結婚は契約でしょう?
ありがちな白い結婚話
なかなかメンタル強めな令嬢な話です。
淡々としています。
ざまぁはちょっとだけ
「君を愛するつもりはない」
新床で宣言されるが、エルヴィラは眉ひとつ動かさなかった。予測出来ていたから、部屋着にガウンを羽織り、枕元には直前まで読んでいた本が置いてある。
「承知いたしました。では、白い結婚でよろしいですか」
新郎には、五年以上の付き合いになる令嬢がいる。社交界では有名過ぎる話で、権力とは無縁の名ばかり侯爵家出身のエルヴィラですら知っていた。
「それでは困るのだ」
「左様でございますか。では、どのようになさるのがご希望ですか?」
これも予想の範囲内だ。淡々と言葉を紡ぐエルヴィラに、書類上の夫であるシュトラウス・レーベンバルト公爵令息は不気味なものでも見るような目をした。
「最終的には離縁をする」
「かしこまりました」
やはり無表情に答えれば、あきらかにシュトラウスは動揺した。腹芸一つ出来ないとは、将来的に公爵位を継いだ時のレーベンバルト家の未来は明るくないなと思う。
「き、君はいいのか?離縁されたら困るのではないか?貧乏侯爵家では出戻りも出来まい」
一度縁づいて戻ってきた女は歓迎されない。そもそも、女性の職業選択の自由が著しく低いこの国では、結婚は食べるための手段である。だから、どれだけ婚家に馴染めなく、ないがしろにされても別れられない。それが、一般的な見解だろう。
まだ実家が裕福であれば、出戻りやいかず後家を通してもなんとかなるが、そうでなければ、どれだけ理不尽な扱いをされても結婚という手段は唯一の生存方法だ。
エルヴィラの実家のグラント侯爵家は、建国時の功績で爵位を賜った歴史ある家だが、領地は形ばかりで村と森一つ。代々の当主は、領主の仕事より官吏として食べていってるようなものだ。
「ご心配には及びませんわ。幸い、わたくしは学園での成績は悪くありませんでしたから、官吏の試験でも受けます。官吏の採用が難しいのであれば、家庭教師や女官や侍女の道がございます。出戻りは出戻りで、職の幅が広がりますのよ」
残念なことに、この国では未婚の貴族令嬢は官吏くらいしか職に就けない。家庭教師という道もなくはないが、未婚のオールドミスは歓迎されない。「いい嫁ぎ先を見つけるための教育」を施すのに、未婚では説得力がないからだ。
女官や侍女はそもそも婚姻歴がなければなれない決まりがある。馬鹿馬鹿しいことだが、貴族女性が職を持つことは恥ずかしいという風潮がまだまだこの国には根強くある。だが、五十年程前に疫病が流行った際、大量の未亡人が生まれた。子のあるなしに関わらず困窮した未亡人も多く、救済措置として女官の数が増やされた。一度増やした枠を減らすのは難しく、それからはいわゆる出戻り女性の数少ない就職先になっている。
「そうか。それなら良かった」
安堵の息を吐くが、それはエルヴィラの将来を慮った訳ではないだろう。自棄を起こしたエルヴィラが愛する相手を傷つけることを危惧していたに他ならない。
(名門公爵家も、跡取りがこれではね)
頭の中身に恋愛しか詰まってない。学年は違うが、同じ時期に学園に在籍していた。その時も、特別成績が優秀だったという噂は聞かなかった。
(まあ、御しやすいといえば、御しやすいですけど)
老獪な狸の息子とは思えないほど、人はよい。それと、見た目。少し線が細い印象のある白皙の美貌に、日に透けるような金の髪と、神秘的な深い青の瞳。儚げな美しい公爵令息としては有名だった。
「三年子がなければ離縁の理由になりますでしょう。それに……先に他所にお子がいらっしゃれば、余計にご両親も反対なさらないのではなくて?」
「え!?な、何を言い出すのだ!」
「シャルロッテ様でございましたか?再婚であれば、王家の裁可も不要でございましょう」
シュトラウスの恋人は、爵位を持たぬ官僚貴族の令嬢だ。
爵位を持つ家の婚姻に際しては、上下二つまでという不文律がある。あまりに身分差があると、何か裏の事情がある可能性が危惧されるからだ。だが、家同士の関係性などから身分差を超えた婚姻がないわけでない。その場合は、それぞれの家の当主から国王へ奏上し、裁可を得る必要がある。
しかしながら、現レーベンバルト公爵は王宮の人事も牛耳る大貴族であり、野心家だ。官僚貴族の娘との婚姻など認めないだろうし、プライドの塊のような人だから、低い身分の嫁などあり得ないと思っているだろう。
「何故、シャルロッテの名前を知っている!?」
知らない方がどうかしている。学年の違うエルヴィラだって知っている有名な話だ。身分差がありながら純愛を貫く公爵令息と官僚貴族の娘。シュトラウスもそうだが、相手のシャルロッテも神秘的な銀の髪に紫の瞳を持つ大層な美人だ。美し過ぎる二人の禁断の恋は、青春真っ盛りの学園生たちの格好の噂のネタになる。
対するエルヴィラは茶色の髪に緑の瞳。家族は可愛いと言ってくれるが、どこからどう見ても凡庸な容姿をしている。醜くはないが、美しくもない。
「存じ上げておりますわ。お美しいお二人のことは、学園中の注目の的でしたのよ。学年が違いましたから、シャルロッテ様のご尊顔を拝見したことはございませんが」
恋だの愛だのに浮かれている余裕がなかったエルヴィラにとってはどうでもいいことだったが。
けっして豊かではない実家のため、エルヴィラは成績優秀者に入らねばならなかった。貴族令嬢として、王立の貴族学園の入学は義務だが、その学費は相当な金額になる。弟と妹が二人ずついるエルヴィラは、彼らのためにも学費免除になる成績を維持し続けた。
「そうだったのか……」
安心したように息を吐く。
(わたくしがシャルロッテ様を害するとでもお思いなのかしらね)
そんなことはあり得ないのに。興味も関心もない相手が誰と愛し合おうと気にもならない。
「わたくしとしては、結婚が白かろうが黒かろうがどうでも良いのですが、レーベンバルト公爵令息は、白い結婚だとお困りになるのですよね」
「それはそうだが……しかし、白い結婚でない場合、再婚に差し支えるのでは?」
妙なところで優しさを見せてくるが、要は、再婚に障りがあったと逆恨みされたくないということだろう。どこまでも自己中心的だ。
「ご心配には及びませんわ。わたくし、結婚に何の興味も関心もございませんの。当然、再婚など考えてもおりませんわ」
貴族の娘として親の一存で結婚が決められることはとっくに受け入れている。金も権力ない貧乏侯爵家だが、腐っても建国時に功績のあった侯爵家である。政略結婚の打診もそれなりに来る。
エルヴィラは、冷めた娘だった。家族の仲は良いが、下に四人も弟妹がいる。彼らの障りになることだけは避けたかったし、優しい両親の心痛になりたくなかった。だから、結婚は家族のためと幼い頃から割り切っている。
この度のシュトラウスとの婚姻は、レーベンバルト公爵家の体面のために押し付けられたものである。
既に妻にも近い恋人がいる相手からの婚約の打診に、父は断りを入れるつもりだった。格上の公爵家ではあるが、建国の功績を持つグラント侯爵家なら「もったいないお話で恐縮しております」と辞退も可能だ。
だが、どうしても息子の婚姻相手に官僚貴族の娘を受け入れられないレーベンバルト公爵は、人事権を持つことを盾にして父の失職を仄めかし、更には弟妹たちの婚姻に障りが出ると脅してきた。
つまり、レーベンバルト家の申し出を断る選択肢はなかった。
領地からの収入だけでは、弟妹たちを貴族学園に通わせることは難しい。それに、未婚の子らを生涯養う余裕もない。弟たちが官吏になることも難しくなり、行き詰まる未来しかないのだ。一家離散の上で、妹たちは修道院に入るしかなくなる。可愛い弟妹たちにそんな人生は歩ませたくなかった。
「では、何故此度の婚姻を?君が強く望んだからだと聞いているが……」
そんなはずはないだろうが、面子を気にする公爵からすれば、半ば脅迫して取り付けた婚約ではなく、「公爵令息に横恋慕した侯爵令嬢が、建国の功績の家柄を振り翳して強引に迫ってきた」という形にしたかったのだろう。
むしろ、息子には「形だけの妻を迎え、恋人は愛人として囲えばいい」とでも言ったのだろう。ただし、跡継ぎは正妻の子との間に生せ、とも。
シュトラウスは愛する女性を愛人になどしたくはなかったが、父親には逆らえないし、円満に離縁すれば再婚は可能と考えたのだろう。
「いいえ。わたくしは、官吏になって一人で食べて行くか、修道院に入って奉仕で生涯を過ごすことを考えておりました。もちろん、家のための婚姻が必要であれば、いたす覚悟もございましたが」
古い家柄とはいえ、権力はない。縁談があれば、妹たちを優先したいとエルヴィラは思っていた。彼女たちは、まだ恋や愛を信じているから。
「つまり、家のための婚姻だと?」
シュトラウスの声が震える。その身分と容姿から、女性側から求められなかったことなどなかったのだろう。たとえ恋人がいても、女は自分に懸想する、くらいに思っているのかも知れない。
「そうですわ。この結婚は契約でしょう?レーベンバルト公爵令息にとっては愛するシャルロッテ様と結ばれるため、わたくしにとっては職業選択を広げるため……ただそれだけですわ」
たとえ子が出来なくて離縁されたとしても、婚姻歴があれば家庭教師や女官になれる。それに再婚の場合は、初婚の時のように身分差を考えなくてもいいから選択肢が広がる。爵位の上下二つまでの不文律は、初婚にのみ適用されるのだ。
(だからこそ、わたくしと婚姻したのでしょうね)
法に反することをせず、「子が出来ない」という理由での離縁であれば、周りからは仕方がないと受け入れられる。それで、ほとぼりが冷めた頃にでも再婚するなら、誰もが納得をする。再婚であれば、身分差があっても、「再婚だから」の一言で済む。
要は、形だけでも初婚で釣り合いの取れる家から嫁を娶れば、公爵家の体面と威儀は保てる、ということだろう。
そして、そのようにシュトラウスも考えた。ついでに、父親を説得出来るほど熱心に迫ってきた女なら、どのような条件でも受け入れるという計算もあったに違いない。
「ご安心を。白い結婚がお困りになるのでしたら、公爵夫妻には秘密にいたしますわ」
プライドだけは無駄に高い公爵が、白い結婚の末の離縁を認めるとは思えない。もし成立したとしても、実家に嫌がらせをされる可能性が高い。それだけは避けなければならない。
「だが、どうやって白い結婚でないことにすればいい?」
「わたくしたちが口裏を合わせればいいだけですわ。それに……万が一わたくしに子が授かれば、離縁は難しくなりますでしょう?三年経って子のいない妻が去るのは自然なことですし、公爵様もご納得されるでしょう」
流石にやることをやって子が生せないのなら、エルヴィラの就職や実家に対して口出しはしてこないだろう。身体的な問題は、本人たちの努力ではどうしようもないからだ。
「明日の朝は、こちらのシーツにこれをつけておきますわ。滞りなく初夜を終えた証になります」
小瓶に入れてあるのは鳩の血だ。純潔を失っている令嬢が使う手である。エルヴィラは誓って純潔だが、この展開を予想していたから準備をしていた。
「そ、そうか……」
少しばかりがっかりした様子なのが腑に落ちないが、エルヴィラは構わずに続ける。
「公爵ご夫妻は明後日には領地にお戻りになると伺っておりますので、それ以降は仲良くする演技も必要ないでしょう。夜会や夫婦同伴のお茶会は共に参加いたしますが、それ以外はお互いに自由にいたしましょう」
「その……すまないが、我々に自由になるお金はほとんどない。あまり好きにされるのは……」
「ご心配には及びませんわ。わたくし、刺繍の手仕事をしておりますの。自分で使うお金は、そちらから出します。食事と住む場所だけ保証していただければ結構ですわ」
他所に別宅を構えて恋人を囲えばお金もありませんわよね、という言葉をすんでのところで呑み込む。何もかも、世間に疎い小娘でも知っている。つまり、公爵も公認ということだ。
「使用人に怪しまれない程度には外泊をなさってもよろしいかと。殿方には色々お付き合いがございますでしょう?」
暗に、言い訳くらいは自分で考えろ、と言っているが、伝わったかは怪しい。シュトラウスはそこまで頭の回転が速い方ではなさそうだ。
「あ、ああ。君はとても理解がある人だ」
嬉しそうに笑う顔だけは芸術品のようだ。この見栄えがよくて身分の高い男を連れて歩くのは悪くない。それに、元公爵家嫡子夫人の肩書きがあれば、王族や高位貴族付きの女官の座も狙える。
エルヴィラにとっても、この婚姻には利点がいくつもある。結婚の白黒や愛情など、どうでもいい。
「では、三年間よろしくお願いいたしますわ、レーベンバルト公爵令息」
「こちらこそ、よろしく頼むぞ、エルヴィラ」
初夜に握手を取り交わし、契約は完了した。
ー八年後
エルヴィラは王宮で、王女付きの女官兼家庭教師として仕えていた。
約束通り、五年前に「子が出来ない」という理由で円満に離縁は成立した。レーベンバルト公爵は渋っていたが、一人息子のシュトラウスに子が出来なければ、家が絶えてしまうことを考えて、最後には「子なきは三年で去る」と奥方に言われて承知した。どうやら、それはなかなか子が出来なかったことを姑にひたすら責められたことに対する意趣返しのようだったが、男二人が気づいたかは分からない。
その後、官吏登用試験を受けようと思ったが、ちょうどある侯爵令嬢の家庭教師の募集がかかり、学園での成績が優秀で、元公爵家嫡子夫人の肩書きを持つエルヴィラが選ばれた。
その侯爵令嬢は、第三王子の婚約者でもあった。教師としての腕を認められたエルヴィラは、なんと、かつての教え子から王女殿下の家庭教師に推挙された。運良く採用され、一年前からはずっと王宮に詰めている。
「酷い話ですわ。お子を授からないからと離縁なさるなんて」
御年十二歳の王女殿下は本気で憤慨されていた。取り立てて隠してもいなかったから、どこからかお耳に入ったのだろう。
確かに、子を授からないことは離婚理由になるが、ここ百年くらいではあまり多くはない。
「わたくしが至らなかったのですわ」
するべきことをしていないのだから当然だが、そのことは秘密だ。少なくとも、レーベンバルト公爵が存命な間は。
「エルヴィラは再縁には興味ございませんの?」
無邪気な王女殿下の言葉に、曖昧に笑う。
石女とされたらされたで、それなりに縁談はある。不倫や不正での離縁の方が再婚への障壁は高い。本人の人間性に問題があるからだ。子を産めないのは、身体的な欠陥であり、本人にはどうしようもないこと。だからこそ、既に跡継ぎのいる方の後添いや、妻はなんとか養えるが子は難しいという弱小貴族の次男三男などからの話はちょくちょく来ている。まして、エルヴィラは王女殿下付きの女官だ。給金も入れば、王族への伝手も出来る。未婚の侯爵令嬢の時よりも縁談が多いくらいだ。
(運が良かっただけですけれども……)
そうとしか言いようがない幸運の連続で、エルヴィラは満足していた。元王女殿下付きの肩書きがあれば、これから一生食べるに困らない。
「エルヴィラ?」
「わたくしは、いまがとても幸せですわ。王女殿下にお仕え出来て、それだけで十分でございます」
縁があれば再婚をしてもいいが、必要に迫られてすることはない。自分の幸せは自分で掴めるのだ。それだけの力を得た。エルヴィラの人生は安泰である。
そう思っていたのだが……。
「エルヴィラ、ご紹介いたします。兄様の側近のカールですわ」
嬉しそうに王女殿下が引っ張ってきたのは、第三王子の側近の一人だ。年の頃は、エルヴィラより少し上で、三十手前くらいだろうか。その後ろには、第三王子殿下夫妻のお姿もある。
「お初にお目にかかります。カール・リーンハルトと申します」
丁寧に頭を下げる彼は、柔和そうな顔をしていた。美男の部類ではないが、有能な官吏の雰囲気を醸し出している。
「エルヴィラ・グラントでございます」
同じように挨拶をしながら考える。どこかで聞いたことのある名だ。
「カールは一度婚姻しているのだけれども、不幸にも奥方を若くして亡くされていてね。真面目で物静かなせいか、ずっと独り身なんだ。もしエルヴィラさえ良ければ、話し相手にでもなってくれないか。彼は文学にも詳しいよ」
第三王子殿下が微笑む。その隣にいる元教え子も同じ表情をしている。
「エルヴィラは少し厳しいところもありますが、とても思慮深くて物知りです」
兄王子の真似をしてエルヴィラを紹介する王女殿下は楽しそうだ。
「存じております。学園ではいつも学費免除の優待生で、文学の成績は一番でしたね」
「え?」
学園での成績は確かに彼の言う通りであったが、どうして知っているのだろう。
「学年は二つ下でしたが、すごく優秀だと評判でした。それに、私は卒業後、三年間は学園の採点補助の仕事をしておりましたから……」
「あ!」
思わず王宮に相応しくない素っ頓狂な声が出てしまったが、殿下たちも護衛たちも聞かなかったことにしてくれた。
「ずっと首席と噂になっていた、リーンハルト伯爵令息でございますか?」
学年は違うが、三年間首席を取り続けていた令息は有名だった。
「昨年爵位を継いで、令息は取れましたが。お恥ずかしながら、我が家は伯爵家とは名ばかりで、代々の当主は官吏を兼務しております。学園の学費もかなりの痛手ですので、学費免除が必須でした」
「わたくしも同じでございます。我がグラント家も歴史はあれど、余裕はない家でしたので……」
どちらともなくカールとエルヴィラは笑い合った。
(家庭環境が似ているのね。だから、なんとなく居心地がよいのかしら?)
確かリーンハルト家も建国に協力した功績で取り立てられた家だったはずだ。
「では、後は若いお二人に」
一番若い王女殿下の言葉で、第三王子殿下夫妻も、護衛たちもぞろぞろと立ち去っていく。
「よろしければ、少し歩きませんか?」
「ええ、喜んで」
王宮の庭は、薔薇が盛りだ。気高くも甘い香りに包まれながら、取り止めのない話をする。学園時代の話、仕事の話、領地の話……。
会話をすればするほど、カールの実直で優しい性格が伝わってくる。地頭の良さも端々に感じ、かなり有能な側近なのだと理解する。
「いやでなければ、妻のことを聞いていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい」
「妻とは領地が隣同士の幼馴染で、妹みたいな存在でした。結婚してからもそれは変わらずで、恋愛というより家族としての愛しか抱いていませんでした」
それで十分ではないかとエルヴィラは思う。むしろ、貴族同士の結婚で、そんな愛情がある相手と結婚出来る方が幸せだ。
「身体が弱い方だった妻は、十年前の流行病であっけなく亡くなりました。結婚して僅か数ヶ月で……。その日の朝には『いってらっしゃい。今日の夕飯は一緒に食べられるの?』とたわいのない言葉で送り出してくれたのに」
十年前、南部で隣国から持ち込まれた病が大流行した。その病は恐ろしく、発病と同時に高熱が出て、全身に発疹が広がる。特効薬はなく、朝元気だった人間が夕方には危篤になることも珍しくなかった。
「お辛いことをお話いただいてありがとうございます。でも、奥様はお幸せですね。こうしてずっと旦那様に思っていただいて……」
たとえ恋愛感情はなくとも、とても大切にされていることが分かる。
「私には、いわゆる恋愛的な愛情はないのだろうと思う。だから、ずっと再縁せずにきた。幸い、弟たちには婿入り先で子が生まれているから、養子をもらえばいいと考えている」
それは、つまり子がいなくても構わない、ということだ。
「将来を見据えて、お付き合いをいただけないだろうか。失礼ながら私に恋愛感情はないが、あなたといると落ち着く。まるで家族のように感じるのだ」
聞きようによっては失礼極まりないが、エルヴィラは好感を抱いた。
「わたくしも同じですわ。恋愛感情はございませんの。世間の噂はどうか知りませんが、わたくしが愛するのは家族だけですわ」
誰もが知る身分差カップルの片割れに横恋慕して結婚までした悪女、と言われていたことは承知している。だから、子がなくて離縁された時も、「愛されるはずがないのに」とさんざん言われたらしい。
「貴族の結婚は、契約でしょう?愛や恋ではなく、利害関係で結ばれる家族になる契約です。わたくしは、カール様の奥様が羨ましいですわ。ご家族として、ずっと大切にされていたのですから」
「では、私と新しい家族になってくださいますか?」
「ええ、喜んで」
恋愛感情がないことで悩んだ時期もあった。最初の結婚の時だって、もしかしたら家族と同じように愛せるかもと淡い期待を一瞬だけ抱いた。それは、初めて会った結婚式当日の憎々しげに自分を見たレーベンバルト公爵令息の姿に打ち砕かれた。だから、さっさと円満に離縁して、一人で生きていく算段をつけるべく考えたのだ。
その目論見通りになった上に、運良く王族の女官兼家庭教師になれた。これが自分の幸せだとエルヴィラは思う。
だが、同じような境遇で、心の在り方も似たカールと共にいるのは落ち着く。彼とならいい家族になれそうだと思った。
エルヴィラとカールの婚姻は、届を出すだけの簡素なものにする予定だったが、話を聞きつけた王女殿下と第三王子殿下夫妻が、ごく親しい者を招いたガーデンパーティを開いてくれた。王家の離宮の庭で開催されたパーティには、両家の親族と同僚たちが出席してくれ、なんと国王夫妻までお忍びで顔を出してくださった。とりわけ可愛がっている王女殿下の頼みであっても、ありがたいことである。
カールもエルヴィラも王宮勤めは続けている。リーンハルト伯爵領は、カールの父親が代官を務めてくれている。歴代の当主と同じやり方だから、いずれカールも家督を譲ったら領地に引っ込むことだろう。その時は、エルヴィラもついていくつもりだ。
「夜会は久しぶりです」
リーンハルト伯爵家は、そこまで内証が豊かではないから、あまり頻繁に夜会には顔を出さない。そもそも、二人とも仕事で忙しくてそんな余裕はなかった。それに……
「エルヴィラ?」
突然名前を呼ばれ、訝しげに眉を顰めた。見事な金色の髪に、白皙の美貌の貴公子がいる。貴公子にしてはやや年を食っているが、美しい人だと思った。
「ああ、失礼、いまは……」
「恐れながらレーベンバルト公爵令息に申し上げます。我が妻のリーンハルト伯爵夫人です」
慇懃な礼を取りながらカールが笑う。いわゆる、愛想笑いの完璧版だ。
「再婚したとは聞いていたが……そうか」
がっかりした様子なのは何故だろう。十年も前に離縁した相手に対してエルヴィラは何の感情もなかった。顔は美しいと思うが、誰だか思い出せないくらいにどうでもよい相手だ。
「その……恥を忍んで聞いてもいいだろうか」
「何を、でしょうか?」
さっさと追い払いたいところだが、仮にも古狸の息子だ。下手なことをして、仕事に差し障りが出ても困る。まだまだ現役のレーベンバルト公爵は何をするか分からない。
「シャルロッテと婚姻する方法だ」
顔には出さないが、カールとエルヴィラは目配せをして呆れ返った。
「再婚ならばと思ったが、父上は断固として受け入れてはくれない。子も生まれているのに、小遣いは据え置きで……シャルロッテが困っている」
「家庭内のお話は分かりませんわ。お金が必要でしたら、官吏登用試験をお受けになるか、お父君のお仕事をお手伝いなさって対価をいただけばよろしいかと……」
余計なことを言ってはどんな火の粉が飛んで来ることやら。エルヴィラは婚姻についての言及を避けた。
(まあ、試験に受かる頭があるとは思えませんが)
法律上、成人した男女の再婚に際しては、二人だけで勝手に書類を提出すれば成立する。初婚の場合は、当主たちの承認が必要になるが。
(そもそも、十年も再婚なさらないなんて、純愛物語もかたなしですわね)
おそらくは公爵の反対によるものだろうが、唯一の嫡子なのだから、子が生まれたことを盾に押し切れないこともないだろう。むしろ、遥か昔の新床でその助言をしたはずだが、忘れてしまったのだろうか。
「官吏登用試験か……」
公爵家の一人息子に対しても忖度はない。
「レーベンバルト公爵令息、そろそろ殿下がお見えになりますので、失礼させていただきます」
王宮仕込みのカーテシーを披露し、カールの腕を取って歩き出す。
「シャルロッテ嬢も、上位貴族の奥方は難しいだろうね。貴族令嬢としてはしっかりしていたけれども……」
小さい声でカールが呟く。
「確か、同じ学年でしたわね」
「学生時代は、二人が眩しかったよ。恋愛感情が欠如した私にはないものを持っていたからね。でも、大人になってもあの時のままはいただけないかな」
二人とも悲劇のヒーロー、ヒロインのまま成長していない。その頭を少しくらいは使えば、いくらでも結婚する方法も、貰える予算を増やす方法もあるというのに。
「結婚に恋愛感情は必要ないわ。だって、わたくしは、いま、とても幸せですもの。同じ視線で会話が出来る人と家族になれて」
「それは私も同じさ。エルヴィラといるとすごく落ち着くし、とても穏やかな気持ちになる」
「似た者同士ですわね」
そう言いながら、カールとエルヴィラは静かに笑い合う。
「家族が一番大切なのもね。陛下のご挨拶まで見たら、早めにお暇しよう」
「そうですわね。あの子が待っていますわ」
ちょうど結婚から一年が経った日に生まれた新しい家族にして宝物だ。
「もう一人も」
まだ小さくて触れることも出来ない我が子に、優しい視線を向けるカールがくすぐったい。
恋愛感情はなくとも、エルヴィラはカールと共に結婚という契約のもとで、家族愛を育んでいる。
これからも、ずっと―
― 了 ―