誕生日と目標
◇6日目
俺はソファに腰を沈め、マグカップの縁から立ち上るコーヒーの香りに鼻を寄せる。
4月14日。
ゆあちゃんの誕生日が明日、4月15日だと知った今、頭の中が微かな期待でざわついている。
「ゆあちゃん、ごめんね。今日ちょっとだけ出かけるよ。2時間くらいなんだけど…大丈夫かな?」
リビングの隅で膝を抱えていたゆあちゃんが、ゆっくり顔を上げる。
彼女の瞳は感情を映さない静寂そのものだ。でも、無言で小さく首を動かしてくれた。
そのささやかな返答に、俺の肩が軽く緩む。
「すぐ戻るからね。何かしたくなったらテレビ見てて。無理しなくていいよ」
彼女がまた小さく頷き、俺は立ち上がる。
玄関でスニーカーを履き、ドアを開けると、春の風を含んだ空気が一気に流れ込む。
車のドアを開け、シートに腰を下ろすと、エンジンの振動が掌に伝わる。
今日の目的が頭に浮かぶ。ゆあちゃんにスマホを贈ること。
それが誕生日へのささやかなプレゼントだ。
なぜスマホを選んだのか。
いくつか思いがあった。
彼女が一人で過ごす時間に、何か気晴らしになるものがあればいい。そんな考えもある。
でも、一番は彼女と繋がるためだ。
ゆあちゃんはまだ俺と目を合わせて言葉を交わすのが難しい。感情を声に乗せるのはもっと遠いかもしれない。
でも、文字なら…画面の向こうなら、彼女の心が少しだけ開く瞬間があるかもしれない。
そんな淡い願いが、俺を街へと向かわせる。
車を走らせ、街の輪郭が近づいてくる。
窓を少し開けると、風が髪を乱し、遠くの喧騒が耳に届く。
信号で止まるたび、歩道を行き交う人々が視界に映る。母親と手を繋ぐ子供や、友達と笑い合う若者たち。
彼らの何気ない時間が、ゆあちゃんに贈りたい未来と重なる。
彼女にも友達と笑い合う日々が訪れてほしい。学校で夢を語り、未来を描く。
そんな当たり前の喜びを。
スマホはその第一歩になるかもしれない。
携帯ショップに着くと、ガラス張りの店内が目に飛び込む。
機種が整然と並び、白い照明が反射して眩しい。俺は少し緊張しながら棚の間を歩く。
ゆあちゃんに似合うものはどれだ?
女の子が好みそうなデザインって何だろう。
柔らかなピンクや、キラキラした装飾のものか。
子供用のスマホは色鮮やかで丸いけど、彼女の落ち着いた空気には合わない気がする。
彼女の静かな佇まいには、もう少し大人びたものがいい。
「サイズも大事だよな…」
呟きながら、手に取っては棚に戻す。
サプライズにしたくて一人で来たけど、正直、迷いが膨らむ。
誰かに相談すれば楽だったかもしれない。
でも、ゆあちゃんの驚く顔を思い浮かべると、その気持ちが上回る。
彼女の小さな手に収まるものがいい。
20分ほど棚を眺め、ミントグリーンのコンパクトなスマホを選んだ。
その色合いが、彼女の穏やかさとどこか響き合う気がした。
契約を済ませ、袋に詰められたスマホを受け取る。
店を出ると、春の陽射しを肌を汗で感じる。
次にケーキ屋へ向かう。
車を走らせ、開けた窓から入る風が頬を撫でる。
店に着くと、ガラスケースに並ぶケーキが視界を埋める。
フルーツが散りばめられた誕生日用の大きなケーキを選び、「ゆあちゃん」と書かれたプレートを頼んだ。
甘い香りが漂う中、店員が丁寧に箱に詰めてくれる。
ケーキを手に持つと、ゆあちゃんの顔が頭に浮かぶ。喜んでくれるだろうか。
夢の中の彼女はあんなに明るく笑っていたけど、今の彼女はまだ感情を表に出さない。
それでも、彼女の心が少しでも揺れてくれたら…。そんな期待に、足取りが弾む。
車に戻り、家へと急いだ。
ドアを開けると、静寂が俺を出迎えた。リビングにゆあちゃんの姿がない。
「ゆあちゃん?」
呼びかけるが、返事はない。
彼女の部屋に近づき、ノックしてそっと覗く。ベッドは空っぽ。
トイレもお風呂場も、俺の寝室も見回すが、どこにもいない。
「どこ行ったんだ…」
ソファに座り込み、頭を抱える。
不安が喉を塞ぎ、手が冷たくなる。
まさか逃げたのか?
俺がいない間に何かあったのか?
悪い考えが頭を埋め尽くし、息が浅くなる。彼女を置いて出かけたのが間違いだったのか。後悔が胸を締め付ける。
その時、ベランダのガラス戸が軽い音を立てて開いた。
振り返ると、ゆあちゃんが立っていた。
春の風が彼女の髪を揺らし、無表情な顔が俺を見つめる。
その姿に、肩の力が一気に抜けた。
「ゆあちゃん…ベランダにいたのか…驚かせないでくれよ」
凭れかかり、大きく息を吐く。
彼女が小さく頭を下げ、静かに近づいてくる。
俺は彼女を呼び寄せ、袋からスマホを取り出して差し出した。
「…これ…プレゼント…ですか?」
彼女が小さな声で尋ね、目を瞬かせる。
その視線に一瞬たじろぐ。
もし誕生日じゃなかったら…。でも、早めか遅めのお祝いにすればいいと割り切り、穏やかに尋ねる。
「…誕生日…だったりする? 今日」
彼女が小さく頷く。
「…なんで…お父さんだって…覚えてないはず…なのに…」
「おじさんは超能力者だからね」と、軽く笑って誤魔化した。
誕生日が合っていたことに安堵が広がり、あの夢が現実と繋がっていると実感する。
彼女は箱をじっと見つめ、俺の顔をチラリと伺う。
「開けていいよ。使い方は教えるからね」
彼女の瞳が一瞬輝き、フィルムを剥がしてスマホを取り出す。
ミントグリーンの機体を手に持つ姿は、初めて贈り物を受け取った子供のようだ。
俺は設定を始め、SNSで繋がれるようにし、簡単なアプリを入れた。
「これで俺とも話しやすくなるよ。言葉にしなくても、文字で伝えられるから」
そう言うと、すぐにメッセージが届く。
『ありがとうございます。嬉しいです』
その言葉に、頬が緩む。
普通の子供なら一日中触り続けるだろうけど、ゆあちゃんはスマホをテーブルに置き、「…ぁ…りがとう…ございます」と呟く。
その素直さに、俺はそっと手を伸ばし、頭を撫でた。彼女は一瞬体を硬くしたが、逃げずに目を伏せる。
「ちょっと待っててね」
冷蔵庫からケーキを出す。
夜まで待つつもりだったけど、彼女の反応に我慢できなくなった。
フルーツが彩るケーキをテーブルに置き、プレートを見せる。
「誕生日ケーキだよ。今年で11歳だよね?」
「…はい」
「じゃあ、食べようか」
お皿に切り分け、彼女にジュース、俺にビールを用意する。
彼女はショートケーキを手に取り、急いで口に運ぶ。
その美味しそうな様子に、俺は笑みを浮かべる。満腹そうに頬を緩める彼女に言う。
「11歳の誕生日だからさ…1つ目標を立ててみない? 無理しなくていいし、できなくても大丈夫。でも、目標があると何か変わるかもしれないよ」
彼女は首を傾げ、スマホを手に持つ。
不慣れな指で文字を打ち、やがてメッセージが届く。
『お兄さんと仲良くお話しする』
その純粋さに、笑顔が溢れる。
「いい目標だね。叶うといいね」
彼女が小さく頷き、俺は彼女の未来に希望の欠片を見た気がした。




