第7話
王都を脱出して数日。
馬車の窓を流れる景色は、いつしか無骨で圧迫感のある石造りの街並みから、どこまでも広がるのどかな田園風景へと移り変わっていた。
最高級のサスペンションを備えた馬車は、砂利道の振動を心地よい揺らぎへと変え、車内には静謐な時間が流れている。その静けさを破ったのは、いつものように冷静で事務的な秘書の声だった。
「会長。各地の支店長たちから、定時連絡が入っております」
向かいの席でミナが数枚の報告書を広げた。手元の水晶板が淡い光を放っている。魔法通信によってリアルタイムで送られてきた、撤退作戦の進捗報告だ。
「読み上げてくれ」
「はい。まず東部港湾都市の支店。すでに保有船団への物資積み込みを完了し、先ほど出港しました。帝国領への到着は一週間後を予定しているようです」
「早いな。港湾局の足止めはなかったのか?」
「賄賂……いえ、特別通行税として金貨五百枚を局長に握らせたところ、満面の笑みで見送られたとのことです」
「安いものだ」
ワイズは満足げに頷いた。船団の商品を没収されるリスクを考えれば、金貨五百枚など必要経費の範疇。端金と言ってもいい。
「次に南部の鉱山都市、および西部の商業都市。こちらもすでに店舗の閉鎖と重要資産の搬出を完了。現地スタッフは複数の馬車団に分かれ、ダミーの商隊を装いつつ、それぞれ異なるルートで国境を目指しています」
報告は続く。
淡々と読み上げられるその内容は、無駄のない鮮やかな撤退劇だった。この国中に血管のように張り巡らされていたコールマン商会という物流網が、一斉に機能を停止し、引き抜かれていく。
その事実に気づいていないのは、おそらく王城で癇癪を起こしている国王と、素っ裸にされた勇者一行くらいのものだろう。
「妨害工作の類は?」
「数件、報告されています。国境付近の検問所や、一部の地方領主の私兵団から通行許可証の不備などを理由に、不当な拘束を受けそうになったと」
「で、どう対処した?」
「武力衝突が二件。買収による解決が八件。……それと」
ミナは一瞬だけ言葉を区切り、手元の資料に目を落とした。
「王都のガレオス将軍と同様に、現場の指揮官が見て見ぬふりをしてくれたケースが十数件あります」
ワイズは眉をひそめた。意外な数字だった。
金で動く者はともかく、自らの意思で見逃した者がこれほど多いとは。
「どうやら現場の兵士たちの士気は、私たちが想定していた以上に低下しているようですね」
「……無理もないか」
「ええ。長引く魔王軍との戦争、度重なる増税、そして勇者一行の素行不良……。前線の兵士や地方の代官たちは、とっくに限界を迎えていたのでしょう」
国王への忠誠心よりも、終わらない戦争への嫌気が勝る。あるいは、もうどうにでもなれという、国全体を覆う投げやりな空気。
だからこそ、彼らは国賊であるはずのワイズたちを見逃したのだ。どうせこの国はもうダメだという、諦観と共に。
「……なるほどな」
ワイズはふと、窓の外へと視線を向けた。
街道の脇には、黄金色に実った麦畑が地平線の彼方まで広がっている。一陣の風が吹けば無数の穂先が波のように揺れ、ざわめきと共に美しい音色を奏でる。
どこをどう切り取っても、平和そのものの光景だ。
だがワイズの脳裏に蘇ったのは、これとは対照的な灰色の記憶。
(……ああ、あの時と同じだ)
かつてワイズが生まれ育った小国。王家の放漫財政の末に破綻し、隣国に吸収されて地図から消滅した故郷。
その最後の日も今日のように空は突き抜けるように青く、景色は残酷なほど美しかった気がする。
国が滅びるといっても、ある日突然、天地が崩れ落ちるわけではない。
ただ昨日まで使えていた通貨が紙屑になり、昨日まで偉そうにしていた役人が我先に逃げ出し、昨日まで信じられていた常識が音もなく崩壊するだけ。
そして庶民たちは看板が変わっただけの新しい支配者の下で、また昨日と同じように畑を耕す。
『国破れて山河あり』とはよく言ったものだ。
国というシステムが死んでも、土地と人は残る。だがその移行期間に訪れる経済的な混乱は多くの弱者を飢えさせ、殺すことになるだろう。
窓の外に広がるのどかな田園風景とは裏腹に、この国はこれからゆっくりと、だが確実に死んでいく。
「……本当に、容赦ないですね。国一つ、完全に潰すおつもりですか」
窓の景色を眺め、静かに物思いに耽るワイズに声をかけたのは、向かいに座るミナだった。
彼女は呆れたような、けれどどこか楽しむような色を瞳に宿し、涼やかな顔でワイズを見つめている。
ワイズは肩をすくめた。
「同情するか? かつての君のように、無知ゆえに搾取される彼らに」
「まさか」
ミナは心底嫌そうな顔で、即答した。
「契約書も読まずに判を押す馬鹿は、地獄を見るのが世の常です。……身を持って知っていますから」
「違いない」
その言葉に、ワイズは口元を緩めた。
そうだった。感傷に浸る時間は終わりだ。自分たちはもう、かつてのような無力な子供ではない。実利と契約で世界を動かす、大商人なのだから。
ワイズは居住まいを正し、商売人の顔へと戻った。手元の手帳を開く。そこには帝国での新たな事業計画がびっしりと書き込まれていた。




