私が婚約していたなんて! 知らない人ですもの、きっとすぐに解消されるわ
プリシアは朝食の席で父のロデリックから、昼休みに執務室の方へ来るように言われた。
今日は安息日なので、父親のロデリックもプリシアも仕事が休みだ。彼女はこの春、学園を卒業したばかりの十七歳だが、自分の執務室を持っている。
家の中でもたくさんの雑事がある。各方面からの自分宛ての手紙や招待状に目を通し、必要な先には返事を書き、プリシアが一年ほど前に開業した雑貨店の一週間分の出入金を確認し、昼に簡単な軽食を口にしてから父の執務室へ行った。今日は執務室の管理官たちもお休みだ。
プリシアが執務室に続く応接間のソファに座った途端に、ロデリックがプリシアの前に来て頭を下げた。
「プリシア、すまん。お前が婚約していたのを忘れていた」
プリシアは、これが『青天の霹靂』というものなのか、と他人事のように思った。自分でも意外と冷静なのが不思議だった。
「私が婚約って......うそではないわよね?」
「嘘をつく理由がない」
「そうだけど、なぜ今頃?」
「先方が、最近、外国からこちらに帰って来てな。婚約のことで話し合いたいと言ってきたんだ。一週間後に我が家に来る」
「はあ?」
さすがにもう冷静ではいられない。プリシアは怒りを込めた声でロデリックに言った。
「お父様、順を追ってお話しください」
「婚約が調ったのは、たしかお前が三歳の時だった......」
ロデリックがとつとつとプリシアの婚約から今までのことを語った。
ロデリックは気になっていたことを話したことですっきりとした顔をしているが、プリシアの心の中は嵐が吹き荒れている。
プリシアは不機嫌な声音で彼の言ったことを反芻した。
「つ・ま・り、婚約が調った次の年に、お祖父様が亡くなって、お父様が爵位を継ぎ、それに伴う様々な手続きと雑事で忙しくて、私の婚約どころではなかったと」
「そうだ、二年くらいは本当に戦争のようだった」
「そしてやっと落ち着いたころにお祖母さまが倒れ、そのまま亡くなったので、婚約の話は少しは気になっていたが、向こうからも何も言ってこないので、そのままになっていたと」
「ああそうだ。なにせ相手は外交官で諸外国を転々としていた。手紙も届くか分からない場所もあったしな。お前に話すのはもう少し大きくなってからでいいかと思った」
ロデリックは向かいの椅子に座り、腕を組んで頷き一人で納得しているが、冗談じゃないとばかりにプリシアはまだ先を続ける。
「その次の年には弟のリランが生まれて、てんやわんやで婚約のことは二の次だったと」
「その通りだ」
「お母様は知っていたのですよね」
「ああ、だからお前が周辺国の言葉を習得するようにと沢山の教師をつけた」
「でも、何も言わなかった」
「きっと、私がすでにお前に話していると思ってたんだ」
「お母様が産後に体調を崩され、寝たり起きたりを繰り返し、流行り病で儚くなったのは、リランが三歳の時ですよね」
「ああ、あの時は悲しかったなぁ」
それはプリシアだって同じだ。あの時は何日も泣いた。でもここで話をやめるわけにはいかない。
「それで、私の婚約はすっかり頭から無くなったと」
「私は失意のどん底だったし、お前の婚約はもともとお祖父様が仕事先で知り合った人で、私はそれほど親しくもなかった。小さくして母を失くしたリランが不憫で、そちらに気を取られた」
「そしてそれからは銀行の設立であまりにも忙しくて、今のいままで、私の婚約を思い出すことはなかったと」
「すまない」
プリシアのコレンス家は男爵家だが、亡くなった先代の金鉱山への投資が当たり、莫大な資産を築いた。会ったこともない親戚や知り合いから資産を狙われるくらいならと、ロデリックは銀行を設立することにした。だから、ものすごく忙しかったことは、プリシアには理解できる。
銀行名は、先代のラモント・コレンスの名前から、『ラモント銀行』とした。
いま、プリシアは、勉学を兼ねて週に何日かラモント銀行の本店で働き、その後に自分の店に寄っている。
銀行でのプリシアは、身の安全のためと、経営者の娘だと周りに気を遣われるのも煩わしいということで、ただの「シア」という名で通している。髪もローズピンクの髪は目立つので肩までの長さの黒髪の鬘を被っている。もちろん直属の上司はプリシアの事情を知っている。
「お父様、その婚約者のお名前は?」
「外務官僚のスコット子爵家の次男で、名はえーと、ちょっと待て、書類がたしか書庫の金庫にあったよな」
――スコット? あの方の姓もスコットだったわね。でもこの国では一番多い姓だわ。
「あとで書類を揃えておくよ」
「あっ、そう言えば二年ほど前に手紙が来ていたわ。その婚約者からだったのかしら?」
「えっ?」
「知らない名前だったし、『君は今どうしているだろうか』とか『どんな風に成長しているのか』とか書いてあって、なんだか気持ち悪くて捨てちゃった」
「差出人の名前は覚えていないのか?」
「う~ん、関係ないと思っていたから覚えようともしなかった」
「そうか......」
「先さまも交流のない失礼な婚約者なんて必要とは思わないでしょうから、婚約を解消するつもりなのでは? 子爵家の方が男爵家に来るということはそういうことでしょう?」
「そうかもしれないが、嫌な言い方をすれば我が家には力と金があるからね......」
「きっと私の方が正解よ」
婚約は解消されるに違いないと思い、すっかり上機嫌になったプリシアは、厨房に頼んでいた焼き菓子を持ち、黒髪の鬘を被り日傘を片手に馬車に乗った。
外は澄み渡る晴天で新緑が眩しく、そのせいかプリシアの心が弾んだ。
行き先はアンセルが待つ王立植物園だ。
アンセルと知り合ったのは、僅か二か月前だ。
彼が口座を開きたいと銀行にやって来た時に担当したのが、プリシアだった。
アンセル・スコットと名乗る若い男は、栗色の髪に清潔感が漂い、姿勢がきれいでスーツが良く似合う。外交部の官吏になったばかりだという。
脇にある来客用のテーブルに彼を誘って、手続きを進めようとした時に、窓口の方でなにやら騒がしい声がした。
話しているのはくっきりした顔立ちを持つ少し浅黒い肌の壮年の男性だった。どうやら担当の者が彼の国ペイトン皇国の言葉が分からずにイライラして大声を出したようだ。
「すみません。少々お待ちいただけますか?」とアンセルに許可を取って、その男の下に駆け付けた。
『いかがいたしましたか?』
『ペイトン国へお金を送りたいのだが、担当の者がわかってくれなくて』
『かしこまりました』
そう言って、担当者から書類を貰い、内容を説明しながら手続きをしてもらった。
『これで大丈夫です。ご利用いただきありがとうございます』
『助かったよ。ところで君の名前は?』
『シアと申します』
『シアさん、君は綺麗で親切な人だ。私の第四の妻にならないか?』
プリシアは、すぐには何を言われているのか分からなかった。これは求婚? そう思った時、
『彼女は僕の恋人だから、それは不可能です』
後ろから声がした。
さきほどのスコットさんだった。
ペイトン皇国の男性は肩をすぼめて、『それならしかたがないか』と言って、去って行った。
プリシアは元の席に戻り、アンセルに頭を下げた。
「申し訳ありません。お待ちいただいた上に助けていただいて」
「たいしたことないよ。ペイトンの男は四人妻を持てるんだ」
「そうなのですか。それは、男性にとっては羨ましいことではないのですか?」
「宗教上、平等に愛さなくてはいけないらしい。結婚した友人たちの話なんかを聞くと、一人の妻でも大変そうなのに、四人なんて僕はごめんだね」
「そういうものですか」
「君はどう? 夫をたくさん欲しいと思う?」
「揉め事が起きそうで嫌ですね」
「そうだろ? ところで君は恋人とか婚約者がいるの?」
「いいえ、おりません」
「そうか......」
手続きを進め、証書を渡し、今後の出入金に関する注意事項を説明した。その時は彼もプリシアに礼を言って、帰って行った。
だが、それからアンセルはなんだかんだと一週間に一度は銀行に来るようになって、プリシアと話す機会も増え、ある日、昼食に誘われた。
お互いの仕事の話が殆どだったけれど、楽しかった。
アンセルは「自分は、結局親と同じ道を歩んでいるんだよね」と言っていた。
その時「シアのご実家の職業はなに?」と尋ねられたのだが、「ちょっとした商売をしております」としか言えなかった。
まだ、本当のことを話すほどの仲でもないし、あくまでも彼はお客様なのだと思った。
それが三度ほど続いて、今日は王立植物園に誘われた。大切な話があるということだった。
植物園の曲がりくねった小径の回りには色とりどりのチューリップやポピー、名前の知らない花も初夏の日差しを浴びて楽しそうに咲いている。小高い場所にはラベンダーも揺れていた。
少し歩くと大きな藤棚に誘われる。淡い紫が、あたかもこの辺りの王妃のように美しく毅然と輝いている。
蔦が絡みついているアーチをくぐれば薔薇園になっていた。道なりに行くと薄紅色の薔薇の花が咲き乱れて、その傍のテラスにはいくつかの席が設けられていた。
二人はそこに座った。
ちょっとした沈黙の後、アンセルが口を開いた。
「実は、僕には婚約者がいるんだ」
「そうでしたか......。ではこのように私と会っていてはいけませんね」
プリシアは心にチクリと針が刺さったような気がした。
「心配しなくても、手紙を出しても返事すらくれない婚約者だ。僕も長い間、こちらにはいなかったから会ったこともない」
プリシアはどこかで聞いたような話だなと思いながら、先を促した。
「婚約は近々解消する。親には随分反対されているが、僕はもう二十二歳だ。自分の事は自分で決める」
「あの~、私も今日知ったのですが、私に婚約者がいるのですって。父が忘れていたらしいです」
「は?」
「でも、大丈夫。婚約は解消されますので」
「そうか。それは良かった。これからは遠慮せずに君を誘うことが出来そうだ」
持っていた焼き菓子を食べ、安息日に唯一開いている植物園近くの市場に行った。アンセルは、カーネーションやガーベラでアレンジされている可愛い花束を買って、「君に」と言ってプリシアに差し出した。
プリシアは、帰りの馬車の中でその花束を見ながら、(今度会った時には本当の事を言わなくてはいけないわね)と思った。
その三日後に、銀行のシア宛にアンセルから手紙が届いた。内容は『クレス王国の王女が来訪するので、専属の通訳に指定された。しばらく会えないと思う』だった。
くしくも家に戻ったら、父から次の安息日のスコット家との話し合いは延期された、と言われた。
婚約者の名前は相変わらず書類が見つからなくて、まだわかっていない。
こちらから聞くのもはばかれるということで、会った時の挨拶時に、耳を澄まして聞くしかないという結論に達した。
二週間後、プリシアは親友のアニカに誘われていた夜会に出かけた。
アニカはモリソン子爵家の三女で、プリシアとは学園時代から親しくしている。
その夜会は仮面をつけての出席ということだった。プリシアの場合は髪の色が独特なのですぐに誰かわかってしまうから無意味だとは思うのだが、せっかくアニカが楽しみにしているので付き合うことにした。
問題はドレスだ。あまりに豪華なものを着ると高位貴族の女性たちから『成金令嬢』と言われるし、かといってあまり貧相なのを着ると『あの家は破産寸前』などという噂を立てられてしまう。
メイドたちと相談しながら、上質ではあるが広がりの少ない落ち着いたデザインのものを選んだ。上から下に行くにしたがって淡い水色から青にグラデーションされたドレスには、銀糸の薔薇の花が所々に刺繍されている。細い糸でていねいに編まれた薄く透き通るレースの襟は、遠目には普通のレースだが、近づいて良く見れば高価なものとわかるだろう。
「プリシアのドレス、ものすごく可愛いわ」
「アニカこそ、淡い黄色があなたの白い肌を引き立てて美しいわ」
「淡い色合いって、着られるのは今のうちだけだからね。うふふ。ところで今日はクレス王国のサルマ王女様もいらっしゃるんですって」
「あらそうなの」
アニカとプリシアの仮面はお揃いだ。白のベースに銀の粒がキラキラと光って、まわりに白い羽が付いているアイマスクだ。
プリシアはもしかするとアンセルも来るかもしれないと思った。
プリシアたちが会場に入ってまもなく、明らかに王女然とした赤いドレスを纏い、赤いアイマスクをつけたサルマ王女を、青いアイマスクをつけたアンセルがエスコートして現れた。
仕事とはいえ、なんか面白くないと思ったプリシアだった。
そこへ「遅れてすまない」と言って駆け込んできたのは、黒い悪魔のような仮面を付けたこの国の第二王子であるダスティン。
彼は、学園ではプリシアの一学年上で、音楽祭などの催し物の実行委員として、プリシアとよく一緒に活動した。王子様とはいえ、友達みたいなものだ。
「殿下は背も高いし見栄えがいいから、仮面をつけていてもすぐにわかるわね。でも、サルマ王女様の婚約者なのにエスコートもなしって、何かわけでもあるのかしら」とアニカが首を捻る。
「そうね......。何かの演出かも知れないわね」
「ねえ、サルマ王女をエスコートしている方って若い女の子に人気なのよ」
アニカは総務局の事務員をしているので、噂がいろいろ入るらしい。
「そうなの?」
「頭良し、顔良し、出自よし、三拍子そろっているのですもの、女の子が狙う訳よね」
また、心にチクリと針が刺さった。
そんな話をしていると、プリシアのローズピンクの髪を認めたダスティンが
「プリシア、こっちこっち」
と呼んで、手招きしているのが見えた。
プリシアは、アニカの了解を取り、溜息をつきながらダスティンの傍に向かった。
「仮面の夜会なのですから、名前を呼ばないでください」
「そんな固いこと言わないでよ。久しぶりだな。元気だった? ドレス素敵だよ」
「ありがとうございます」
「お店は順調?」
「はい、この分だと父から借りたお金は二、三年のうちに返せるかと思っています」
「親子なのに律儀だね」
「ところで殿下、サルマ王女殿下と何かあったんですか?」
「彼女、こちらに来たのはいいんだけど、買い物三昧だし、高位貴族の令嬢たちとのお茶会もすっぽかすし......」
ダスティンは綺麗な金髪に手を当てて、本当に困っているという様子だ。
「それにこの国の言葉を、全く話そうとしないんだ。だから少し面倒になってさ」
「殿下はクレス国の言葉を話せるではありませんか」
「でも、俺と結婚するんだから、こっちの言葉も勉強するべきだろ」
そこへサルマ王女がやって来た。赤味がかった金髪だが、アイマスクから見えるつぶらな緑色の瞳は幼さを感じさせる。相変わらずアンセルがエスコートをしている。
『その女なの? 浮気相手は』
プリシアは自分と殿下がそんな風に見えるのかと驚いて、ダスティンとの距離を少し空けた。
アンセルが訳そうとしたので、彼に大丈夫と言ってから、プリシアはこちらの言葉で
「殿下と私はただ友達です」とゆっくり答えて彼女の様子を伺った。
ダスティンはこめかみに手を当てている。
『友達? 嘘だわ。すごく仲が良さそう。数年前に殿下が私の国に来た時は、可愛い可愛いと言って良く遊んでくれたのよ。会うのは何年か振りなのに、殿下は私と一緒に出掛けようともしないの。一緒にお茶を飲んだのは、こちらに来た日だけ。ずっと放っておかれているの。いま、理由が分かったわ。あなたがいるからだったのね。私はこの婚約を破棄するわ!』
『そうか、君が婚約破棄したいのなら、大歓迎だ』
売り言葉に買い言葉なんて殿下らしくもない、とプリシアは思った。彼はいつも物事を冷静に見極める人だ。
『だったら、私はこの人と結婚します』
サルマはアンセルの腕をひしと掴んだ。
アンセルは(どうしてこうなる)と思いながら、その碧色の瞳を天井に向けた。
『なら、俺もプリシアと』
ダスティンがプリシアの腰を自分の方に引き寄せた。
プリシアは慌てた。アンセルが困惑しているし、自分も巻き込まれたくない。
ダスティンは素敵な人だが、身分が違う、婚約者がいる、これでプリシアの恋愛対象から外れているのだから、濡れ衣を着せられても困る。
王女がアンセルと結婚したいといわれるのはもっと困る。
『サルマ王女様、殿下とは本当に何ともないです。ちょっと殿下と相談させてください』
プリシアは彼女に聞こえないように、ダスティンに話しかけた。
「殿下、彼女はこちらの言葉を理解していると思います。あなたの気を引きたいだけでは?」
「そうなのか?」
「では、ちょっと試してみますね」
プリシアはおもむろにサルマの前に立った。話しかけようとして何かに気が付いたとでもいうように片手を口に当て、目を見開いて声を上げた。
「まあたいへん! 王女殿下の頭の上に小さい蜘蛛がついていますわ」
『えっ、ほんと? いやーっ!』
「サルマ殿下、じっとなさっていてください。お取りしましょう」
サルマはプリシアに言われた通り、目を瞑って身じろぎもせずに棒のように立った。
プリシアは「失礼します」と彼女の頭の右上に手をやって、架空の蜘蛛を捕まえ、近くの給仕に渡した。
「もう大丈夫ですよ」
「あの......、ありがとう」
プリシアは優しい声で彼女に尋ねた。
『こちらの言葉がお分かりになるのに、どうしてお話しにならないのですか?』
『殿下がなんだか冷たいの。目をそらしたりエスコートもしてくれないし、どこにも誘ってくれない。だから、すごく頭に来て、私もこの国の言葉を話さないで困らせてあげようって......』
プリシアは、彼女が殿下の四つ下の十四歳だったことを思い出した。
「ダスティン殿下は、お忙しい人なので、お疲れだったのでしょう。彼は王女様との婚姻の大切さをお分かりです。婚約破棄はあり得ません。だからお二人で誠実に向き合うしかないと思います。大丈夫ですよ。王女殿下はダスティン殿下がお好きなのですよね?」
「ええ......、あなたはどうなの?」
「殿下は学園時代の友人で、私の夢を応援してくれる人です」
「夢?」
「ええ、お店を持ち、それを発展させること」
「夢をかなえる......か。あなたの名前は?」
「プリシア・コレンスです」
「あなたには好きな人とか婚約者はいるの?」
「ええ、います。殿下ではありませんよ」
「プリシア、私がこの国に嫁いで来たらお友達になってね」
「ええ、喜んで」
プリシアはダスティンを振り返って、片目をつぶった。ダスティンも肩をすくめて軽く笑っている。
微笑んではみたものの、ダスティンの心の内は複雑だった。なぜなら、プリシアに対する気持ちは、結構本気だったからだ。
学園時代、入学したばかりのプリシアはローズピンクの髪を軽く結んだふわふわとした感じの女の子だった。だが、青い瞳を見開いて人の話をよく聞き、好奇心旺盛の彼女を知るうちに、自然に彼女に惹かれていった。
夢を語る彼女を支えたいと思った。が、ダスティンには婚約者がいる。プリシアも自分と恋愛関係になることを望んでいないと感じていた。
それでも、完全にあきらめたわけではなかった。自分とサルマの婚約は両国の懸け橋になるとは理解していても、どこかで釈然としない思いもあった。
久しぶりに婚約者と会った時に、少し冷たくして、まだ幼さの抜けない彼女が、そのわがままを暴走させれば、婚約破棄ができるかもしれない、プリシアとの未来が開けるかもしれない、試してみる価値はあると思った。
だが、結局、そのプリシアの手で、自分とプリシアの未来が閉ざされてしまった。
ところで、プリシアを始め周りの者は、傍で事の次第を聞いていたアンセルが目を瞠って驚いているのに気が付かなかった。
アンセルはこの後に、ものすごく悩むことになる。
自分の婚約者が目の前にいたのだ。
プリシア・コレンス。
クレス国の言葉を流暢に話し、品のあるドレスを着たローズピンクの髪の機転の利く、優しくて魅力的な人。ダスティン殿下も、本当はプリシアのことを憎からず思っているのではないだろうか。
仮面で彼女の顔立ちは良く分からないが、手紙の返事も書かない高慢な女性と思っていたのに、全然違った。どこかで行き違いが生じたのだろう。瞳の色はシアと同じ青だ、声も似ている。自分はこのような女性が好みなのだと思った。
婚約を解消するのはなんだかもったいない。だがシアも好きだ。
――どうしたらいいのだろう。
一瞬、『二人の妻』などという妄想が浮かんだが、頭を振って打ち消した。
しかし、良く考えてみれば、シアのことは何も知らない。知っていることと言えば、弟がいること、何の商売かは知らないが家の職業は商人であることだけだ。送って行こうとしても断られるから、家の場所も知らない。
これはプリシアとの婚約をどうするか考える前に、シアのことを少し調べるべきだ。
そう結論に達したアンセルは、早速、次の週から動くことにした。
幸い、もうサルマ殿下に四六時中ついていなくても良さそうだ。
ラモント銀行の本店は官公庁街にあり、広い馬車通りに面している。両脇の石畳の歩道が先程まで降っていた雨に濡れて、夕陽に赤く染まっている。
アンセルは、ラモント銀行の職員の通用口が見えるところで、少しくたびれた茶色のジャケットを着てその襟を立て、帽子をかぶり、シアの出てくるのを待った。
シアは、ショールを肩にかけ、やや大きめのカバンを抱えて、体格の良い年配の男と一緒に出て来た。あいつは誰だ? シアを周りから守っているように歩いている。少し離れて後を付けた。
広い通りから右に曲がり狭い道に入って、さらに左に曲がって真っ直ぐに歩いて行く、どうやら商店街の方へ行くようだ。ほどなく、二人はある小奇麗な店の前で止まった。シアがその大きな男に軽く礼を言っていた。
――護衛なのか? シアは護衛をつける身分なのか?
そう、プリシアは万が一のことがあってはいけないと、街を一人で歩くときは必ず護衛をつけるようにロデリックに言われているのだ。立場上仕方がないとプリシアもわかっている。
アンセルは、その男が見えなくなってから、シアが入って行ったその店の前に佇んだ。
店の名前は「ロレナ」というらしい。雑貨店のようだ。
ショーウィンドウには、小さなバッグや宝石箱のようなもの、ぬいぐるみなどが可愛らしく配置されていた。
ガラス戸越しに店の中を覗くと、若い男女が店員と話をしていて、他に女性が二人ほどいるが、シアの姿はない。男一人で入るには勇気がいるが、帽子を目深にかぶり、さっと身なりを整えてから思い切って中に入った。
もう一人店員が、チラッとこちらを見ただけだったので、商品をゆっくりと眺めてみた。
様々な種類のハンカチ。ビーズのバッグ。レースやサテンのリボン。そしてキラキラ光る髪飾りなどが所狭しと並べられていた。
アンセルが商品を選ぶのを迷っていると思ったのか、ロレナと刺繍されているエプロンを着けた店員がこちらにやって来た。
「なにかお手伝いしましょうか?」
「はあ、えーと、黒髪に合うような髪飾りを」
店員が何点か見せてくれたので、その中のシアに似合うような小花をあしらった髪飾りを選んだ。
「あ、それからローズピンクの髪にはどんなのが良いですか」
思わず口に出てしまいアンセルは焦ったが、良くあることなのか店員は気にもせずに精巧な細工の銀の髪飾りを出して来た。
「こちらの銀細工のものなどはいかがでしょうか」
アンセルには良く分からないので、即決した。
「それでいいです」
店員が「ローズピンクの髪なんて、店長しかいないと思っていたわ」と呟いたのが聞こえた。
アンセルは、可愛らしく包んでもらった髪飾りをポケットに入れて、ぽつぽつと馬車の停留所まで歩きながら、気になる言葉をつなぎ合わせてみた。
――お店を持つ、店長、ピンクの髪のプリシア、護衛、自分のことを言わないシア、夢。これから導き出される答えは? シアはプリシア? 黒髪は鬘? なぜ偽る必要が? そしてなぜ、アンセルの名前を聞いても婚約者だと思わなかったのか? そういえば、シアは『父が忘れていた』と言った。彼女は知らなかったのか......。
アンセルは今来た道を引き返した。
――会わなくては。シアに聞かなくては。
道の回りには街灯が点き、急ぎ足の自分の影が歩道に映る。空は仄暗く、月は建物の陰に隠れているようだ。まだ星は数えるほどしか見えない。
店の前まで来た時に、アンセルは何か異様な雰囲気に気が付いた。
そっと店の中を覗くと、マスクをして帽子をかぶった男が、なにやらナイフの様なものを持っている。
シアはカウンターの向こうに二人の店員を後ろに庇って、立っていた。
強盗だ。女だけと思って狙われたか。
だが、アンセルは剣を握ったこともなければ体術を習ったこともないただの文官だ。
下手に店に入っては、シアを守るどころが興奮している強盗に害される可能性もある。
少しためらったが、アンセルは周りの店に聞こえるような大声を出した。
「強盗です。皆さーん強盗です! あっ、警備隊の方だ。こちらに来てくださーい! この店でーす!」
これを二回繰り返すと、周りの店から、人が出て来た。棍棒を持った人もいる。
中を覗くと、シアと店員はカウンターの中に隠れたようだ。強盗が身近にある品物を慌てたように袋に入れてこちらに駆けて来る。
ドアの陰にいたアンセルは、思い切り開けられたドアに頭をぶつけて昏倒した。
あとは覚えていない。
ひんやりとしたタオルを額に当てられて、アンセルは気がついた。見慣れないクリーム色の天井から、窓に目をやるとすでに外は夜の帳が下りていた。
「ん? ここはどこだ?」
「お店の二階よ」
傍らの椅子に座ってアンセルの右手をしっかり握り、瞳を潤ませているプリシアと目が合った。
「アンセル、頭は痛くない?」
頭に手を当ててみると、ちょっとした瘤が出来ていたが大したことはなさそうだ。
「もうすぐお医者様が来るわ」
「大丈夫だよ。シアこそどこも怪我してない?」
「ええ、あなたのお蔭よ」
「それで、強盗はどうしたの?」
「皆にぼこぼこにされて捕まったわ。警備隊もすぐに駆け付けてくれた」
「そうか、それは良かった。なんだか情けない男でゴメン。愛想が尽きたろ?」
「なに言っているの。皆が無事だったのは、あなたが大声を出してくれたからよ」
二人は少しの間見つめ合った。髪の色が違うだけで随分と印象が変わるものだと思いながら、アンセルは今こそシアに尋ねなくてはと思った。
「シアはコレンス家のプリシア嬢だよね?」
「ええ、そうよ。嘘をつくつもりはなかったの。なんとなく流れで......。後でゆっくり話すね」
「ねえ、シアは知っている?」
「なにを?」
「僕が君の婚約者だって。僕たちは婚約しているんだよ」
「えっ、あなたが私の婚約者? うそ! ......ああ、そうね。そう言われれば辻褄が会うわ」
プリシアは心の中に暖かな火が灯ったような気がした。
「婚約解消したい?」
「したくないわ! 大好きよアンセル」
プリシアは思わず口から出た言葉に恥ずかしくなって俯いた。
するとソファに横になっていたアンセルが上半身を起こし、プリシアの頬を両手で優しく包んだ。
「僕が、君の未来の夫だよ」
そう言うと、プリシアの頬が真っ赤に染まった。
「これから、お互いをたくさん知って行こう」
「ええ」
アンセルはプリシアの唇にそっと自分の唇を当てた。
――あっ、髪飾り。まあいいか、これから時間はたっぷりあるのだから。
終
お互いに別人が婚約者と思っていたのですから、思い込みって方向転換するのは難しいですよね。
お読みいただきありがとうございます。誤字、間違いなどのご指摘、助かります。