第15話
王国最南端、対魔王軍絶対防衛線『嘆きの砦』。
その名の通り、そこは今、鉄と血の臭い、そして絶え間ない罵倒の声が響き渡る地獄となっていた。
「くそっ、くそっ、くそぉぉぉぉッ!!」
鈍い音が戦場に響く。勇者アレクは、目の前に迫っていたオークの上半身を、その手に持った剣ごと叩き潰した。
本来なら「斬る」はずの場面。だが彼の握る剣はすでに刃こぼれし、鋸のように無惨な姿になっていたため、叩き切ることしかできなかったのだ。
「なんだこのナマクラは! 斬れない、重い、魔力が通らない! ただの鉄の棒じゃないかッ!!」
アレクは返り血を拭うこともせず、手にした剣を地面に投げつけた。安っぽい金属音がして、剣があっけなく折れる。これで今日、三本目だ。
「おい、次の剣だ! 早く持ってこい!!」
彼が怒鳴ると、後方に控えていた輜重兵が慌てて予備の剣を持って走ってくる。王国の制式採用剣。一般兵が使う量産品だ。かつてアレクが振るっていた聖剣とは、月とスッポンほどの差がある。
「チッ……またこれかよ。グリップが太すぎて手に馴染まないんだよ!」
「も、申し訳ありません勇者様……ですが、現在予備にあるのはこれだけで……」
「言い訳するな! 俺は勇者だぞ!? 世界の希望だぞ!? もっとマシなもんがあるだろうが!」
アレクは兵士から剣をひったくると、苛立ち紛れに虚空を斬りつけた。
重心バランスが悪く、振るたびに手首に余計な負担がかかる。鎧も同様だ。関節の可動域が狭く、動くたびに金具が皮膚を噛む。
その全ての不快感が、ある男への憎悪を呼び起こさせる。
(ワイズ……ッ! あの守銭奴め! あいつが俺の聖剣を盗みさえしなければ!)
脳裏に浮かぶのは、涼しい顔で自分たちを見捨てた商人の顔。
アレクは歯ぎしりをした。自分が踏み倒そうとしたことは棚に上げ、全ての責任をワイズに転嫁する。そうでなければ、この惨めな現状に精神が耐えられなかったからだ。
「……おい、見たかよ」
「ああ。また癇癪だ」
そんな勇者の背中を、塹壕の中にいる現地の兵士たちが冷ややかな目で見つめていた。
そこにあるのは英雄への敬意ではない。厄介者を見る侮蔑と、諦めの色だ。
「装備の質が悪いって喚いてるが、俺たちはその剣で何年も戦ってるんだぜ」
「そもそも、物資が届かないのは誰のせいだって話だ」
「聞いたか? 商会との取引停止の原因。あいつが借金踏み倒そうとしたからだってな」
「マジかよ……最低だな」
兵士たちのひそひそ話は、戦場の喧騒にかき消され、アレクの耳には届かない。
あるいは、届いていても気にしていないのかもしれない。彼にとって周囲の兵士など、自分を引き立てるための背景に過ぎないのだから。
「どけッ! 雑魚ども!!」
アレクが地を蹴る。腐っても勇者。その身体能力だけは本物だった。ぬかるみをものともせず、砲弾のような速度で突撃すると、群がる魔物の群れに突っ込む。
「勇者剣技――『円月ッ!!」
量産品の剣が悲鳴を上げる。だがレベル補正によって無理やり強化された一撃は、周囲に群がっていた魔物たちをまとめて薙ぎ払った。
オークが、ゴブリンが、宙を舞う。技のキレも、威力も、全盛期の半分以下。それでも、人間離れした膂力だけで戦況をねじ伏せていく。
「はぁ、はぁ……! どうだ、見たかワイズ! 俺はお前の道具なんか無くても戦えるんだよ!!」
アレクは肩で息をしながら、誰に聞かせるでもなく叫んだ。だが、その奮闘を支えるはずの仲間たちもまた、限界を迎えていた。
「もう! 最悪よ! 髪がバサバサじゃない!」
後方で杖を振るっていた魔法使いが、金切り声を上げる。彼女の顔やローブは泥と煤で真っ黒に汚れていた。
以前ならワイズが提供していた防汚の魔道具や美容ポーションのおかげで、戦場でも優雅さを保てていたのだが、今は見る影もない。
「魔力消費が激しすぎるわ! この安物の杖、魔力伝導率が悪すぎて、初級魔法撃つだけでいつもの倍疲れるのよ! ねえ、マナポーションは!?」
「ありません! さっき最後の一本を使いました!」
答えたのは、瓦礫の陰に隠れている聖女だ。彼女もまた、かつてのような慈愛に満ちた表情は消え失せ、今は鬼のような形相で負傷兵の治療に当たっている。
「信じられない! 水すら碌にないじゃない!! ……あぁもうっ、痛い! なんなのよこの安物のブーツ! 革が硬すぎて、踵が血だらけじゃない!」
「うるさいぞお前ら! 手を休めるな、敵が来るぞ!!」
アレクが怒鳴り返す。かつては最高級の装備と潤沢なアイテムによって、「無双」を楽しんでいた勇者パーティー。
今の彼らは、ただの基礎ステータスが高いだけの素人に成り下がっていた。それでも個々の能力の高さゆえに、戦線は辛うじて維持されていた。
勇者が前線で暴れ、魔法使いが広範囲を焼き、聖女が死なない程度に回復する。その力技によって、魔王軍の先鋒部隊は押し留められていた。
だがその様子を、遥か高台から冷徹に見下ろす影があった。
「……ふむ」
戦場を見下ろす崖の上。 黒いマントを風になびかせ、腕を組んで佇む巨漢。魔王軍四天王の一角、『鋼鉄のガルドッサ』である。
全身を覆う漆黒の鎧は、勇者が持つ量産品とは比較にならぬほどの魔力を帯びている。彼は赤く光る双眸を細め、眼下で暴れ回る勇者アレクを観察していた。
「あれが噂の勇者か。……聞いていた話と随分違うな」
ガルドッサの配下からの報告では、勇者は『光り輝く聖剣』と『魔法を弾く無敵の鎧』を纏った、難攻不落の要塞だと聞いていた。
だが今目の前にいる男はどうだ。泥にまみれ、安物の鉄屑を振り回し、息を切らして喚き散らしている。動きには無駄が多く、剣技にも精彩がない。何より――
「武器が、脆い」
ガルドッサは見抜いた。勇者が魔物を殴り倒すたび、その剣が悲鳴を上げ、微細な亀裂が入っていくのを。鎧の継ぎ目が悲鳴を上げ、防具としての機能を果たしていないのを。
「王国側で何かあったか? ……あるいは慢心か。どちらにせよ」
ガルドッサは口元を三日月型に歪め、太い腕を振り上げた。それは膠着していた戦況を終わらせる、破壊の合図。
「好機だ。……人間どもの驕りを、その脆い鉄屑ごと粉砕してくれよう」
彼の背後で、地響きのような唸り声が上がる。
控えていたのは、通常の魔物ではない。全身をミスリルの装甲で強化された、対勇者用の重装魔獣部隊。
貧弱な装備の勇者一行を蹂躙するには、あまりにも過剰な戦力が、今まさに解き放たれようとしていた。




