冤罪の被害者
目が覚めた時、すぐ近くから温もりが伝わってきた。
柔らかな重みが左腕に掛かっていて、微かな寝息が耳元で聞こえる。
まだ頭がぼんやりする中、視線をそっと動かすと、そこにゆあちゃんがいた。
目を閉じたまま、俺の腕に顔を寄せて眠っている。
長い黒髪が乱れて、頬に絡みつくように広がっていた。
薄手のシャツが肩からずり落ち、白い肌がわずかに覗いている。
その寝顔は穏やかで、昔の傷だらけだったゆあちゃんとはまるで別人だ。
でも、どこか壊れそうな脆さも感じさせた。
「…ゆあちゃん?」
小さく呼びかけてみたが、返事はない。
ただ、寝息が少しだけ深くなった。
俺は動くに動けず、彼女の寝顔をじっと見つめていた。
周りを見渡すと、見慣れた俺の部屋だった。
ゆあちゃんと暮らすようになってから、少し片付いた俺の部屋だ。
壁には小さな絵が掛かり、テーブルには使い込まれたマグカップが置かれている。
なのに、なぜか心が落ち着かない。
というか、また未来に飛んだ…。
でも、りんちゃん可愛かったな。
その時、玄関のドアが勢いよく叩かれた。
ドンドンという乱暴な音に、ゆあちゃんが小さく身じろぎする。
でも、目を覚ます様子はない。俺は慌てて腕をそっと抜き、立ち上がった。
◇
ドアを開けると、そこに総一が立っていた。
「おい、唯斗! 寝てんじゃねえよ、時間だぞ!」
総一がでかい声でまくし立てながら、勝手に中へ踏み込んでくる
手にコンビニ袋をぶら下げていて、中から缶コーヒーと菓子パンが覗いていた。
こいつ、いつもこんな調子だ。
まるで俺の家が自分の庭みたいに振る舞う。
「悪い、寝坊した」
俺は頭をかきながら、総一をリビングに通した。
靴を脱ぎ捨て、部屋を見回して「ゆあちゃん、まだ寝てんのか?」と聞いてきた。
「ああ。起こすなよ」
俺がそう言うと、総一は「分かった」と軽く頷き、テーブルにコンビニ袋をどさっと置いた。
そう言えば、昨日の夜に『明日、家に行くわ!』とだけメールが来ていた気がする。
てか、オートロックなのに誰かと共連れで入ってきたのか。
総一が椅子に腰を下ろすのを見ながら、俺は何か引っかかるものを感じていた。
総一はいつも通りだ。
短く刈った髪、日に焼けた顔。でも、その目が妙に鋭くて、何か企んでるような気配がした。
「で、何だよ? こんな朝っぱらから押しかけてきて」
俺が缶コーヒーを手に取りながら言うと、総一が少し背筋を伸ばした。
「進藤刑事の件、調べてきた」
その名前を聞いた瞬間、手がピタリと止まった。
進藤…。
まぁ、総一も無関係ではなくなったわけだし、調べるのは当たり前か。
「これ、週刊誌に載ってた。匿名だけどな」
総一が鞄から切り抜きを取り出し、テーブルに広げた。
そこには、『取り調べで脅迫、冤罪で検挙数を稼ぐ疑惑の刑事』という見出しが躍っていた。
「こいつ、昔から汚ねえ手を使ってたらしい。無理やり自白を引き出して、証拠をでっち上げて、検挙数を水増ししてたってさ」
チラチラとその事件について眺めていると、あの名前があった。
社長が以前、言っていた名前が書いてあった。
社長の先輩であり、冤罪で死刑にされた人。
「他にも被害者がいるっぽい。俺、その連中の話を聞いて、進藤の弱みを握ろうと思うんだ」
総一が切り抜きを畳みながら言った。
「弱み?」
俺が聞き返すと、総一が目を細めた。
「ああ。こいつを潰すには、証拠が必要だろ。過去の被害者から直接話を集めて、進藤の隠してる闇を引っ張り出す。お前もやるだろ、唯斗?」
俺は黙って、缶コーヒーを握る手に力を込めた。
胸の中でくすぶる憎しみを一気に燃え上がらせた。
「ああ、やる。絶対に」
そして、それにあたり1人話を聞くべき人も知っている。
総一が小さく笑い、「よし、決まりだな。じゃあ、早速動こうぜ。とりあえず、こいつに会いに行く」と、写真をテーブルに叩きつけた。
◇
夜が更けた頃、俺たちは車に乗り込んでいた。
運転席に俺、助手席にゆあちゃん、後部座席には総一。
行き先は、後藤清嗣という男が働く田舎のコンビニだ。
10年前に進藤の冤罪で捕まり、10年間刑務所に閉じ込められた人物。
総一によると、今は田舎で夜勤の店員としてひっそり暮らしているらしく、俺たちは夜になるまで家で遊んだりして時間を潰していた。
街の明かりが遠ざかり、窓の外は真っ暗な田園風景に変わった。
車のエンジンが低く唸り、時折タイヤが砂利を跳ねる音が響く。
後ろを振り返ると、ゆあちゃんがシートに体を預けて眠っていた。
膝に毛布を掛け、首が少し傾いている。
その寝顔を見ると、朝の温かい感触が甦ってくる。
こんな風に俺のそばにいてくれるゆあちゃんを、守りたいと強く思った。
「寝ちまったな」
総一がバックミラー越しにゆあちゃんを見て、小さく呟いた。
俺は「連れ出すつもりじゃなかったんだけど」と返す。
「仕方ねえよ。お前が大事だから付いてきたんだろ」
総一がそう言って、口の端を少し上げた。
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
ゆあちゃんは、俺がこんな危ないことに巻き込まれるのを黙って見ていられなかったんだろう。
心を閉ざしていたあの頃とは違って、今は俺を信じて、こうやって一緒にいてくれる。
車内が静まり返った時、ハンドルを握った俺に向かっえ、ぽつりと口を開いた。
「……悪い、唯斗。俺、一個謝らないといけないことがある」
その声が、重く響いて、俺の心に引っかかった。
何だ?
このタイミングで総一が謝るなんて…。
「何だよ?」
俺が聞き返すと、総一は少し間を置いて、前を向いたまま言った。
「今はまだ言えねえ。でも、ちゃんと話すから。その時まで、待っててくれ」
その言葉に、頭がざわついた。
謝ること? 何を隠してるんだ? でも、総一の横顔を見ると、それ以上追及する気にはなれなかった。こいつは俺の親友だ。
何か理由があるなら、信じて待つしかない。
「ああ、分かった」
俺はそう言って、窓の外に目をやった。
闇の中に、遠くでコンビニの明かりがぼんやりと浮かんでいた。
車が速度を落とし、俺たちの夜が動き出そうとしていた。




