魔法のステッキ
目を覚ますと、どこかから小さな音が聞こえてきた。
耳を澄ますと、水が跳ねるような軽い響き。
部屋の中には、オレンジ色の朝日がカーテンの隙間から差し込んで、柔らかな光を床に落としている。
あぁ、そうか……俺、ソファで寝落ちしてたんだ。
体を起こすと、首がゴキッと鳴り、寝違えた痛みが走った。
音のする方へ目を向けると、トイレの方向からだった。
立ち上がって近づいてみると、ドアが半開きになっている。
「ゆあちゃん?」と優しく呼びかけながら中を覗くと、彼女が小さな手で便器をこすっていた。
薄汚れたTシャツの袖が濡れ、膝をついた床には水滴が散らばっている。
「お、おい!? 何してるんだよ!?」
思わず声が大きくなってしまった。
彼女は顔を上げ、「…トイレ掃除をしてました」と小さく答える。
「手でやる必要ないよ! ほら、こっちにちゃんと道具があるからさ!」
そう言って、トイレブラシを手に取って見せた瞬間、彼女が体を縮こませた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」と震えながら呟き、目をぎゅっと閉じる。
しまった、大声で怖がらせちまった。胸がズキッと痛み、慌ててトーンを落とした。
「いや、怒ってないよ。びっくりしただけ。ほら、これがあるから、手でやらなくていいんだ。分かったね?」
「…使い方が分からなくて…それに、使っていいか分からなかったので…」
「俺の汚いトイレなんだからさ、優愛ちゃんがそんなことしなくていいよ…」
「…おしっこは飲まされてたので…」
その言葉に、頭がクラッとした。
思わず額を押さえ、深い息を吐く。
どんな目に遭ってきたんだ、この子は。
常識が根底からズレてる。
彼女に普通の暮らしを少しずつ教えなきゃいけないし、目を離すのも危ないな、と心に刻んだ。
「よし、こっち来て。手を洗おうね」
彼女の手をそっと引いて洗面台へ連れていく。
小さな掌は冷たくて、指先にこびりついた汚れが痛々しい。
石鹸の泡で丁寧に洗いながら「トイレ掃除してくれる気持ちは嬉しいよ。でも、次からはこのブラシを使ってね。それと、俺が頼んでないことはやらなくていいから。分かったかな?」と優しく伝えた。
「…おしっこを飲んだりしなくていいんですか?」
「しなくていいよ! 大丈夫だよ、そんなこと絶対させないから!」
「…分かりました」
心の中で、あいつへの怒りが再び燃え上がった。
どれだけ酷い扱いを受けてきたのか、想像するだけで吐き気がする。
気を取り直して、彼女に日常の当たり前を教えることにした。
「掃除するときはね、手じゃなくて道具を使うんだよ。お皿はスポンジで、床は掃除機で、トイレはブラシでね。簡単だろ?」
彼女は小さく頷く。
「それと、俺が寝てても起きてても、何かしようと思ったら一声かけてくれると嬉しいな。分かった?」
「…はい」
これで少しは安心できるか。
でも、本当に理解してるのか、虚ろな目を見ると不安が拭えない。
「よし、朝ごはんにしようか」
キッチンで目玉焼きを焼き、トーストを軽く焦がし、サラダを適当に盛ってテーブルに並べた。
二人で向かい合って食べるが、静寂が重い。
気まずさを埋めようとテレビをつけたけど、彼女は画面に目をやることもなく、黙々と小さな口でパンをかじっている。
食べ終わると、皿を片付けながら声をかけた。
「ちょっと時間あるからさ、おにいさんと一緒に話そうか。したいことや、やってみたいこと、欲しいものとかあるかな? なんでもいいよ。好きなこと話してみて」
「…分かりません」
虚ろな声が返ってくる。確かに、いきなりすぎたか。
「…そっか、ごめんね。急に聞かれても困るよね。じゃあ、今日は一日、『何がしたいか考える日』にしよう。どうかな?」
「…はい」
ソファに移動し、彼女を隣に座らせた。
子供が喜びそうなアニメ映画を流してみる。
画面ではカラフルなキャラクターが跳ね回り、明るい音楽が部屋に響く。
俺はチラチラと彼女の様子を窺ったが、感情の動きはなく、ただじっと映像を見つめているだけだった。
「痣、やっぱりすぐには消えないね。湿布また貼ろうか」
彼女の腕や首にそっと湿布を貼りながら、柔らかく声をかける。
触れるたび、骨の浮いた細さが手に伝わってくる。
でも、彼女は無言で、アニメの魔法少女がステッキを振り回す場面を眺め続けていた。
「…つまらなかったかな? ごめんね、おにいさん、子供と過ごしたことあんまりなくてさ。ゆあちゃんくらいの子が何を好きか分からなくて…」
すると、彼女が小さく指を動かし、画面を指した。
「ん?」
「…あの…ステッキ欲しい」
魔法少女が持つキラキラしたステッキだった。
初めて彼女の「欲しい」が聞けて、胸が熱くなった。
「おお、あれだな! 分かったよ、今すぐ注文するからな!」
スマホを手に取り、通販サイトでポチッと注文。
興奮が抑えきれず、「よし、頼んだぞ! これで…」と振り返ると、彼女がTシャツを脱いで裸で立っていた。
「ちょっ!? 何!? 何してんだ!?」
「今の私に返せるものは体しかありません。お尻でもアソコでも口でも好きに使ってください」
「し、しないよ! てか、俺、童貞だからそんなの無理だから!」
思わず叫んでしまい、顔が熱くなる。
「…」「…」
妙な沈黙が流れた。
気まずさを誤魔化すように、「…俺さ、好きな人としかそういうことしないって決めてるから。ゆあちゃんはそんなことしなくていいよ。分かったね?」と穏やかに言った。
「…分かりました」
夕方、ステッキが届くと、彼女は無表情でそれを手に持つ。
プラスチックの光沢が部屋の明かりを反射し、小さな手の中で少し不格好に見えた。
「…どうかな?」
「…魔法は使えないんですね」
「お、おう。どんな魔法使いたい?」
「…火魔法」
「家燃やす気か!?」
思わず笑いがこみ上げ、腹の底から声を出して笑った。
こんなささやかなやりとりが、こんなに楽しいなんて。
彼女は「何がおかしいんだろう?」みたいな顔で俺を見つめる。
俺はこの子と出会って何か変われるかもしれない。そう思った。




