第4話
耳元で風が唸る。五階からの自由落下。
常人ならば恐怖で悲鳴を上げるところだが、ワイズもミナも表情一つ変えず、空中でもなお優雅にコートの襟を押さえていた。
眼下に迫る石畳。だが二人が目指したのはそこではない。中庭に植えられた、樹齢数百年を誇るであろう巨大な樫の古木だ。
ミナが空中で身を翻し、張り出した太い枝の一本に足先を軽やかに乗せる。枝が大きくしなり、落下の運動エネルギーが殺された。ワイズもまた、ミナに合わせて別の枝へと飛び移る。
二人の影が、緑の天蓋の中を落下する。枝から枝へ。まるで軽業師のように、あるいは舞い落ちる木の葉のように。クッションとなる枝を巧みに利用し、降下していく。
そしてまるで何事もなかったかのように、二人は中庭の植え込みの陰へと降り立った。
派手な衝撃も、土煙もない。ただ風が吹いたかのような自然な着地。
「手入れの行き届いた良い庭木だ」
「お気に召したようで何よりです」
周囲には警備の兵士たちが巡回していたが、頭上から飛び降りた二人には気づいていない。
彼らの視線は騒ぎのあった謁見の間や、正門の方角に向けられていた。
「……さて、行きましょう」
ミナが音もなく歩き出し、ワイズもその背後に続く。
植え込みを利用し、死角を縫うようにして広大な中庭を横断する。目指すは中央の噴水広場。そこに馬車が待機しているはずだ。
だが王城の警備網はそう甘くはなかった。中庭の半分ほどを過ぎたあたりで、角を曲がってきた巡回兵の一団と鉢合わせしてしまう。
「む? 貴様ら、そこで何をしている!」
兵士たちの声が響く。
彼らの視線が黒いスーツの女と、ロングコートの男に突き刺さった。一瞬の硬直。そして、兵士の一人が目を見開いて叫ぶ。
「あれは……ワイズ・コールマン!」
「いたぞ! 中庭だ!! 急げ!!」
静寂が破られた。
警報の鐘がけたたましく鳴り響き、四方八方から衛兵たちが殺到してくる。
「見つかりましたね」
「構わん。このまま行くぞ」
ワイズは躊躇なく駆け出した。ミナが並走し、近づく兵士たちを素手で薙ぎ払いながら露払いをする。
「そこまでだ、国賊め!!」
前方から槍を構えた小隊が立ちはだかる。
だがその包囲網が完成するより早く、一台の漆黒の馬車が兵士たちを弾き飛ばしながら、噴水広場の陰から猛スピードで躍り出た。
「お待たせしました、会長!!」
御者台で手綱を振るうのは、ロマンスグレーの髪をオールバックにした中年の男。ワイズの専属御者、ランドルフだ。
彼はドリフト走行のような荒技で馬車を横滑りさせると、ワイズたちの目の前にピタリと停車させた。
「随分と派手なお帰りですな!!」
「悪いな、ランドルフ。お客様がご機嫌斜めでね」
「ハハッ、それは難儀なことで。……さあ、お乗りを!」
ワイズとミナが飛び乗ると同時、ランドルフが鞭を振るう。二頭の駿馬がいななき、重厚な馬車が弾丸のように加速した。
「止まれぇぇぇ!!」
「逃がすな! 門を閉じろ! 絶対に外に出すな!!」
後方から、王城の騎士団が雪崩を打って追いかけてくる。
だがワイズたちの行く手を阻む最大の障害は、目の前に立ちはだかる王城の正門だった。分厚い鉄と樫の木で作られた巨大な城門。
すでに門は固く閉ざされ、その前には重装歩兵による密集陣形が展開されている。
人の壁と、鉄の壁。完全に逃げ場はない。
「会長! 前が塞がっていますぜ!」
御者台からランドルフの楽しげな声が飛んでくる。車内、革張りのシートに深く腰掛けたワイズは、向かいに座るミナへと視線を流した。
彼女は静かに、主の命令を待っている。
「ミナ」
「はい」
「掃除の時間だ。……邪魔な瓦礫をどけろ」
その言葉を待っていたかのように、ミナが虚空に手をかざした。彼女の瞳に冷徹な光が宿る。
「会長、武器の使用許可を申請します」
ミナとワイズの間には、特殊な雇用契約が結ばれている。
彼女の真の力、そして彼女が愛用する「ある武装」は、ワイズよる承認がなければアイテムボックスから取り出すことすらできない封印式になっている。
ワイズは口元を歪め、短く告げた。
「許可する。派手にやれ」
その言葉を耳にしたミナは静かに立ち上がり、走行中の馬車の扉を開けた。
「それでは失礼します」
彼女は一瞬の躊躇もなく、高速で流れる景色の中へと身を躍らせる。だが地面には降りない。彼女がヒールの爪先をかけたのは、窓枠のわずかな縁。
そこを足場に猫のようなしなやかさで馬車の屋根へと上がると、ミナは揺れる馬車の天板に仁王立ちになる。
黒いパンツスーツの裾が翻り、銀髪が嵐のように舞う。
その凛とした姿は、戦場に舞い降りた戦乙女そのものだった。
「――武装展開。『紅蓮』起動」
彼女が虚空から引き抜いたのは、身の丈を優に超える巨大な戦斧槍だった。
血を吸ったかのような真紅のボディ。ドラゴンの素材を用いて鍛造されたというその刃は、ただ存在しているだけで周囲の大気を焦がすほどの魔力を放っている。
「ランドルフ、そのまま速度を維持してください」
「あいよッ!」
彼女は風圧をものともせず、片手で軽々と巨大なハルバードを構えた。
迫る正門。槍を構えて待ち受ける兵士たちの顔に、驚愕の色が浮かんだのが見えた。
「な、なんだあの武器は!?」
「ば、馬鹿な……あの真紅の戦斧槍……まさか!?」
兵士の一人が、恐怖に引きつった声で叫ぶ。
その特徴的な武器の形状。そしてそれを振るう銀髪の美女。王国の、いや大陸中の兵士であれば、一度は聞いたことがあるはずの伝説。
「『朱き災厄』……ッ!? 行方不明のS級冒険者がなんでこんなところに!?」
答え合わせをする時間は、彼らには残されていなかった。
「邪魔です」
ミナが無慈悲にハルバードを薙ぎ払う。放たれたのは物理的な斬撃ではない。圧縮された魔力だ。
一撃。
たった一振り。
それだけで王城の正門が、周囲の城壁ごと消し飛んだ。
爆風に巻き込まれた兵士たちが木の葉のように吹き飛び、強固な鉄の扉はひしゃげた紙屑のようにねじ切れて空へ舞う。
「よっしゃ! 最高だぜお嬢ちゃん! 道が開いた!!」
ランドルフが歓声を上げ、馬車は粉塵を突き破って王城の外へと飛び出した。もはや追ってくる者はいない。
呆然と立ち尽くす衛兵たちと、瓦礫の山と化した正門だけがそこに残されていた。




