第6話 疑念と焦燥
「訓練の調子はどうかしら?」
声のほうへ顔を向けると、母が立っていた。
目の下には薄くクマが浮かんでいる。
「母上……出歩いて大丈夫なの?」
思わず駆け寄る。
母は穏やかに微笑んでいたが、その笑みに滲む無理の色に、胸がざわついた。
「今日は調子がいいから、ついここまで来ちゃったの。
……邪魔だったかしら?」
「ちょうど訓練が終わったところだよ」
そう答えると、母はにっこり笑って「お茶でもどう?」と誘ってきた。
俺は急いで身支度を整え、母と共に訓練場を後にする。
「アイザックに聞いたわ。最近、頑張ってるんですってね」
アイザックが余計なことまで話していないか、不安が過る。
「……いつも通りだよ」
――訓練中に、他の事を考えているなんて言えない……。
「アルの神降式ももう来月ね。
みんな、どんどん大きくなっていくわ」
母の目が、どこか遠くを見つめるように細められる。
「神降式って、何をするの?」
「最後に見たのは10年以上も前だから、細かいことは忘れたけれど……たしか、決闘があるわ」
「……誰が戦うの?」
「成人を迎える王族と、その相手に選ばれた戦士よ。王の命でね」
――成人したら、戦わなきゃいけないのか。
もっと日本の成人式みたいな、静かで華やかな行事を想像してたのに……。
「相手は、どうやって決まるの?」
「そうね、同じ年頃の中で、とくに優秀な者が選ばれることが多いわ」
「同年代でアルより強い人なんて、いないよ」
――俺は、選ばれる相手に同情した。
母はその言葉に微笑み、頷いた。
「初めて国民の前に立つ場は、特別な意味があるのよ」
「……そうなのかな」
「不安になることなんてないわ。成人といっても、まだ10年しか生きていない者よ」
――母はきっと、俺を励ましてくれている。
「……王族って、何のために存在してるのかな?」
「そんなことを考えるなんて、アレンも成長したのね。
王族は、国の責任と未来を背負っているのよ」
その目には、静かな覚悟が宿っていた。
「責任……未来……」
――あんまり、ピンとこないな。
「アレンは、王族が嫌い?」
「……わからない」
そう言うと、母はわずかに悲しそうな顔をした。
「でも忘れないで。あなたたち兄弟は、生きているだけで偉いのよ」
――だけど、本当にそれだけでいいのか……?
気がつくと、母の部屋の前に立っていた。
扉を開くと、広々とした空間に本と花の香りが漂っている。母の趣味は読書と植物。
部屋のそこかしこに、その痕跡があった。
席に着くと、テーブルの上に一冊の本が置かれている。――『月と水の国』
ふと、ひとつの疑問が湧いた。母は――どこの出身なんだろう?
――まさか……敵国、じゃないよな……?
疑念が浮かぶ。思い浮かんだのは、母の漆黒の髪。
その瞬間、扉の外で足音が止まり、部屋に張り詰めた沈黙が広がった。
「本を出したままだったわね……今、片付けるわ」
「母上……ずっと気になってたことが――」
言いかけたところで、外から声が響いた。
「女王陛下、アイラ様がお見えです」
――アイラ? どうして、ここに……?
「通してちょうだい」
すぐに扉が開き、元気な声が部屋に飛び込んできた。
「母上!」
妹が笑顔で駆け寄ってくる。
「あれ? なんで兄上もいるの?」
「訓練が早く終わったんだ」
「ふーん」
どうでもよさそうに返しながら、アイラは何か小さな箱を大事そうに抱えている。
「最近アイラは、アルのために装飾品を作っているのよ」と母が説明した。
「もうすぐ神降式だから、お兄様に何かあげたいの!」
――兄の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。家族の中でも、兄は妹に一番甘い。
――気にしてなかったけど、俺も何か贈った方がいいのか?
「アレンも、プレゼントしたいんでしょ?」
母が覗き込むようにして聞いてくる。
「でも、作れるものなんて思いつかない……」
「そうね……神降式まで、あまり時間もないし……」
母は数分ほど考え込んでいたが、ふと顔を上げた。
「あ、そうだわ! 護衛を付けて、城下町に贈り物を買いに行くのはどう?」
「父上に、許してもらえるとは思えないよ」
「大丈夫。私からお願いするわ。アルを喜ばせたいもの!」
――城の外か……。興味はあるけど、不安の方が大きいな。
「……でもやっぱり、遠慮しておくよ」
「護衛が不安なのね? じゃあ聖騎士長に頼むわ!」
――それは逆効果だ。けれど、ここまできた母はもう止まらない。妹の頑固さも、やっぱり母に似ている。
母はさっそく侍女を呼び、話を伝えた。
「はい、承知しました」
「これでアレンも、アルに贈り物ができるわね」
満足そうに微笑む母を見て、思わずため息がこぼれる。
「でも、本当にそんな時間あるかな……?」
「明日行きなさい! 早い行動に損はないわ」
その後も母は延々と"何を贈るか"について話し、俺は妹の装飾品づくりを手伝う羽目になった。
夜も更けた頃、また扉の外から声がした。
「女王陛下、よろしいでしょうか?」
「アイザックね。入りなさい」
扉が開き、あの悪人面が入ってくる。
俺の姿に気づいた瞬間、口元がゆっくりと歪んだ。
不気味な笑みだった。
「話は伺いました。城下町までお連れすればよろしいのですね?」
――この男なら、訓練を理由に断ると思っていたのに。あっさりと引き受けるなんて、何か企みでもあるのか……?
「では、明日はいつもの時間に訓練場の入口に。迎えに参ります」
驚きで言葉も出ず、俺はただ頷くしかなかった。
まさか、初めての城外が聖騎士長との同行になるとは。
かつて一度だけ、見張り塔から城下町を見下ろしたことがある。人影らしきものが動いていたが、何をしているのかまではわからなかった。
まるで、ただの絵画を眺めているようだった――静かで、どこか現実味のない風景。
それ以来、城下町に目を向けることも、興味を持つこともなかった。
自分には関係のない世界と思っていた。
だが、記憶が戻ってからは……城下町が気になって仕方がない。
「アレン、明日は早いんだから、もう部屋に戻りなさい」
「……そうするよ」
その日はもう、何も考えられなかった。自分でも驚くほど緊張していた。
――今日はもう、寝よう。