初めての友達
6月中旬、車内のエアコンが吐き出す冷気がじめっとした肌に心地よく当たる。
助手席でシートベルトをきっちり締め、ゆあちゃんが窓の外を眺めている。
外では湿った風が木々を揺らし、アスファルトが陽光でかすかに歪んで見える。
歩道では、楽しそうに親と手を繋いで歩く子供たちの笑い声が遠くに響く。
かつてカゴの中の奴隷だった自分は、今ではカゴの中の鳥に変わった気がする。
誰かの悪意で閉じ込められていたんじゃない。
信頼できる人の善意で、守るために閉じ込められているんだ。
外から見れば同じでも、全然違う。
奴隷には奴隷の生き方しか許されなかったけど、今は翼を付けてもらって、飛び方を教えてもらってる。
いつの日か一人で飛べるように。
いつか、空高く飛べる日が来るんだろうか?
◇
キョロキョロと周りを見渡す。
事務所近くの駐車場は静まり返っていて、遠くの道路を走る車の音だけが微かに届く。
警察は追ってきてない…大丈夫だな。
車を停め、ゆあちゃんを急いで降ろす。
暑さが背中にじわりと染み、シャツが汗で少し張り付く。
彼女の手を引いて事務所の入り口へ急ぐと、タバコの煙とエアコンの冷気が混じった独特の空気が鼻をついた。
「おいおい、今日は子連れ出勤か?ここは託児所じゃねーぞ?」
同僚のからかう声が響く。
事務所の中はいつもの喧騒で、電話のベルや書類をめくる音が飛び交ってる。
「分かってる。こっちだってこんな煙たいところに連れてきたくはなかったよ」と返しながら、社長室の扉をノックする。
「誰だ?」
低い声が扉越しに響く。「山坂です。あの子を連れてきました」と答えると、「おう、入れ入れ」と返ってきた。
扉を開けると、タバコの煙が薄く漂う部屋に、革張りの椅子にどっしり座った社長の姿。
太い指で灰皿にタバコを押し付け、こちらを一瞥する。
圧倒的なオーラが空気を重くし、思わず背筋が伸びる。
壁には古びたカレンダーが貼られ、窓の外からは日光がぼんやり差し込んでいた。
「まだ慣れないか。そんな緊張しなくていいよ? おじさん、子供には甘いんだよ。…何か食べたいものとか飲みたいものはあるかい?」
社長がやや胡散臭い笑みを浮かべ、ゆあちゃんに目を向ける。
「いえ…大丈夫です」と小さな声で答える彼女は、俺の足の後ろに隠れるように縮こまった。
「だいぶお前に懐いてるみたいじゃんか。安心したぜ。それで?その顔から察するに、この子を連れてきた以外に何か言いたいことがありそうだな」
「朝…家にサツが来ました」
「ぁ?サツが?なんで?」
「どうやら、この子が俺の家を出入りしてると通報があったみたいです」
「…どんなやつだった?見た目とか」
「普通の刑事って感じでした。1人は新米っぽくて、背が高くて少しぎこちなかったですけど、もう1人はベテランで恰幅が良かったです。丸メガネかけてて、声が低くて落ち着いてました」
「ベテランの方は丸メガネをしてたか?」
「え? はい…してましたけど…」
社長が深いため息をつき、タバコの吸い殻を灰皿に押し潰す。
「朝に押しかける方法といい…相変わらず古いやり方をやるな…あのおっさんは」
「…知ってるんですか?」
「ここら辺の界隈じゃ昔から厄介と噂されてるおっさんでな。汚いやり方を平然とやるやつなんだよ。とりあえず、しばらくはじょーちゃんを別の場所に隠した方がいいと思うが…」
ゆあちゃんが俺の袖をぎゅっと握る。
彼女の小さな手が震えていて、その感触が腕に伝わってきた。
「…それはできねー様子だな」
「…そうですね。できれば避けたいです」
ここまで築いた信頼をゼロにするようなことはしたくない。
「まぁ、この事務所内に泊まるのならありだな。簡易ベッドとかシャワーくらいならあるし。奥の倉庫に使ってない部屋があるから、そこを片付けておけ」
「はい…。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「気にすんな。お前も立派な人の親になったんだ。親は子供のためならなんでもするべきだ」
そうして、奥の部屋を準備してもらい、その日はゆあちゃんにそこにいてもらうことにした。
部屋は埃っぽくて薄暗く、簡易ベッドと小さな机が置かれているだけ。
「…悪いけど今日はここにいてくれるか?ここには誰にも入らないように言っておくし、俺もできるだけ顔を出すからさ」
一緒に行動したいけど、車に乗せてるところをあいつらに見られたらまた面倒なことになる。
今一番安全なのはこの場所だ。
ゆあちゃんは小さく頷き、ベッドの端に腰掛けた。
すると、突然扉がバンッと勢いよく開き、けたたましい足音とともに一人の女が現れた。
「僕から先輩を奪ったのはあんたか。僕の目が赤いうちは先輩を奪わせないぜ」
派手な赤髪が目を引き、黒いロックバンドのTシャツに破れたジーンズ、首には派手なチョーカーが揺れている。
彼女は部屋にズカズカ入ってくると、腕を組んでこちらを睨んだ。
ゆあちゃんは目をぱちくりさせ、驚いた顔でその姿を見つめている。
事務所の空気が一瞬にして変わり、タバコの煙と彼女の香水が混じり合って妙な緊張感が生まれた。
「…おい。部屋の前に誰も入るなって書いてると思うが?」と声をかけると、アイラはニヤッと笑って肩をすくめた。
「おいおい、先輩。ダメよダメよはオッケーって言葉は知ってますか?」
「そんな言葉は知らねーよ。とりあえず出ていけよ、アイラ」
「ふんっ!力づくでどかしてみな!って、本気で追い出そうと…僕よりその女の子が好きなのか!」
笹ヶ峰アイラ。
一年前に入ってきた新人で、教育係として俺が面倒を見てきた。
【挿絵:
https://kakuyomu.jp/users/tanakamatao01/news/16818622170229468628
見た目通り、インディーズバンドの追っかけで、バンギャらしい派手な格好がトレードマーク。
一人称が「僕」の僕っ子だ。
彼女はゆあちゃんをチラッと見て、眉を上げた。
「あの子はなんなんですか?先輩って子供いたんですか?隠し子ですか?」
「あの子は…預かってる親戚の子供だ」
「しんせきぃ?先輩にそんな仲の良い親戚なんていたんですか?」
「…居たんだよ。それよりお前は人のことを気にするより、自分のことができるようになれ。まず車の免許を取れ。いつまでもバイクだけじゃ仕事しづらいだろ。俺に頼るな」
アイラは口を尖らせ、靴のつま先で床を軽く蹴りながら、「…免許取ったら先輩と一緒じゃなくなるし…」と小声で呟く。
いや…今日はこいつに面倒を見てもらうのはありか。
「…今日は事務所に残って仕事してくれ。というか、できればあの子の面倒を見てくれ」
露骨に嫌な顔をするアイラに、「…おい。いやな顔をするないやな顔を」と釘を刺す。
「それってお願いっすよね?そんじゃ、僕のお願いも聞いてくださいよ」
「お願い?なんだよ」
「…今度、僕とデートしてください」
「…はぁ…はいはい今度な」
「マジっすか!?先輩かみぃ!!」
アイラが飛びついてくる。勢いよく抱きつかれ、「ちょっ!?// くっつくな!胸が当たってんだよ!」と慌てて引き剥がすと、「あててんすよーw 男はこういうの好きって知ってんすからね!w」と笑いながら肩を叩いてきた。
結局、その日はほとんどアイラにゆあちゃんの面倒を見てもらった。
最初は怯えた小動物みたいにベッドの端で縮こまっていたゆあちゃんも、アイラが持ち前のコミュ力で絡み始めると徐々に打ち解けていった。
アイラは床に座り込んで何か冗談を言い、ゆあちゃんがクスクス笑う声が聞こえてくる。
後半には楽しそうに話すくらい心を開いていた。
やっぱ同性の方が安心するよな。
ちょっと仲良くなりすぎてて、内心少し嫉妬してしまう。
一回家に荷物を取りに戻る。
事務所に戻ると、部屋に近づくにつれ、中から楽しそうな声が漏れてきた。
ったく、遊びじゃないんだぞ?と思いながら扉を開けると、スク水姿のゆあちゃんが恥ずかしそうに立っていた。
部屋の中はアイラが持ち込んだらしいカラフルな雑貨で溢れ、簡易ベッドの上には派手なタオルが広げられている。
「どっすか!?先輩!やっぱスク水って男のロマンですよね!?」とアイラが得意げに胸を張る。ゆあちゃんは顔を赤くして俯き、両手で裾をぎゅっと握っていた。
とりあえず、アイラの頭を一発叩いた。
その夜は事務所で過ごすことに。ゆあちゃんに話を聞くと、アイラのことがかなり気に入ったみたいだ。
初めての友達ができた、と目を輝かせながら小さく笑った。




