第9話
城塞都市バルディア、その北区画に位置する軍団司令部。
窓の外にはすでに夜の帳が下りており、街の灯りもまばらになっている。 その一角にある軍団長執務室の空気は、鉛のように重かった。
「……はぁ」
部屋の主である王国軍第三軍団長、ボルドーは、机の上に積み上がった書類の山を前に今日何度目か分からない深い溜息を吐いた。
四十路を超えた彼の顔には、隠しきれない疲労の色が刻まれている。彼は手元の羊皮紙――部下たちからの『給与支払い遅延に関する報告書』――を乱暴に放り出し、椅子の背もたれに体重を預けた。
「また、遅配か……。国はいったい何を考えてやがる」
独り言は、誰に聞かせるでもない重い愚痴となって口をついて出る。魔王軍との戦況が悪化してからというもの、中央からの送金は滞る一方だった。
『戦費は最重要防衛ラインである前線へ優先的に回す』。それが王都からの通達だった。結果、このバルディアのような後方支援基地への予算は削られ続けている。
ボルドーは執務室の壁に目をやった。
かつてそこには、代々伝わる名刀や高価な調度品が飾られていた。だが今は、無骨な壁紙が見えているだけ。部下の給料を捻出するため、軍団の運営費を極限まで切り詰め、それでも足りずに彼自身の私財まで売り払ったからだ。
屋敷も、宝飾品も、全て金に換えた。
「俺の財産も、もう底をつくぞ。……これ以上、どうやって兵たちを食わせろと言うんだ」
部下たちは文句も言わずに国境を守っているが、それも限界に近い。
家族を養えない兵士たちの士気は下がり続け、中には脱走する者まで出始めている。それなのに、この街の領主であるガンター伯爵はどうだ。
毎晩のように宴を開き、贅の限りを尽くしている。兵士の給料は出さないくせに、自分の懐にはきっちりと税収を収めているのだ。
「やってられん。……それに加えて、今日の騒ぎだ」
ボルドーはこめかみを指で押し、頭痛を堪えるように眉をひそめた。
昼間に起きた、コールマン商会と領主との衝突騒ぎ。おかげで、本来なら休息をとらせるべき兵士たちを叩き起こして検問に当たらせている。もちろん、その分の超過手当が出る保証などどこにもない。
「『国賊ワイズ・コールマンを見つけ次第、捕縛せよ』……か。余計な仕事を増やしやがって」
ボルドーは羽根ペンを執り、インク壺に突っ込んだ。領主への報告書を書かなければならない。『捜索中なるも発見に至らず』。そう書き記そうとした、その時だった。
「手間をかけて申し訳ない」
不意に。
本当に唐突に、部屋の隅から男の声がした。
「なっ!?」
ボルドーの反応は早かった。
長年、現場で命を張ってきた歴戦の武人としての勘。彼は思考するより先に椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、腰の剣を抜き放っていた。
「誰だッ!!」
声と共に、音のした方角へ鋭い突きを繰り出す。侵入者の姿を確認する余裕などない。一切の気配を感じさせずにここまで接近されたのだ。
相手が手練れであることは明白。ならば、問答無用で無力化するのが正解だ。ボルドーの剣は、鋼すら貫くほどの鋭さで闇の中の人影へと吸い込まれていく。
乾いた音が、静寂を切り裂いた。
手元に伝わるはずの、肉を貫く感触がない。かといって、剣で弾かれたような衝撃もない。ただピタリと、 不可解なほど唐突に、剣の動きが止められていた。
「……は?」
ボルドーは我が目を疑った。
月明かりに照らし出されたのは、申し訳なさそうな顔で立つロングコートの男――指名手配中のワイズ・コールマン。そして彼の前に立ち塞がる、氷のような美貌を持つ銀髪の女。
何よりボルドーを戦慄させたのは、自分の剣の先。渾身の力を込めた切っ先を、その女はあろうことか、親指と人差指の指先だけで摘んで受け止めていたのだ。
「…………」
女は表情一つ変えていない。
まるで舞い落ちる木の葉でも掴むかのような、あまりにも軽い所作。だがボルドーは剣を引くことも、押し込むこともできなかった。万力で固定されたかのように、剣先が微動だにしないのだ。
冷たい汗が、ボルドーの背中を伝う。
彼は理解した。いや、武人としての本能が理解させられた。目の前の女は、人間ではない。人の皮を被った、もっと別の、圧倒的な存在だ。
「……化け物が」
ボルドーは呻くように呟き、剣の柄から手を離して後ずさった。勝てるわけがない。こんな常識外れの怪物を相手に、剣一本でどうにかなるはずがなかった。
「賢明な判断です」
ワイズが落ち着いた声で言い、ミナに目配せをした。ミナは興味なさそうに指を離すと、摘んでいた剣を無造作に床へと放り捨てた。剣が床に落ちる寂しい金属音が響く。
ボルドーは荒くなった呼吸を整えながら、警戒心を解かずに女――ミナを睨みつけた。
その銀髪。
整いすぎた容姿。
そして人間離れした膂力。
噂には聞いていた。
S級冒険者、『朱き災厄』。単騎でドラゴンすら屠ると言われる生ける伝説。
「……噂は本当だったか。『朱き災厄』ミナ・リンスリー。あんたほどの有名人が、なんでこんな金貸しの護衛なんかやってる」
ボルドーの問いに、ミナは冷ややかな視線を返すだけだった。
「貴方には関係のないことです」
取り付く島もない拒絶。
彼女にとって、ボルドーの疑問など路傍の石ころ以下の価値しかないと言わんばかりの態度だった。
張り詰めた空気が漂う中、ワイズがゆっくりと歩み出て、主人のいなくなった椅子を勧めるように手をかざした。
「まあまあ、そう殺気立たないでください。ボルドー軍団長」
「……国賊に気安く呼ばれる覚えはない」
「そう仰らずに。貴方も確認されていたでしょう? 三ヶ月未払いの給与明細を」
「ッ……!?」
ボルドーが息を呑む。
ワイズは人の悪い笑みを浮かべながら、机の上に散らばっていた書類を指先で弾いた。壁に残った絵画の跡。使い込まれた調度品。
そして何より、この部屋に漂う逼迫した空気。
プロの商人の目は、全てを見抜いていた。
「驚きましたよ。私財を投げ打ってまで部下を食わせようとする指揮官が、まだこの国に残っていたとは。……ですが、それももう限界のご様子だ」
「……何が言いたい」
「簡単なことです。私は商売人ですからね。困っている人がいれば、取引を持ちかけたくなる」
ワイズは懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。
それは契約書ではない。
もっと単純で、もっと強力な、あるリストだった。
「ボルドー軍団長。貴方に取引を提案します。……これは、貴方と部下たちが生き残るための商談です」




