第一章 その8
「おい、そこの迷えるニャンコよ」
「迷ってません」
さて、帰るか。
放課後の教室、特にボクの周りに人はいない。声はすれども姿は見えない。だとしたらそれは気のせいというものだろう。
「迷ってる者は大抵そう言うものだ。迷いすぎて一周して徒労感を味わう前に我に尋ねてみるが良いぞ」
「血を迷わす趣味はないですから」
教室のドアからおいでおいでと手招きだけが顔を出す。幽霊だと仮定する。気持ち悪いので見なかったことにしよう。
「気の迷いをする予定はないか?」
「気の迷いをわざわざ引き起こすような本気の迷いは今後一切ありません」
柱から半身を出してこちらを見る女と一瞬目が合った。
宇喜多示申――瀬土高校3年女子。父親と2人暮しながら特に貧困にあえぐこともなくたまにバイトをしたりもする。成績は中の上。部活動なし。身長160センチ体重45キロ。バスト82、ウエスト57、ヒップ81。プロフィールだけなら普通な奴だが、我が校始まって以来の極めつけの変人で通っている。
つやつやしたストレートロングの黒髪を垂らしたルックスは涼やかな目元と相俟って和風美人として外見だけなら人気もある。ただし、浮いた話を聞かないのは外見だけに引かれた愚者を跳ね除けるだけの奇癖があるからだ。
「我は汝を教え導く神だぞ。悪いことは言わんちょろっと寄っていけ」
自称〝神〟。これで説明は十分だろう。
なんだったら、『オミワタリ事件』だとか『続・ファイナルデッドコークスクリュー事件』だとかを瀬土高生に聞いてみると良い。
今述べた特徴そのままの女が、親指をくいっと引っかけてボクを呼ぶ。呼び込みご苦労様です。棒立ちで無表情の彼女は〝神〟様だけど。
「センパイには悪いこと言っている自覚がないだけですから結構です」
いつの間にか顔がくっつくくらいの距離に来ているのも無自覚なんだろう。
独特な香油を使っている頭部から目を逸らす。キラキラとした光の輪を見ていると変なテンプテーションに掛かってしまいそうだ。外見だけなら神と言わずとも天使級だろう。外面と内面の不一致という点では親近感を持たないでもない。
ぷいっと顔を背けたボクが乗り気でないと見て取ると、宇喜多は手を替えてきた。
「菓子が食べたくはないか?」
ほれほれ、と内ポケットから何かをチラチラと見せびらかす。前例から言うと、あられだとかすあまの類だろうか。普通の高校生が好んで食すようなもんじゃない。物で釣ろうというのならそれなりの物を用意して欲しいのだが。
「仕方ないですね……ちょっとだけですよ?」
勘違いしないでもらいたいが、物に釣られたわけではなく、必死なセンパイを助けてあげたいだけだ。案の定、宇喜多の顔がぱあっと明るくなる。
「そうか、ではこれは成功報酬ということで汝の道が輝いたらば取りに来るが良いぞ」
ホントにニャンコは食い意地が汚いのう困ったちゃんじゃなどと口にしているが、ボクは1度だって安上がりに喜んだ覚えはねえよ。だって今までもらったことねえし。
いそいそとお菓子の袋をポケットの奥の方へと押し込む。後でくれる気などあるはずもない。かといって寂しくて今にも泣きそうな子からお菓子を取り上げるほどボクは非情じゃないつもりだ。
ちなみに、ここまでのやりとりを傍で見ていたとしたら、宇喜多の表情は変化がない…ように見えたはずだ。宇喜多の鉄仮面は有名で表情筋が全く仕事をしていない。 黒目がちの瞳は半分まぶたが降りている状態だし、抜けるように白い肌はそのままどこか白一色の異次元にでも抜け出てしまっているんじゃなかというほど変化を見せないし、冷や汗はおろか夏場でも汗を掻かない特異体質だしで、彼女の内面を推し量るサインは見当たらない。
しかし、常人の標準に合わせずによく観察すると意外と多感であることをボクは知っている。まばたきの回数が1/60秒ずれるとか、奥歯の噛み締めが0.01ミリ変化するとか、鼻息で揺れる産毛の数が変わるとか。この違い、わかるのはボクくらいなものだろう。
この程度の観察もできないのは、彼女をじっと見詰めるということ自体が大きな壁となっているからでもある。ただ黙っているだけでも圧力を感じさせる彼女を前に常人なら3秒耐えられれば上出来だ。にらめっこで負けたことがないんじゃないだろうか。
「また占いですか?」
「我は占いはせんよ」
だが、連れ込まれようとしている部屋に掛かっている表札には「占い研究会」とある。がらりとドアを開けると中には誰もいない。宇喜多はそこへ我が物顔でずかずかと踏み込む。宇喜多がこの研究会に所属していたり、ひとりで部の存続のために奮起していたりするわけではなく、毎日入り浸るものだから正規メンバーが寄りつかなくなっているだけだ。宇喜多の占いを信じているような連中でも、専らそれだけをしたいというわけでもない。占いの館に通いつめる女性のすべてが占い師になるわけでもないのと同じだ。
「ただの茶飲み話を楽しめばよかろ」
そう嘯く宇喜多の言葉の通り、茶器やコンロは揃っているし、活動費で食料品も賄っている。こんな研究会に金など出すものかと思うのだが、生徒会にシンパがいるらしい。占い研究会に黒い金が流入し、それを我が物顔で使い倒しているわけだ。人脈というのも結構侮れない。占い研究会会員はおこぼれに預かっているから疎ましく思いながらもおおっぴらに文句が言えないのだろう。
「我の言葉は世の真理を見通した神の言葉なわけよ」
神は日本語が達者なようだ。ただし、愚昧なボクには心理であるはずのお言葉がさっぱりわからない。宇喜多語を翻訳する通訳とかどこかにいないものか。
「でも、占ってますよね」
「占いというのはな、受け手が良いように解釈するものよ。であれば、我が真理を開陳して行けば辿り着く場所は同じとなるは必然であろ?」
「そういうもんですかね。で、真理ってなんですか?」
真面目に聞くつもりもないのだが、ボクの言葉を受けた宇喜多は唇に人差し指を這わせると半眼になって薄く笑う。それはぴくりとも顔面の皮膚を動かすこともないままに。その仕草には男も女も惑わせてしまう魔力染みたものを感じないでもない。〝魔法少女〟でさえ到達し得ない魔女の領域へとこの怪人は踏み込んでいるのだろうかという錯覚さえ覚える。
ボクが宇喜多を疎ましく思っていても、毎回言いなりになってしまうのも、人外の力が働いてでもいるのだろうか。
そんなボクの心を見透かして甚振っていたのでもないだろうが、掌に汗が滲むほどの時間が過ぎて――宇喜多は口を開く。
「8月生まれは右から物事を始めてはならんな」
「ボクは1月生まれだ。っていうか右からってどういうことだよ」
「右足から歩き出すと碌なことが起こらんとかの」
そこでビターンと大きな音が聞こえた。
日辻潤がうつ伏せに倒れていた。後ろ頭でもわかる。いつの間にこんな近くにいたんだろうか。存在感のない奴だ。そして、パンツ丸出しで転がっている姿を見て思う。ジャージの下だけ脱いだらしい。あざとい。そこまでやってなぜ存在感がないのか不思議だ。
「何をやっているんだ、お前」
「べ、別に良いだろう……そんなこと」
好意の欠片すら見せない強気な態度がSっ気に火をつける。
「ああ、お前がしましまパンツ見せる趣味があろうがなかろうが知ったこっちゃないな。その代わりに知っていることを教えてやろうか? お前、8月生まれだろ」
「……!」
びくんっと背筋を突っ張らせる日辻。判り易い反応だ。カマ掛けるつもりで当てずっぽうを言ったわけでもない。倒れた時の日辻は足をクロスさせていて左足が後ろだった。その事実に宇喜多の話を耳にしていたのかもしれないという推測を絡めれば導き出される結論だ。日辻はこの辺りで立ち止まっていた。そして再び歩き出した。右足から。しかし、右足からはよくないと聞いて、慌てて左足を前に出そうとしたが、もつれて倒れてしまったということだ。
何でその程度で転倒するかねこいつは。尋常ではない。
むしろわからないのは宇喜多が突然8月生まれの話題を振ってきたことだ。こういう結果まで見越した予知なのか。ただ、そこは考えてもわからなさそうなのでスルーする。
「あ、こいつ、同じクラスの日辻潤って言います。こいつのこと占ってみてください」
どうせ碌なことを言われないに決まっている。ボクに逆らった愚かな娘には良い薬だ。そんなボクの黒い期待に応えてくれたわけでもないが宇喜多はより深く瞼を閉じると不吉を運んできた。
「今月一杯くらいは避けられない不幸が多い。気をつけるが良いぞ。特に女難にな」
日辻は女だぞ。大丈夫かこいつの占い。
「今月いっぱいおっぱいに気をつけるわけですね……!」
「YES」
いや、こいつら頭大丈夫か。
それでも日辻は礼を言って駆けていった。ずいぶん急いでいるようだった。探し物でもしているのかもしれない。
それからしばらく世間話みたいなことを話してボクも宇喜多と別れた。最近になってあちらの方から接触が増えたのだが、どうも意図が汲み取れ切れていない。いくら宇喜多が超有名人であり、ボクが超可愛くても、学年も違うしそうそう接点なんてあるはずないのだが。
ただまあ、こんな奇人変人でもボクと関わりがあるという点においては否定できない。宇喜多が〝魔法少女〟だった場合の試算をしてみることにする。
なぜか宇喜多には信者らしきものは付いている。占いの的中率が異常に高いことが知れ渡っているからだ。どれだけ眉唾物だと思ってみても、信じてしまう人にとっては替え難い現実なのだろう。宗教がなくならないわけだ。
宇喜多を手駒に加えてもメリットはなさそうだ。人望というか変なカリスマ性はあるみたいだが、占いについては出し惜しみするわけでもないし、宇喜多を直接動かせば逆に付いてこない者も多そうな気がする。
……ただ、あの澄ました面をひっぺがしたらどうなるのかというのは興味がある。
しかし、宇喜多のようなちょっと宗教入ってるようなのが〝魔法少女〟をやれるのだろうか? 中世のことを持ち出しても仕方ないけれど、魔女裁判の歴史があるように信仰というのは厄介なものだ。宗教ちゃんぽん大国日本といってもそれは一般人レベルの話であって本気で神だ仏だとやってる人には自分の抱く神以外を受け入れない、というようなこともあるだろう。
〝魔法少女〟が信仰の対象になるのかと言われれば、別にそうは思わない人も多いのだろうが、この新たな秩序を世界にもたらした偶像に対しては、批判的な活動を行っている人たちが少なからずいると言うのも、また事実なのだ。
神が凶悪な性犯罪者から哀れな子羊を救わなくとも、〝魔法少女〟は違う。危機的状況下における超常体験によってそこに神秘を見いだす人もいるだろう。
だが、己が殉じる信仰と〝魔法少女〟を両立した例もちゃんと存在している。ちょっと名前を出すのが憚られるような過激な教団の教祖がそうだったのだ。
手記は特殊な書かれ方をしていた。元々、毎日日記を付ける人物だったようだが、日記といっても天気の他には今日は何を食べただののメモ程度の記述なのだが、それらに混じって到底食べられそうもない珍妙なものを食べたと記されている。
三月十五日 晴れ(※太陽の絵)
じゃがいも、木苺のジャム、豆のスープを食べた。
三月十六日 曇り(※困っている顔)
じゃがいも、キノコ、豆のスープとスパナを食べた。
三月十七日 曇り(※目を閉じた顔)
野草、チーズのサラダ、豆のスープとスパナを食べた。
引用終わり。
当然こんなものをそのまま見せられても意味がわからないので研究者による解説本が出回っている。解説によればこの教祖は過度な粗食が祟って余り長くは生きられなかったとある。豆のスープとあるがインゲン豆を一粒入れただけという煮汁以下の代物だったらしい。
スパナというのは〝魔法少女〟への変身を暗示していると注釈が付けられていた。
公表された当時は宣伝効果となったのか入信者が急増した。本人には特に布教に利用しようという意図はなかったらしいのが皮肉なところだ。ところが、真に皮肉なことは既存の信徒もごっそりと抜けてしまったことだった。理由は「教祖に騙された」。言ってみれば敵対関係にあるような教団だったのだ。結局、このことによる信者の増減はトントンだったらしい。
今はそのにわか信者も自然減少してしまい、細々と彼らの神を崇めているということだ。
まあ、教義というのが「自己の性欲の絶対視」というもので、有体に言えば相手の都合などおかまいなくヤリまくれという具合だった。性欲が昂ぶるのは神の思し召しとかそんな理屈だったと思う。実践レベルには達していなかったのが救いというか、法に触れるような信徒は魔法教祖自らが刈り取っていたという現実もある。彼女が何を思ってそうしていたのかは諸説分かれるところである。
教祖が〝魔法少女〟であったというだけで信仰が穢されたと感じる教義であったにも拘わらず、彼女は〝魔法少女〟をやり続けたわけだ。
ただし、信仰に殉じて〝魔法少女〟になることを選択しなかったというケースがあったとしても表沙汰になることはないわけであるし、魔法教祖個人が折り合いをつけられたというだけの話でもある。
宇喜多についてもその頭の中にどんな妄想を飼っているのかは知らない。だが、〝魔法少女〟という異界を受け入れられるかどうかもわからないのだから、〝魔法少女〟ではありえないという結論にも至らないというのが現時点で取るべきスタンスだろう。