第3話
ワイズは気絶してピクリとも動かない勇者に一瞥もくれず、無造作に踵を返した。
用は済んだと言わんばかりのその背中に、凍りついていた国王がようやく我に返る。
「お……おのれぇ……!」
屈辱と恐怖で震えていた国王の顔が、瞬く間に憤怒の赤色に染め上げられた。
国の最高戦力である勇者が、たかが商人に、それも帳簿などで殴り倒されたのだ。
この事実が城外に漏れれば、王家の権威は地に落ちるどころの話ではない。
「殺せ! 殺せぇ!! その男を生かして帰すな! 近衛兵総員、構わん、かかれぇえええ!!」
なりふり構わぬ王の絶叫が響き渡る。
その声に弾かれたように、謁見の間の扉が乱暴に開け放たれた。待機していた数十名の増援部隊が雪崩れ込んでくる。
先ほどの二人とはわけが違う。完全武装した兵士たちが、出口を塞ぐようにして槍衾を作った。完全に包囲された形だ。
「やれやれ……」
ワイズは立ち止まり、困ったように肩をすくめた。その表情に焦りはない。
ただ予定外の残業を強いられたギルド職員のような、気怠げで憂鬱な色が浮かんでいるだけ。
「全く、野蛮ですね。話し合いで解決できない顧客は、これだから困る」
彼は帳簿を小脇に抱えると、一瞬だけ視線を巡らせる。兵の数は多く、質も悪くない。流石に近衛兵といったところか。
「仕方がないですね」
ワイズはおもむろに虚空に手をかざした。アイテムボックスが展開し、光の粒子が集束する。
彼がそこから引き抜いたのは、つい先程、勇者の腰から回収したばかりの代物だった。
――黄金の輝きを放つ、伝説の聖剣。
刀身に刻まれた古代文字が神々しい光を放ち、謁見の間を昼間のように照らし出す。
「なっ……!?」
「ば、馬鹿な……聖剣だと!?」
兵士たちの足が止まった。国王が、聖女が、目を見開いて絶句する。
聖剣は、神に選ばれた勇者にしか扱えないはずの至宝だ。
それを金貸しの商人が当然のような顔で握っているのだから無理もない。
「本来、所有権のない者が触れれば神罰が下るはずですが……」
ワイズは聖剣の柄を軽く握り直し、軽い音を立てて振った。
「あいにくと、現在の所有権は債権者である私にありますので」
理屈さえ通れば神の加護すら書き換える。それが商人の契約魔法だ。
ワイズは悠然と構えると、切っ先を足元の豪奢な大理石の床に向け躊躇なく突き立てた。
まるで豆腐に針を刺すかのように、聖剣は硬い床を貫き、深々と埋まる。
「ひぃっ!? 聖剣になんてことを!!」
「これくらいで傷つくような代物ではないですよ」
ワイズは場違いな微笑みを浮かべると、一人だけしっかり目を瞑り、埋まった聖剣に魔力を流し込んだ。
「では皆様、これにて失礼いたします。目が潰れないよう、ご注意を」
「な、なにを――」
「光魔法――閃光」
聖剣を触媒にして放たれたのは、視界を完全に白く塗りつぶすほどの極大の閃光。
攻撃魔法ではない。単なる目くらましだ。
だが聖剣の増幅効果によって強化されたその光は、室内にいた全員の視神経を一時的に麻痺させるのに十分すぎる威力を持っていた。
「ぐあぁぁぁっ!?」
悲鳴と怒号が交錯する中、ワイズはその隙を見逃さない。
彼は手際よく聖剣を引き抜いてアイテムボックスに収納すると、混乱の渦中にある兵士たちの隙間を縫うようにして駆け抜けた。
・ ・ ・
王城、西棟五階。
怒号と悲鳴が渦巻く謁見の間から、わずかに離れた来賓用控え室。分厚い樫の木の扉を隔てたその空間は、廊下の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ワイズが扉を開けて足を踏み入れると、一人の女性がすでに準備万端な状態で佇んでいた。
窓から差し込む日光が、彼女の銀色の髪を透き通るように照らし出している。
髪をきっちりとシニヨンにまとめ、黒のタイトなパンツスーツを隙なく着こなす美女。ワイズの秘書兼護衛、ミナ・リンスリーだ。
その陶磁器のように白い肌と、涼やかな目元。
あまりに整いすぎた顔立ちは、美しいというよりは、精巧に作られた自動人形のような冷たさを帯びている。
彼女は入室してきたワイズを見ても、眉一つ動かさなかった。ただ懐から銀時計を取り出し、ガラス細工のように繊細な指先で蓋を開く。
「会長」
「ああ、待たせたね」
「予定より4分と30秒、お時間が過ぎております」
ミナは感情の抜け落ちた声で、淡々と事実だけを告げた。
ワイズは苦笑を浮かべつつ、部屋の中央に置かれていたローテーブルへと歩み寄る。そこには、彼が愛用している最高級皮革のアタッシュケースが置かれていた。
「申し訳ない。不良債権の回収に、少し手間取ってしまってね」
ワイズは小脇に抱えていた『帳簿』――先ほどまで勇者を殴打していた凶器――を、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧にケースへと収めた。
カチリと留め具が鳴る。
それが商談終了の合図だった。
「想定の範囲内です。ですが次は分刻みで予定が入っております。急ぎましょう」
「ああ、そうだな」
ワイズがハンガーにかけてあったロングコートを手に取り、袖を通そうとした。その時だった。
爆発音にも似た轟音と共に、施錠されていた扉が蝶番ごと吹き飛んだ。砕け散った木片が床に散らばる。
「いたぞ!! ここだ!」
「逆賊を逃がすな!!」
雪崩れ込んできたのは、完全武装した五名の近衛兵たち。
彼らは血走った目で室内を見渡し、悠然とコートを羽織ろうとしているワイズを見つけると、一斉に殺気を膨れ上がらせた。
「観念しろ! 貴様らは完全に包囲されてい――」
先頭にいた隊長格の男が、勝利を確信して叫ぶ。
ワイズはコートの襟を正しながら、チラリと視線を向けただけだった。
「……ミナ、お客様の相手を頼む」
「かしこまりました」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、銀色の影が揺らめいた。風もないはずの室内で、ミナの銀髪が舞う。
「――がっ?」
隊長の視界から、ミナの姿が掻き消える。
次の瞬間、彼の視界は天と地が逆転していた。ミナは駆け込む勢いを利用し、隊長の突き出した槍の柄を掴んで、そのまま流れるように一本背負いを決めたのだ。
数十キロはある全身鎧の重量が、そのまま武器となる。
人体が床に叩きつけられる音とは到底思えない、重く鈍い衝撃音が室内に響いた。床の大理石に亀裂が走り、隊長は白目を剥いて沈黙する。
「なっ!? き、貴様ぁ!」
残りの四人が反応し、一斉に剣を抜く。だが、ミナはすでにその懐深くへと滑り込んでいた。
彼女は武器を持たない。
構えすら取らない。
ただ舞踏会でステップを踏むように、優雅に、そして効率的に舞う。
「せいっ!」
二人目の兵士が剣を振り下ろす。
ミナは半歩、わずかに体をずらしてそれを躱すと、がら空きになった兵士の喉元へ、硬く握りしめた拳を突き入れた。
「ごふっ……!?」
鎧の隙間を縫う、針の穴を通すような一撃。
気道を砕かれた兵士が、泡を吹いて崩れ落ちる。
三人目と四人目が左右から同時に襲いかかる。
ミナはその場にしゃがみ込むようにして剣閃を潜り抜けると、回転の勢いを乗せた足払いを放った。鋼鉄の具足ごと足を薙ぎ払われた二人が、バランスを崩して宙に浮く。
そこへ、ミナの両掌が花開くように突き出された。鎧の上から心臓へ衝撃を通す浸透勁。
二人の巨躯が、まるでボールのように吹き飛び、壁に激突して動かなくなる。
「ひ、ひぃ……!?」
最後の一人が、恐怖に顔を引きつらせて後退る。
目の前の女は、化け物だ。
魔法も使わず、剣も抜かず、素手だけで精鋭部隊を蹂躙している。
兵士が悲鳴を上げて逃げ出そうと背を向けた瞬間、ミナのハイヒールが冷酷に床を蹴った。
残像すら残さぬ踏み込み。彼女は兵士の背後に音もなく忍び寄ると、その首筋に手刀を振り下ろす。
トン、と。軽い音がして、最後の兵士が糸の切れた操り人形のように床へ伏した。
静寂が戻る。
わずか十数秒の出来事だった。
ミナは乱れた前髪をそっと直すと、足元に転がる衛兵たちに一瞥もくれず、背筋を伸ばしてワイズに向き直る。
その呼吸は、全く乱れていなかった。
「会長、退避ルートは確保できております」
まるで「お茶が入りました」とでも言うような、あまりにも日常的なトーン。ワイズはちょうど、コートの最後のボタンを留め終えたところだった。
「さすがだ。ボーナス査定に反映しておこう」
「光栄です」
一切の感情を感じさせない声で答え、ミナは部屋の奥にある大きな窓を開け放った。吹き込む風が、カーテンを激しく揺らす。
ここは王城の五階。
下まではそれなりの高さがあるが、二人は躊躇いを見せなかった。
「では、行こうか」
ワイズはアタッシュケースを片手に、不敵な笑みを浮かべて窓枠に足をかける。
国を敵に回した大逃走劇の幕開けにしては、あまりにも事務的で、鮮やかな撤退だった。




