私の世界
◇
朝の静けさが部屋に満ちていた。
窓から差し込む光がカーテンを透かし、床に淡い模様を刻む。
俺はソファに腰を下ろし、温かいお茶を手に持つ。
北海道の春らしいひんやりした空気が部屋に流れ込み、外では桜の花びらが風に舞う気配が感じられる。
ゆあちゃんの新しい人生と11歳が始まり、俺の1週間の休みも終わり、今日から仕事だ。
「それじゃあ、俺行ってくるね。仕事に連れて行きたいのは山々だけど…今日は外回りが中心だからさ。車に女の子を乗せっぱなしだと…色々面倒なことになる。ごめんね。何かあったらすぐ俺に連絡して。お腹減ったら冷蔵庫に色々あるし、お菓子もジュースも好きにしていいよ。テレビも自由に使ってね」
ゆあちゃんに穏やかに声をかけると、彼女はソファの端に座り、膝を抱えたまま小さく頷く。
「…はい」
「…じゃあ…お昼に一回戻ってくるから。それまでごめんね」
彼女の静かな瞳に見送られ、俺は玄関へ向かう。
靴を履き、ドアを開けると、春の冷たい風が頬を掠める。
車に乗り込み、キーを回すと、エンジンの低い音が響く。
仕事が始まる現実が頭をよぎるけど、ゆあちゃんを一人にするのは初めてで、心が落ち着かない。
渡したスマホが彼女の手元にあるはずだ。何かあれば連絡が来る。
そう自分に言い聞かせ、アクセルを踏む。
◇(ゆあちゃん視点)
お兄さんがドアを閉めた瞬間、部屋に静寂が降りた。
私はソファに座ったまま、膝を抱え、テレビの電源を入れる。
画面に映るアニメの賑やかな声が響くけど、心はどこか遠くに漂っている。
お兄さんの優しい言葉が頭に残り、胸の奥が微かにざわつく。
私は生まれた時から地獄にいた。
父は私が生まれる前から、母に手を上げていたらしい。
仕事もせず、母がパートで稼ぐ間、パチンコに金を費やし、家の貯金で女を買う。
そんな最低な男だった。
そして、私が生まれたのは、父が母を無理やり犯した結果だ。
私が産声を上げたことで、父の標的が一つ増えた。
母は私を守るどころか、父の面影が私にあると罵り、殴るか蹴るかした。
そんなある日、母は我慢の限界を迎え、私を置いて逃げ出した。
それからは地獄がさらに深くなった。
母が受けていた暴力が全て私に降りかかり、体は傷だらけ、心は砕けた貝殻のようだった。
生活のために万引きを強要され、バレれば殴られた。
児童相談所も警察も、私の状況を知っていた。でも、父の狂気を知ってか、誰も助けてくれなかった。
この家は私にとって奈落そのものだった。
そんな時、あの人が現れた。
借金を取り立てに来る、若いけど鋭い目をしたお兄さん。
いつも、私にだけ柔らかな視線を向けてくれた。
父が卑屈に頭を下げる姿を見るのは爽快だった。
あの人が来る日だけが、私の唯一の救いだった。
そして、ある日、父に差し出される形で、お兄さんの家に行くことになった。
最初は怖かった。
笑顔を見せる人ほど、二人きりになると本性を出すものだ。
きっとどこかに売り飛ばされるか、性のはけ口にされるか。
お兄さんが優しくても、闇金の人間だ。
信用なんてできなかった。
美味しいご飯を食べさせられても、命令されなくても、部屋を貰っても、プレゼントを渡されても…心の壁は崩さなかった。
でも、お兄さんは私に苛立つことなく、初めてのものをくれた。
春の夜に輝く街の灯り、誕生日ケーキの甘さ、生きる意味。
そんなことを考えながら、テレビの音に耳を傾ける。
だけど、いつかお兄さんに彼女ができるだろう。
そうなれば、私は邪魔者だ。
その時は…潔く消えよう。
お兄さんの幸せのためなら、それくらい何でもない。私はソファから立ち上がり、水道まで歩く。コップに水を汲み、冷たい水が喉を通ると、頭が少し冴える。
ふと、気になって家の散策を始めた。
お兄さんの秘密を知りたい。
別にそれで何かしようってわけじゃない。ただ、彼のことをもっと理解したくて、足が動いた。私の部屋には何もないから、お兄さんの部屋へ。
ドアを開けると、彼の匂いが漂う。ベッドは乱れ、机には書類が散らばっている。
クローゼットの奥を覗くと、小中高の卒業アルバムが目に留まった。
引っ張り出すと、少し埃っぽい表紙に指が触れる。ページをめくると、そこには今と変わらないお兄さんの顔。
子供なのに、どこか堂々とした雰囲気がある。
笑顔の写真が並び、その優しさが私を安心させる。
高校のアルバムを手に持つと、最後のページから一枚の手紙が滑り落ちた。
拾い上げると、綺麗な字が目に飛び込む。
『ずっと好きでした』
女の子の筆跡だ。
その後に、お兄さんへの想いが綴られている。最後には名前が。
『秋野 莉乃葉』
アルバムを見返すと、同じクラスにその名前があった。
長い髪に、透き通った瞳。クラスでも目立つ美しさだ。でも、
お兄さんは彼女がいたことないって言ってた。じゃあ、この手紙を受け取って…断ったのか?
家の中を探った。
引き出し、棚、本の間。でも、彼女の写真や痕跡は一つもない。
…なんで断ったんだろう。
いや…もしかして、この手紙に気づかなかったのか?
その考えが頭を掠めた瞬間、心の奥に黒い影が蠢いた。
それは私がずっと隠してきた本性だ。
いい子なんかじゃない。
私は父と同じ血を引く、汚れた存在だ。
手紙を手に持つと、お兄さんの灰皿入れに放り込み、マッチで火をつけた。
紙が赤く燃え、灰に変わる。
私はただ、それを見つめていた。




