第8話
王都から北へ馬車を走らせること更に数日。ワイズたちの眼前に、荒涼とした大地にそびえ立つ巨大な石壁が姿を現した。
城塞都市バルディア。
王都と北方の帝国領を結ぶ要衝であり、人と物の流れをすべて管理する巨大な関所でもある。ここを通らずして、帝国へ抜けることは不可能だ。
コールマン商会の馬車団は、その威圧的な鉄門の前で車列を止め、入城手続きの順番待ちを余儀なくされていた。
「……空気が悪いな」
先頭の馬車の窓から外を眺め、ワイズが独り言のように呟いた。
もちろん物理的な大気汚染の話ではない。門の周辺を覆う、どんよりとした停滞感。そして肌を刺すような殺伐とした気配のことだ。
入城しようとする商隊の列は短く、逆に目立つのは、家財道具を背負って逃げるように門から出ていく市民や、殺気立った冒険者の姿ばかり。
門を守る衛兵たちは検問を通る人々を荒々しく怒鳴りつけているが、その目には隠しきれない疲労と、何かに怯えるような色が濃く滲んでいる。
「会長。あそこで立ち往生している行商人の荷車をご覧ください」
「ああ……小麦粉の袋か?」
「はい。衛兵と言い争っています。通行税が昨日より上がっていると」
ミナの視線の先では、みすぼらしい身なりの行商人が衛兵に法外な税をふっかけられ、泣く泣く商品の一部を差し出している光景があった。
「物価の高騰に賃金が追いつかず、税だけが際限なく上がる。典型的なスタグフレーションだな」
「ええ。長引く魔王との戦争で国庫が底をつき、そのツケを現場で回収しているのでしょう。……この国の経済は、すでに死に体です」
貨幣の価値は暴落し、市民は逃げ出し、物流は滞る。
だというのに城壁の向こうに見える領主の城館だけは、ここからでも分かるほど立派なものだった。その対比こそが、この都市の歪さを如実に物語っている。
ワイズたちが冷ややかな視線で観察を続けていると、閉ざされていた小門が開き、一人の男が早足でこちらへ向かってくるのが見えた。
仕立ての良い服を着た神経質そうな男。おそらくは領主の関係者だろう。
彼はコールマン商会の紋章が入った先頭車両を見つけると、埃っぽい地面を嫌そうに歩いて近づき声をかけてきた。
「失礼。ワイズ・コールマン殿の馬車とお見受けする」
ワイズが窓を開けると、男は慇懃無礼な態度で一礼した。その胸元には、飢えた市民たちとは別世界の人間であることを誇示するかのように、宝石のブローチが光っている。 執事なのだろう。彼は事務的に用件を告げた。
「領主であるガンター伯爵がお待ちです。貴殿の馬車のみ、優先的に入城を許可し、城館へご案内するようにと」
「ほう? それは光栄なことだ」
「手続きはこちらで済ませますので、どうぞそのまま中へ。……ただし」
執事は後ろに続く商会の馬車団を一瞥し、冷淡に告げた。
「他の馬車につきましては、規定通り待機列にて検問を受けていただきます。許可が出るまで城外にて待機を」
分断工作か、あるいは単に邪魔な荷物を後回しにしたいだけか。ワイズは表情一つ変えずに「承知した」と答え、窓を閉めた。だがその目は笑っていない。
「ランドルフ」
ワイズは御者台へ短く声をかけた。
「私とミナで領主の相手をしてくる。お前はこの馬車で私たちを城まで送った後、そのまま待機だ」
「わかりました。後ろの連中は置いていくんで?」
「ああ。だがろくな用件じゃないだろうな。……交渉が決裂した場合、すぐに合図を送る」
ワイズは懐中時計を確認しながら、指示を出す。
「私の合図を確認次第、お前は離脱しろ。この馬車は放棄しても構わん。その後、予定通り後続の馬車団と合流しろ」
「了解です、会長。……そちらも無茶をしないでくださいね」
ランドルフが不敵に笑い、手綱を握り直す。重厚な門がワイズの乗った馬車一台を通すためだけに、重々しい音を立てて開かれた。
「では、参りましょうか」
ミナが静かに呟く。ワイズは冷ややかな視線を前方の城館へと向けた。馬車は死んだ目をした衛兵たちの視線の中、ゆっくりと城塞都市の内部へと進んで行く。
・ ・ ・
ワイズたちが案内されたのは、領主の館の最上階にある応接室だった。
窓の外には荒廃した街並みが広がっている。だがこの部屋の中だけは別世界のように煌びやかだ。壁には名画が飾られ、床には最高級の絨毯が敷き詰められている。
その中央、豪奢な革張りのソファに、この都市の支配者であるガンター伯爵がふんぞり返っていた。彼は入室してきたワイズを一瞥すると、薄い唇を歪めて嘲笑う。
「よく来たな、ワイズ殿。いや、今は『国賊』ワイズ殿と呼ぶべきかな?」
開口一番、伯爵はワイズという人間ではなく、彼が持つ資産を値踏みするような視線を向けた。ワイズは優雅に一礼して見せる。
「お久しぶりですね、閣下。私はただの善良な商人ですよ。少しばかり未払いの代金を回収しているに過ぎません」
「ふん、減らず口を。……まあいい。単刀直入に言おう」
伯爵はテーブルの上に放り出していた足を組み替えた。
「貴様の通行を許可してやってもいい。ただし、条件がある」
「条件、ですか」
「戦時特別徴収だ。貴様が持っている資産、商品、そして馬車。その全てを軍需物資としてこの街に寄付していけ。そうすれば、身一つで逃げることくらいは見逃してやる」
ワイズは表情を崩さなかったが、その瞳の奥が冷たく光った。
長引く戦争で国からの支援が途絶え、税収も減っている今、この男は通りがかる金持ちを襲って私腹を肥やそうとしているに過ぎない。どこまでも小物。
「お断りします」
「……あ?」
「全財産を置いていけというのは、商人にとって死ねと言うのと同じです。それに、私の資産は全て正当な契約に基づくもの。いかなる権力であっても、不当に没収される謂れはありません」
ワイズがきっぱりと告げると、伯爵の顔が憤怒で赤く染まった。
自分のものになるはずの獲物に噛みつかれたかのように、ヒステリックに叫ぶ。
「き、貴様……立場が分かっているのか!? ここは私の街だ! 貴様ごとき商人風情が、領主である私に逆らえると――」
伯爵が指を鳴らす。
瞬間、部屋の左右にある扉が乱暴に開かれ、武装兵たちが雪崩れ込んできた。剣を抜き、ワイズとミナを取り囲む。
「捕らえろ! 抵抗するなら殺しても構わん! どうせ国賊だ、死体になっても文句は言われん!」
勝利を確信した伯爵が、歪んだ欲望を剥き出しにして叫ぶ。だがワイズは動じない。むしろ、憐れむような目で伯爵を見下ろした。
「……残念です。交渉決裂ですね」
「な、なにを余裕ぶって――」
「ミナ。お暇するぞ」
「はい」
短く呼応したミナが動いた。兵士たちが剣を振り上げるよりも速く、彼女は懐から硝子瓶を取り出し、足元の床へと叩きつける。硝子が割れる硬質な音。
直後、爆発的な閃光と白煙が部屋を埋め尽くした。
「うわっ!? なんだ!?」
調合された閃光液と催涙ガスの混合物。強烈な光と刺激臭が充満し、兵士たちが悲鳴を上げてのたうち回る。
「おのれぇぇ! 逃がすな! 絶対に捕らえろぉぉ!!」
視界を奪われながらも喚き散らす伯爵を尻目に、ワイズはすでに窓枠へ足をかけていた。ガラスを蹴り破り、二人は躊躇なく空へと身を躍らせる。
「ランドルフッ!!」
落下しながら、ワイズが鋭く叫んだ。眼下の中庭では、待機していた馬車の御者台でランドルフが不敵に笑うのが見えた。
「あいよッ!!」
ランドルフが鞭を振るう。急発進した馬車が、正門を塞ごうとしていた衛兵たちに向かって突っ込んだ。派手な騒ぎと砂煙が上がり、敵の注意が一斉にそちらへ引きつけられる。
その隙にワイズとミナは庭木の茂みに着地し、混乱に乗じて裏手の塀を軽やかに乗り越えた。そのまま路地裏の影に滑り込み、一気に街中を駆け抜ける。
しばらく後、城館から距離をとった場所で二人は足を止めた。ワイズが呼吸を整えていると、不意にミナの肩が小さく震えた。
「……ふふっ」
「どうした?」
ワイズが不思議そうに尋ねると、ミナは口元を手で押さえ楽しげに瞳を細めた。
「いえ。理不尽な要求による交渉決裂、短絡的な武力行使、そして緊急脱出。……つい数日前、王城でも全く同じ光景を見た気がしまして」
「…………」
「デジャヴというやつでしょうか。この国の権力者の皆様は、台本通りの三文芝居がお好きなようですね」
ミナの皮肉めいた指摘に、ワイズは深く、重いため息をついた。
呆れ果てた、という表情だ。
「全くだ。どいつもこいつも」
ワイズは乱れた襟元を直しながら、吐き捨てるように続ける。
「国王も、この領主もそうだ。目の前に黄金の卵を産むガチョウがいたら、餌をやって手懐けるのが賢い飼い主だろう? なのに奴らはガチョウを見た瞬間に腹を切り裂いて、中身を奪おうとする」
「将来的に得られる莫大な利益より、目の前の一瞬の快楽を選んだわけですね」
「ああ。これほど短期的な思考しかできない連中が、国の舵取りをしているとはな。……ワンパターンすぎて、怒りを通り越して呆れる」
ワイズは懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
まだ日は高い。夜までは時間がある。
「さて。ランドルフも逃げ切れるはずだ。我々は夜まで潜伏するぞ」
「承知しました」
警報の鐘がけたたましく鳴り響き始めた。だがその音が二人に届く頃には、彼らの姿はすでに入り組んだ路地裏の闇へと消えていた。




