第二章 その4
結局、のはらとは言葉を交わさずにその日の全授業は終わった。
まあ、元から話す気なんて無かったからかえってちょうど良いくらいだ。
のはらのいなくなった教室でなんとなくぼーっとしていた。降り出しそうだった空模様は午後になって回復していて、照明を落としていてもほんのりとした朱色が直方体の空間に広がる。でも、湿気を含んだ空気が教室の中のワックスだとか置きっぱなしの教科書だとかの臭いをまとわりつかせてくるのだから気分までは晴れ晴れとしてこなかった。
それなのに、ああそれなのに、どうしてこいつは一点の曇りのない――パンツを見せているのだろうか。
床にひっくり返ってサービスシーンを繰り広げている日辻潤を見て、ボクはその日1番の溜息を吐いた。
経緯はこうだ。
そろそろ帰ろうかと鞄を手に取ろうとしたが指を滑らせて床に落としてしまった。身を屈めて拾おうとしたところに、ガラリとドアを開け、頭にメモを生やした日辻が入ってくる。夕方になると数が増えるのは初めて知った。
メモさんの羊はキョロキョロと辺りを見回して誰かを捜しているようだった。こちらには気付いていないらしかったから、薄暗さが手伝ったのかよっぽどフシアナなのかだろう。そもそも注意深いヤツがあんな忘れっぽいわけがない。
まあ、ボクを探しているわけではないだろうし、変なことにならないように身を隠したままにしておいた。
「おじょ――」
「どーん!」
どこからか響いた玉子の声に、口を開きかけたままつんのめって倒れる日辻。前方1回転半してスカートはめくれ上がる。なんともアクロバティックなパンツ見せだった。
「……まったく、ガッコではそう呼ぶなと……あ、まんまちゃんおはよう」
日辻に続いて教室に入ってきた玉子は、キッと吊り上げた目をふにゃりと戻し、見当外れの挨拶をする。
「おはやくねえよ。危うく明日の挨拶になるところだったぞ」
「痛た……、あ! あ、お――烏丸さんどちらへ行かれていたのですか?」
パンツを見せっぱなしだった日辻は流れから開脚前転して体勢を立て直した。すぐにボクを見つけてぎょっとした顔になったが、気を取り直して玉子に話しかける。
玉子は日辻に半眼を向けると、ぼそっと答える。
「ウンコよ、ウンコ」
「あわわ、そんなはしたない……」
まあ、ボクも下品なことを言うのはどうかと思うのだが、お嬢様学校でもない同級生なんだし気にすることもないだろうに。
「結構長かったよな。難産?」
「そうでもなかったわ。妊娠3日の元気なお子さん。でもま、せっかく事情説明してたのにパパが勝手に帰ろうとするくらいは長かったようねえ」
「ボクはパパじゃねえし、ババしてたのはお前だ。クソ待ちなんていつまでもやってられっかよ。思わず黄昏ちゃったぜ」
どうせすぐに帰る気なんてなかったんだけど。
「ま、誰彼時には早いわね。まんまちゃん帰ろ? うるるんはどうぞごゆるりと」
『うるるん』と親しげな呼び名に悪意を込め、鞄をひっつかむと背を向ける。しかし、ボクは未だ床にへたり込む日辻を見て思いつくことがあった。
「あ、玉子悪い。ボクちょっと日辻とデート」
「「はぁ?」」
玉子と日辻が同時に聞き返す。
「日辻、これからちょっと付き合えよ」
「な、なんで私がそんなことを……」
突然のことに抗議しようとする日辻の耳元にそっと近づき、「この前昼飯奢ってやったろ?」と囁く。貸しは返してもらうのがスジというものだ。日辻も、なぜか玉子の方を見てお許しを伺うような顔になる。
「別に玉子と帰る約束なんて今までもいくらでも反故にしてんだから気にすんな」
ボクとの貸し借りはそうはいかないけどな。もちろん、ただ一緒に帰ろうってわけじゃないが。
小声で告げると、瞳を潤ませつつも拒まない。
だが、玉子の方はなおも不機嫌そうに立っていた。
「なに? 日辻に用でもあるの?」
「ええわ。まんまちゃんはうるるんお持ち帰りでもしとっとたら」
玉子はそう言うと、ぷいと顔を背けて立ち去った。
「か、烏丸さん……!」
すがるように手を伸ばす日辻を置き去りにして。