ゆっくりと
1時間ほど経ってから、部屋のドアをそっと開けて覗いてみると、彼女はまだベッドの隅で体を丸めて眠っていた。
膝を胸に引き寄せ、布団に半分隠れた小さな姿は、まるで嵐を避ける小動物のようだ。
もっと伸び伸びと寝てほしいと思ったが、長年染みついた癖はそう簡単に抜けるものじゃない。
「……さて、どうしたもんかな」
呟きながら、俺は首を軽く振った。
闇金の仕事を始めてから、休みなんてほぼ取らずに働き続けてきた。
1週間もの空白が目の前に広がると、何をすればいいのか頭が回らない。
とりあえず、気持ちを落ち着けようと、キッチンに向かいコーヒーを淹れることにした。
ポットに水を注ぎ、豆の香りが漂うのを待っていると、突然ベッドの方から鋭い叫び声が響いた。
「やめてぇー!! 助けてぇッ!! お母さんっ!!」
マグカップを置いたまま部屋に駆け込むと、彼女は目を固く閉じ、震える手で布団を掴んで叫び続けていた。
額には汗が滲み、頬が引き攣っている。
おいおい、マジかよ、と内心で呟きながら、心臓がドクドクと跳ねた。
「だ、大丈夫か!?」
慌てて彼女のそばに近づき、頬を軽く叩いて起こそうとする。
すると、彼女の目がパッと開き、次の瞬間、恐怖に歪んだ顔に変わった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、殴らないでください蹴らないでください犯さないでください、黙りますから許してください」と、震えながらベッドの端に縮こまり、両手で頭を抱える。
その怯えた声と縮んだ姿に、胸が締め付けられた。
「お、落ち着け。俺は殴らないし蹴らないし、そんなことしないから。大丈夫だ、安心しろ」
少し距離を取って、柔らかい声で何度も繰り返した。
でも、彼女は耳を塞ぎ、同じ言葉を呪文のようにつぶやき続ける。
俺も負けじと、同じ言葉を根気強くかけ続けた。
30分ほど経つと、彼女の震えが少しずつ収まり、呼吸が落ち着いてきた。
でも、その目はまた虚ろに戻っていた。
光が消えたガラス玉みたいに、何も映さない。
俺の接し方が次第で、彼女に余計な負担をかけるかもしれない。
しばらくは、一人で過ごせる時間を作ってやらないとな。
「……落ち着くまでゆっくりしてていいから。とりあえず、お茶とお菓子置いとくから、気が向いたら食べていいよ」
そう言って、俺は静かに部屋を出た。
本当なら病院に連れて行くのが正解なんだろう。
でも、彼女はまだ10歳くらいだ。
一人で病院に行くなんて無理だし、俺が連れて行けば、まず間違いなく怪しまれる。
闇医者のツテはあるが、骨折や病気を診るような奴はいても、心の傷を扱う闇医者なんて聞いたことない。
「…独学でやるしかないか」
勉強は大の苦手だが、背に腹は代えられない。
スマホを取り出し、検索を始めた。
どうやらこういう状態を「PTSD」と呼ぶらしい。
学校を適当に流してきた俺には初耳の単語だが、世間じゃよく知られたものらしい。長い時間が必要で、完治する保証はない。
一生付き合う人も少なくないって。
まずは、ストレスを感じさせない環境を作ることが大事か。
通販で頼んだものが届くまで時間がかかる。
彼女専用の部屋を整える前に、俺はリビングで過ごして、彼女には俺の部屋を自由に使ってもらうのがいいかもしれない。
そうすれば、少しは安心できる時間が持てるだろう。
夕方になっても彼女が出てこないのが気になり、遠くから「何かあったら呼んでくれよ」と声をかけてから、ノックして部屋に入った。
彼女はベッドの隅で膝を抱え、壁に寄りかかっていた。
置いておいたお茶と菓子は、手つかずのまま冷たくなっている。
「…何かあったら呼んでな?」
そう伝えて、そっとドアを閉めた。
焦っても仕方ない。こればかりはどうしようもないか。
夜ご飯をどうするか考える。
出前も楽でいいが、手作りの方が彼女に安心感を与えられるかもしれない。
栄養を考えつつ、少量で力がつくものがいい。
彼女はご飯が好きって言ってたから、それに合う何か…。
考えていると、部屋のドアが小さく軋んで開いた。
「…ん? どうした?」
「…とい…れ…」
「あぁ、トイレか。あっちだよ」と、玄関の方を指す。
彼女は頭を下げ、細い足を小さく動かして歩いて行った。
その背中があまりにも頼りなくて、目を離せなかった。
よし、カレーにしよう。
野菜もたっぷり入れられるし、少し多めに食べられるかもしれない。
でも、家を見回すと、冷蔵庫はほぼ空っぽ。
買い物に行くのも面倒だ。
結局、カレーを出前で頼むことにした。
トイレから戻った彼女は、また部屋に引っ込んでしまう。
夜ご飯が届くと、テーブルにカレーを並べ、黙って二人で食べ始めた。
スプーンを握る彼女の手は小さく、カレーを口に運ぶ仕草は慎重だった。
食べ終わると、軽くシャワーを浴びるよう促し、湿布を新しく貼り直す。
火傷の跡が赤く浮かぶ肌に触れるたび、心がチクリと痛んだ。
髪を乾かし、歯を磨かせると、彼女は無言でベッドに戻った。俺もそろそろ寝るか。
明日は手続きのために役所に行くか…いや、待てよ。
そんなことしたら社長にバレるかもしれない。
警察や児童相談所に目を付けられるのもまずい。
迂闊に動くのは危険だな。
友達でもいれば相談できたんだろうが、こんな生活じゃそんな縁もない。
ソファに寝転がり、頭の中でぐるぐる考えていると、疲れが一気に押し寄せてきた。
いつの間にか、俺は眠りに落ちていた。




