法少女を殺せるならともかく」
騎馬が鼻で笑ったような気がした。
「だから、ほんの少し俺を好きになってくれれば良いのさ。後は、忘れられないようにしてやるよ。クスリでもなんでも使ってな」
その言葉に絶望の臭いを嗅ぎ取って頭がくらくらとしてきた。
いや、絶望は早い。かりんなんか放っておけばいい。何がなんでも抵抗して、〝魔法少女〟を呼べばボクの勝ちなんだ。そのためならば、橋から落とされようが、この場で縊り殺されようが、必要な犠牲と割り切ればいいんだ。それで絶望は払拭される。割り切れ。割り切れ!
だけど、どうしても絶望は消えなかった。心の中を苦さが満たし、顔にまで溢れてしまいそうだ。
その時、怯えて大人しくなっていたかりんが突然暴れ出した。仮初の勝利に酔い痴れていた騎馬の手を上半身を捻ったかりんの牙が噛み裂いた。その痛みに騎馬はかりんの体を支えきれなくなり手を離す。運動能力の衰えているかりんはそのまま河の中へ――