「毒見なんて誰にでもできる」と婚約を破棄されましたので、十年分の引き継ぎ書をお渡しして辞めました――その舌は、十年かけないと作れません
「セリア・アルディナ。お前との婚約を破棄する」
秋の夜会の、曲と曲のあいだだった。楽団が弓を下ろしたばかりの静けさに、王太子オルテンス・ラ・ヴァンドール殿下の声だけがよく通った。
私は銀の小皿を持っていた。殿下に供される鴨のパテを、ひと匙だけ取り分けたものだ。十年、毎晩やってきたことだった。
「理由をお聞かせいただけますか」
「愛のない婚約に、何の意味がある」
殿下の左腕には、ネリー・カサール男爵令嬢が寄り添っていた。淡い金の髪の、まだ十八の娘だ。悪い子ではない。夜会で三度ほど言葉を交わしたことがある。
「私はネリーと生きる。父上には私から話す」
広間の三百人が、いっせいにこちらを向いた。誰も驚いた顔をしていなかった。噂は先に回っていたのだろう。私だけが知らなかったらしい。
「承知いたしました」
そう言って皿を置こうとしたとき、殿下が続けた。
「それと、毒見役の任も解く」
指先が止まった。
「ネリーが、自分がやると言ってくれた。私のために毒を飲むと。……セリア、お前は十年、あれを義務だと言い続けたな。義務でやられる側の気持ちを、一度でも考えたことがあるか」
「殿下。毒見役の任免は、侍従長と宮廷薬師長の連署がなければ——」
「今、私が解いた」
ネリー嬢が小さく手を挙げた。悪気のない挙げ方だった。
「あの、セリア様。私、平気です。怖くないですから」彼女は笑った。「毒見って、お口に入れて、飲み込むだけ、ですよね?」
「そうだ」殿下が言った。「誰にでもできる。それを十年、さも大役のような顔で——」
そこから先は聞かなかった。
私は銀の小皿を口に運んだ。鴨のパテが舌の上でほどけて、消えていく。
何の味もしない。
毒は入っていない。それだけが分かった。
「毒はございません。どうぞ」
皿を給仕に返し、膝を折って礼をした。十年でいちばん深く折った。
◆
翌朝、私は侍従長室に二通の書類を出した。婚約解消の同意書と、毒見役の辞任届である。
侍従長のガレット卿は、辞任届を三度読み直した。
「……アルディナ嬢。昨夜のことは、まだ正式な手続きを踏んでおりません。撤回させることもできます」
「殿下は広間で三百人に告げられました。撤回できるのは殿下だけです」
「しかし、毒見役は」
「はい。ですから、引き継ぎをいたします」
『王宮毒見役職務規定』第十四条。任を離れる者は、後任に対し引き継ぎ書を作成し、これを侍従長および宮廷薬師長に提出しなければならない。
十年前、十歳の私にこの条文を暗唱させたのは父だった。アルディナ伯爵家は三代にわたって王家に毒見役を出している。次女は嫁がせ、三女を宮廷に差し出す。そういう家だ。
「規定どおり、七日以内に用意します。写しは薬師長へ」
「……セリア嬢」ガレット卿が声を落とした。「あなたは、何も言わないのですか」
「何をでしょう」
「毒見が誰にでもできる仕事だと、昨夜、殿下はおっしゃった」
私は少し考えた。
「殿下がそうお思いなら、そうなのでしょう」
嘘だった。
けれど説明する気はもうなかった。十年、一度も聞かれなかったことを、捨てられた日に自分から言い出すのは、みっともない。
だから書くことにした。全部、書類にして置いていく。読むか読まないかは、あの方が決めればいい。
それが、私の決めたことだった。
◆
引き継ぎ書は、七日かけて四十二枚になった。
第一部が「後任の耐性形成計画」である。
毒見役は、毒を飲む仕事ではない。飲んで生き残る仕事だ。そのために私たちは、身体のほうを先に作る。
十歳の秋。最初に飲まされたのは、トリカブトの根を六千倍に薄めた水を、匙の先に一滴だけ。唇が痺れて、半日、口が閉じられなかった。それを三日に一度、量を変えずに二年続けた。三年目に二滴になった。
ヒ素はもっと遅い。五年かけて、日に髪の毛一本ぶんの重さまで持っていく。毒はそれぞれ違う道を通るから、一種類ずつ、順番に、身体へ道を覚えさせるしかない。
私が扱えるようになったのは、十年で十九種類。宮廷が想定している毒は全部で三十一種類ある。残りの十二種は、まだ身体が受け付けない。
計画表には、その十九種の名と、いま私の身体が耐えられる量と、そこまでに要した年月を、一種ずつ書いた。
ネリー・カサール嬢が今の私と同じところに立つまでに要する年月は、いちばん急いで、九年二か月。
この十年で、私の身体には毒のほかにも書き足されたものがある。
爪は縦に筋が入り、白い部分が消えた。髪は毎年ひと束ずつ細くなる。冬になると指先が青くなって、二月ほど戻らない。酒は一滴も飲めない。熱い茶も飲めない。舌の表面が薄いので、火傷をすると一週間、識別ができなくなる。
夜会で私が何も口にしないのを、社交嫌いだと言う人がいた。訂正したことはない。
第二部が「識別記録」。
毒は味で見つける。香りでは遅い。飲み込んでからでは間に合わない。舌に乗せた一秒で分からなければ、毒見役は要らない。
トリカブトは甘い。最初に甘くて、そのあと舌の奥がすっと冷える。
ヒ素は味がない。ないことが味だ。スープの塩気の輪郭が、内側から一枚剥がれる。
夾竹桃は青い草の匂いが後ろに残る。ベラドンナは乾く。
こういうことを、私は三千日ぶん手帳に書いてきた。それを清書した。
第三部は、一枚だけだった。
『引き継ぎ不能事項』
本職の識別能力は、味覚の恒常的低下と引き換えに獲得されたものである。現任者は現在、甘味・塩味・酸味・旨味を弁別できない。弁別可能なのは、毒に由来する刺激のみ。後任は、これを承知の上で任に就くこと。
書いてから、しばらく眺めた。それから、そのまま封をした。
◆
その夜、厨房に降りた。
リュカ・フォンテーヌが、いつもの場所にいた。筆頭料理長の息子で、二十四で、口が悪い。
「聞いた」彼は手を動かしたまま言った。「殿下、広間でやったんだって。三百人の前で」
「そう」
「馬鹿だな」
「殿下が?」
「あんたがだよ」
リュカは小皿を出した。
十年間、毎晩、私が毒見を終えたあとに彼が出す一皿だ。毒見の皿ではない。私が食べるためだけの、ひと口ぶん。
今夜は洋梨の砂糖煮だった。
「食え」
「味、しないよ」
「知ってる」
彼はいつもそう言う。十年、ずっとそうだ。
最初の一皿は、十年前の冬だった。
ヒ素の量を上げた三日目で、私は厨房の隅にしゃがみ込んで動けなくなっていた。十歳だった。当時まだ十四だったリュカが、鍋磨きの手を止めて、湯で溶いた蜂蜜を持ってきた。
「甘いだろ」
「……わからない」
そう答えると、彼は皿を持ったまま、しばらく突っ立っていた。
翌日も彼は持ってきた。その翌日も。
「わからないって言ってるでしょう」
「聞いてない」
それが十年続いて、今夜の洋梨になる。
「じゃあ、なんで」
「いつか戻ったときに、思い出す順番が要るだろ」リュカは布巾で手を拭いた。「味が分からなくても、形は覚えられる。舌ざわりと、温度と、噛んだときの音。それだけは今も入ってる。だから並べてる。戻ったとき、上から順に出せるように」
洋梨は柔らかくて、少しだけ繊維が残っていて、冷たかった。
甘くはなかった。
「辞めるんだ」私は言った。
「ああ」
「毒見役、辞める。引き継ぎ書も書いた」
「そうか」
リュカは少し黙って、それから言った。
「じゃあ、ここからだな」
「何が」
「順番の、上からだよ」
◆
引き継ぎ書は規定どおり三部作った。一部を侍従長へ。一部を宮廷薬師長ヴェルネ殿へ。残りの一部を、後任へ。
後任への一部は、王太子宮で、殿下とネリー嬢に直接渡すことになった。
「四十二枚?」
殿下は束を受け取り、厚みを見て笑った。
「口に入れて飲み込むだけの仕事に、四十二枚か」
「規定第十四条です」
「規定」殿下は一枚目をめくった。耐性形成計画の表だ。数字がびっしり並んでいる。「……セリア。お前はまだ分かっていないな」
「何がでしょう」
「これは脅しだろう。自分でなければ務まらないと言いたいわけだ。九年二か月? ネリーには無理だと、書類の形で言っている」
「書いたのは所要年月です」
「同じことだ」
殿下は束を机に投げた。
「私はな、セリア。お前のそういうところが、ずっと嫌だった。何を言われても顔色を変えず、規定を持ち出して、正しさで人を追い詰める。ネリーは違う。この子は理屈ではなく、私のために毒を飲むと言った」
ネリー嬢が、殿下の袖を軽く引いた。
「殿下。セリア様は、親切で書いてくださったんじゃ……」
「親切なものか」
殿下は束を取り上げ、両手で裂いた。四十二枚は厚くて一度では裂けなかったので、二度に分けて裂いた。
「今夜からネリーが毒見に立つ。手順は給仕に教えさせる。口に入れて、飲み込む。それだけだ」
紙片が床に散った。
私は膝を折った。
「承知いたしました。——ただし規定第十四条により、写しは侍従長と薬師長がすでに保管しております。破棄されたのは、後任用の一部です」
「まだ規定か」
「はい」
「出ていけ」
私は出た。
廊下で、ネリー嬢が追いかけてきた。
「あの、セリア様。ごめんなさい。私、殿下があんなふうになるとは」
「いえ」
「私、ちゃんとやります。ちゃんと、殿下をお守りします」
彼女の目は真っ直ぐだった。だから、たちが悪い。
「カサール嬢。ひとつだけ」私は言った。「今夜、口に入れたものが少しでも甘く感じたら、飲み込まずに吐き出してください。何を食べていても、です」
「え? 甘かったら、おいしいってことじゃ」
「そうです」
私は礼をして、王太子宮を出た。
◆
その後のことは、あとから聞いた。
初日、ネリー嬢は前菜のスープをひと匙飲んで、飲み込んだ。それだけだった。給仕が「結構です」と言い、次の皿が運ばれた。
二日目も同じだった。彼女は毎回きちんと飲み込んだ。殿下は満足そうだったという。見ろ、何も起きない、と。
何も起きないというのは、そういうことだ。毒見役の仕事は、九割九分、何も起きない。残りの一分のためだけに十年をかける。
◆
三日後の夜だった。
私は自室で荷を作っていた。辞任は受理され、宿舎を出る日が決まっていた。窓の下を走る足音が、いつもより多い。
扉が叩かれた。宮廷薬師長のヴェルネ殿だった。この人が走っているところを、私は一度も見たことがなかった。
「アルディナ嬢。あなたの引き継ぎ書の第二部」
「識別記録ですか」
「甘い、と書いてある毒は、いくつある」
「四つです」私は答えた。「トリカブト、ジギタリスの実、鉛糖、それから南方の——」
「一つずつ、症状を」
私は言った。ヴェルネ殿は聞きながら、扉の外の助手に短く指示を飛ばしていた。
「カサール嬢ですね」
「三十分前に倒れた。晩餐の二品目だ。脈が飛んでいる。侍医は心臓を疑って強心剤を打とうとしている」
「打たせないでください」私は立ち上がった。「トリカブトなら、殺します」
ヴェルネ殿は一瞬だけ私を見て、それから走って出ていった。
私は追わなかった。
追う資格がなかったからだ。三日前に辞任は受理されている。私は宮廷の人間ではないし、毒見役でもない。廊下を走って王太子宮へ飛び込み「私が診ます」と言うのは、規定に違反する。
だから座って、荷を作り直した。
荷は半分しか詰めていなかった。私はそれを全部出して、もう一度詰め直した。二度目は十分で終わった。三度目は八分だった。
四度目の途中で、手帳の束が出てきた。三千日ぶんの、清書する前の元の手帳だ。捨てるつもりで縛ってあった。
紐をほどいて、いちばん古い一冊を開いた。
十歳の字で「あまい つめたい」と書いてあった。トリカブトのことだ。
その下に線を引いて消した跡があり、消しきれずに残った文字が読めた。
「おかしがたべたい」
私は手帳を閉じた。閉じて、また開いた。
窓の下の足音は、いつのまにか止んでいた。
人生でいちばん腹の立つ三時間だった。
◆
ネリー・カサール嬢は死ななかった。
ヴェルネ殿が私の引き継ぎ書の第二部を持って走り、侍医を止めた。強心剤は打たれず、トリカブトへの処置に切り替えられ、朝までかかって彼女は息を取り戻した。
毒は、王太子殿下の二品目に入っていた。
鴨のパテだった。十年、私が毎晩ひと匙ずつ取り分けてきた、あの皿だ。
入れたのは王太子宮の給仕頭だった。三年前から北の伯爵家に金を借りていた男で、借用書を握られていた。三年前から機会を待っていたことになる。
なぜ三年待ったのか。取り調べで、その男はこう言ったという。
「アルディナ様がいる限り、無理だと思っていました。あの方は、匙の先を舌に置いて、一秒で戻される。何を入れても必ず気づかれる。……あの方が辞められたと聞いて、今夜しかないと」
◆
呼び出されたのは、国王陛下からだった。
「セリア・アルディナ。そなたに問う」陛下は言った。「そなたが辞した夜から三日で、王太子は毒を盛られた。こうなると分かっていたか」
「いいえ、陛下」
「では、なぜ引き継ぎ書に四十二枚も費やした」
「規定でしたので」
「規定」陛下は繰り返した。「侍従長。第十四条を読め」
ガレット卿が読み上げた。任を離れる者は、後任に対し引き継ぎ書を作成し、侍従長および宮廷薬師長に提出しなければならない。
「王太子は、その四十二枚を裂いたと聞く」
「はい」
「そなたは止めたか」
「いいえ」
「なぜ」
私は少し黙った。ここは嘘をつくところではなかった。
「殿下は、毒見は誰にでもできるとおっしゃいました。私はそれを、十年かけて否定したくありませんでした。……書類を置いて、出ていくことにいたしました」
陛下は長いこと私を見ていた。
「腹を立てたのだな」
「はい」
「よい」陛下は言った。「腹を立てながら、写しを二部残した。そのおかげで娘がひとり生きている。それでよい」
◆
処分は五日後に出た。
王太子オルテンス・ラ・ヴァンドールは廃嫡されなかった。第二子がまだ幼く、国が揺れる。代わりに公務停止一年と、王宮の警備および毒見体制の全面見直しの責任者に任じられた。
つまりこれから一年、あの方は毎日、毒見役職務規定を読むことになる。第十四条から。
見直しの結果、規定は改正されたと聞いた。
第十四条に一項が加わった。引き継ぎ書は、後任および任免権者が、これを毀損してはならない。
第一条にも一行加わったそうだ。本職は身体をもって行う専門職であり、代替には年月を要する。
あの方が一年かけて書いたのだという。
私は読んでいない。読む必要がない。私はもう、十年かけて全部知っている。
婚約は王家側の非を認めた上で正式に解消された。アルディナ伯爵家には毒見役三代の功に対する終身年金が下り、私はそれを家ではなく、私個人の名で受け取った。父は不服そうだったが、陛下の裁可には逆らえなかった。
ネリー・カサール嬢は実家に戻った。
出立の日、彼女は宿舎まで来た。まだ顔色が悪かった。
「セリア様。あの夜、言われたこと」
「はい」
「甘かったら吐き出せって。……甘かったんです。二口目で」ネリー嬢は言った。「でも私、おいしいって思ったんです。それで、飲み込みました」
「そうですか」
「あれ、十年で覚えることなんですね」
「はい」
「私、口に入れて飲み込むだけだと思ってました」
彼女は泣かなかった。それは立派だったと思う。
「セリア様は、殿下のこと、まだ」
「いいえ」私は言った。「十年、あの方の皿を先に食べました。それは仕事です。仕事はもう終わりました」
殿下からは、一度だけ手紙が来た。
短い手紙だった。詫びではなかった。あの四十二枚を、もう一度書いてもらえないか、と書いてあった。
私は返事を書いた。
『規定第十四条により、写しは侍従長および宮廷薬師長が保管しております。そちらをお読みください』
それだけ書いて、封をした。
◆
王都の南、川沿いの通りに、リュカが店を出した。
筆頭料理長の息子が宮廷を出ると言ったとき、父親は三日口をきかなかったらしい。四日目に、鍋を三つ持たせてよこしたそうだ。
私はそこの帳場に座っている。年金があるから給金は要らないと言ったら、リュカに怒鳴られた。今は受け取っている。
ヴェルネ殿の見立てでは、私の舌が戻るとしたら五年から八年。戻らない可能性もある。毒を入れるのに十年かけたのだから、抜くのにも同じだけかかるのは道理だと思った。
店を開けて四か月が経った。
その日の閉店のあと、リュカが小皿を出した。宮廷にいたころと同じ、ひと口ぶんの皿だ。
洋梨の砂糖煮だった。
「上から順番だっただろ」私は言った。
「そう。今日、一周目の最後」
「明日から?」
「二周目」
私は匙を取って、口に入れた。
柔らかくて、少し繊維が残っていて、冷たい。舌ざわりと、温度と、噛んだときの音。四か月、そればかり数えてきた。
それから、舌の先に何かが乗った。
薄い。ほとんど何もない。けれど確かに、毒ではないものだった。
私は匙を置いた。
「リュカ」
「なんだ」
「甘い」
リュカは布巾を握ったまま、しばらく黙っていた。それから鍋のほうを向いて、乱暴に何かを片づけ始めた。
「……そうか」
「うん」
「そうか」
彼は二度言った。二度目のほうが、ひどい声だった。
甘いというのが、こういうことだったのを、私は忘れていた。十年、毒だけがそう教えてくれていた。トリカブトは甘い。最初に甘くて、そのあと舌の奥がすっと冷える。
これは、冷えなかった。
冷えないまま、ずっと口の中に残っていた。
「もう一皿」
「明日な」
「今日」
「明日だ」リュカは振り向かなかった。「一日一皿って決めただろ。あと九年ぶんある」
九年。
九年二か月、と私は思った。かつて私が、他人のために書いた年月だ。
今度は、自分のために使う。
「じゃあ、明日」
「ああ」
私は帳場の灯りを落とした。




