役割
「…朝ごはんできたよ、ゆあちゃん」と声をかけると、小さな足音を立ててトコトコとやってきた。
彼女はテーブルの前に座り、俺も隣に腰を下ろす。
キッチンから漂うトーストの香りが部屋を満たし、朝の静けさに温かさを添えていた。
「いただきます」「…いただきます」
彼女の顔はまだ無表情で、どこか緊張した影が残っている。
でも、いつかあの夢みたいに明るく笑う日が来るんじゃないか…って、いや、何だよその考え。
一緒に寝たり、「行ってきます」のキスなんて、仲良くなりすぎるのもそれはそれで困るだろ。
頭を振ってそんな妄想を追い払う。
「…私は…何をすればいいですか?」
彼女の小さな声が、静寂をそっと破った。
「何もしなくていいんだよ、ゆあちゃん。子供ってのはね、何も考えず、ただ好きなことを楽しんで、やってはいけないことを少しずつ覚えていくだけでいいんだ」
それでも、彼女の目には『何か役割が欲しい』という気持ちがちらつく。
役割がないことへの不安が、彼女を縛っているんだろう。
普通の子供なら、親に甘えて、役割なんて意識しない。でも、彼女は違う。
必要とされることだけが生きる意味だった。
たとえそれが怒りの捌け口や、歪んだ欲望の道具だったとしても。
「…じゃあさ、ひとつだけお願いしていいかな? 朝ごはん食べ終わったら、おにいさんの肩をちょっと揉んでもらえる?」
彼女は無言でコクンと頷いた。
ご飯を食べ終え、ソファに座って背を預けると、彼女が後ろに立って小さな手で肩を揉み始めた。
細い指は力弱く、肩の凝りを解すほどではないけれど、一生懸命に動くその感触に心が温かくなる。
「5分くらいでいいからね」
「…はい」
「傷、まだ痛む?」
「…はい」
「そっか。早く良くなるといいね」
「…なぜ、私なんかに…優しくしてくれるんですか?」
その質問に、一瞬言葉が詰まった。
「…なんでだろうな。たぶん、昔の自分と似てる部分があるからかな。俺も親から必要とされてなかったんだ。実は俺の家、頭のいい家系でさ。父ちゃんは医者、母ちゃんは弁護士だった。でも、生まれた俺は期待外れの出来損ないで。世間体があるから殴られたりはしなかったけど、言葉で散々やられたよ。『お前なんか生まれてこなければ』って何度も言われて、死にたいと思ったこともあった。それでグレて、高校出てすぐに家を出て、今は闇金やってる。俺の前には救いの手なんて現れなかった。だから、代わりに誰かのヒーローになりたいって思っただけだよ」
言い終わってから、余計なことを話しすぎたと気づく。
彼女は黙ったまま、何か考えるように手を止めた。
納得できなかったのか、それとも言葉が重すぎたのか。
それから昼頃までゴロゴロ過ごし「ちょっと外に出てくるね。ゆあちゃんはテレビでも見てて。嫌なことはしなくていいからね。何かしたいなって思ったら、掃除機で部屋を綺麗にしてくれるだけで十分だよ」と伝えると、彼女は首を縦に一度だけ動かした。
家を出て車に乗り込み、あのゴミのところへ向かった。
◇
家の前に着いても、以前のような怒鳴り声は響いてこない。
静まり返った空気が逆に不気味で、庭に散らばるゴミが風に揺れている。
インターホンを押すと、ドアが開き、鼻を刺すような臭気とともに伊藤が姿を現した。
目は濁り、焦点が定まらず、目の下には濃い影が刻まれている。
俺を見て「あぁ…ど、どうされたんですか…?」と、いつものように媚びた笑みを浮かべる。
「…すげぇ臭いだな」
「あぁ…家のことは全部あいつにやらせてたんで…」
だとしても、たった3日でこんな状態になるのか? 疑問が湧くが、どうでもいい。
「…そ、それで…?」
「言っとくけど、もうゆあちゃんをお前に返す気はないからな」
すると、伊藤が首をかしげ、「?」という顔をした。
聞いて損したとすぐに後悔する。
こいつにとってのゆあちゃんはこの程度の認識だったのか。
「いや、何でもない。それより、あの子が好きなものって何か分かるか?」
「…す、好きなもの…? あぁ…腐った野菜をあそこに突っ込んだ時は、いい顔してましたよ? へへへ…あの苦しそうな顔が…」と、目を細めて股間を押さえる。
頭に血が上りかけた。俺が馬鹿だった。こいつの言う『好き』がまともなわけない。
「…もういい。二度とゆあちゃんの話はするな。思い出すな。関わるな」
冷たく言い放ち、踵を返した。
車に戻りながら、自分の考えが甘かったと反省する。
あいつの記憶を頼りにしても、彼女に過去を思い出させるだけだ。
だったら、俺が新しい『好き』を一緒に作っていけばいい。
コンビニに寄り、少し奮発して高めのデザートを買って家に戻った。
玄関を開けると、掃除機の低い唸り音が聞こえてくる。
リビングでは、ゆあちゃんが小さな体で掃除機を動かし、部屋の隅を丁寧に掃除していた。
「ただいま」
「…おかえりなさい」
彼女が振り返り、静かに呟く。
「アイス買ってきたよ。一緒に食べようか?」
「…はい」
結局、彼女のために何をすればいいのか分からないまま、3日目を無為に過ごしてしまった気がした。




