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歌をうたえば


 昼も近い市場の真ん中。マルーシャは腕組みして林檎リンゴを見つめた。

 これとポロネギで、豚肉を煮込んだら。


「……いけるわ」


 確信を持ってうなずく。

 おいしくなるはず。肉も買おう。

 たまにはぜいたくしてもいいと思う。時計職人の父が作り上げた品が、今日納品なのだから。


「どうしたのさ、マルーシャ」


 果物屋のおかみさんが笑った。マルーシャがやりくりに苦労しているのは、ここらの者なら誰もが知っている。


「まとまった代金がもらえるはずなの。ごちそうにしようかな、て」

「……借金は平気かい?」

「もう! やめてよ、おばさん!」


 マルーシャが笑うと薄茶の瞳が秋の陽ざしにきらめいた。

 まるく響く声は石畳に転がり買い物客が振り向く。みんなご近所のおなじみだ。


「じゃあ林檎おまけしとくよ。おやつにお食べ」

「ありがと!」


 袋に二つ林檎を追加してもらい、マルーシャは軽やかに歩きだした。


 石造りの小さな町、ベルドニッツ。

 その中心からは少し外れた通りを時計工房兼自宅へと帰る。そうだ、肉屋には寄らなくちゃ。


 マルーシャは小さく歌う。祈りをこめて。


「――ユーデル セ ドーニア

   ヴィーテル バルミーナス――」


 幼い頃母が教えてくれたのだ。

 今日が幸せであるように願う歌よ、と母は言った。

 古い古い言葉だから、意味はそのうちね。そう笑った母は、歌の内容を教えてくれる前に病気で死んでしまったけど。

 父と、町の人たちと。みんながいるから大丈夫。

 

「お母さま――!」

「わっ!」


 小声で歌っていると横からドン、と腰に抱きつかれた。女の子だった。はずみで林檎が一つ、買い物袋から飛び出して転がる。

 お母さま?

 子どもを産んだ覚えはない。まだ結婚のご縁もない十八歳なのだ。

 自分にしがみつく少女を見おろすと、輝くような金髪の頭だけが見えた。


「ミュシカ! いけないよ、いきなり」


 優しくたしなめつつ、背の高い男性が歩み寄ってきた。

 仕立ての良い上着は上品なグレー。林檎を拾いにかがんだ拍子に、やや伸びた黒髪が顔にかかった。その下の瞳も、深い黒。

 目が合ってドキリとし、マルーシャはうつむいた――格好いい人だ。


「だってこれ、お母さまのうたよ」


 言いはって顔を上げた女の子はとても愛らしかった。

 色白だが、ふくふくした頬は薔薇色だ。やや舌たらずにしゃべる唇がつんとしている。マルーシャを見る瞳は青く澄んで、白っぽい金髪とよく似合っていた。


「すみません。怪我は?」

「あ……平気です!」


 話しかけられ、マルーシャは弾かれたように答えた。この人はミュシカという子の父親だろうか。手で拭いた林檎を示してくる。


「弁償しよう」

「いいんです、どうせ煮るつもりだったから」


 ミュシカの父親はマルーシャの袋にそっと林檎を戻しながら、小さく「申し訳ない」とつぶやいた。穏やかな人だ。


「さあ離れなさい、ミュシカ?」

「いや。お母さまなの」


 出した手を拒まれて父親は困った顔になった。この人、いつも娘に振り回されているのかも。

 笑いがこみ上げてしまったが、マルーシャは困っているその人に買い物袋を押しつけてみた。え、え、と慌てながらとりあえず受け取ってくれる。

 第一印象は格好よかったのに。こらえきれずにマルーシャは吹き出した。


「ミュシカ、というの?」


 笑いながら女の子の前にしゃがんで視線を合わせる。ミュシカは目をぱちくりした。

 はああ、かわいい。


「うん、わたしミュシカ。お父さまはダニール」

「そう。私、マルーシャよ」


 自分も名乗る。笑顔のままダニールを見上げたら、うろたえて目をそらされた。こちらは照れ屋なのか。ミュシカに目を戻して尋ねる。


「お母さまの歌、てなあに?」

「さっきのおうた。ユーデル セ ドーニア、よ」

「ミュシカ、あれがわかるの」


 マルーシャは目を丸くした。父でさえ意味を知らなかったのに。


「お母さまがうたってた。マルーシャはお母さまなの?」

「やだ、ミュシカのお母さまと私は違うでしょ?」

「でも、にてる」


 真剣なミュシカに、くすくす笑ってしまった。

 黒髪のダニールを見るに、ミュシカの白金の髪は母譲りだと思う。淡い栗色の髪のマルーシャと似ているはずがなかった。


「――いや、似ているよ。顔の造作は」


 ダニールが真面目な声で口をはさんだ。見上げるとまじまじと見つめられている。マルーシャは真っ赤になって首を振った。


「そん、そんな! こんなかわいい子の親に似てるだなんて!」

「ふっ」


 勢いよく否定するマルーシャがツボに入ったらしい。ダニールは吹き出すのを我慢してうつむき肩を震わせた。マルーシャは恥ずかしくなってブツブツ言い訳した。


「奥さまは、もっとお綺麗でしょう?」

「あ――ミュシカは僕の子じゃなく、弟夫婦の娘で」


 かすかに笑い声を震わせたまま、ダニールは律儀に答えた。するとミュシカが怯えた顔になる。


「お父さまでいてよぅ」

「ああ、大丈夫だよ――弟夫婦は今、行方不明なんだ。僕が父親がわりでね」


 服の裾をつかみフニャフニャ言うミュシカを落ち着かせながらダニールは微笑んだ。でもその内容は不穏だ。


「寂しいんだろう。突然母親呼ばわりして悪かった」

「いえ――そう、ミュシカは悲しかったのね」


 両親がいなくなったというミュシカが可哀想で、マルーシャは少女をそっと抱きしめた。

 マルーシャが母を亡くしたのは九歳の時だった。それでもとても辛くて泣き暮らした。

 ミュシカはまだ、たぶん五歳かそこら。守られてしかるべき年なのに。マルーシャにすっぽり抱かれ、ミュシカは安心したように笑った。


「――ありがとう、マルーシャ」


 不意打ちで名を呼ばれてマルーシャの心臓が跳ねた。ダニールの声は何故か心地よい。

 いやダメダメ、初対面の人に何ときめいてるの。マルーシャは落ち着こうと深呼吸した。自分は年上好みだったのか。それともこの人だからなのか。よくわからない。


「ねえ」


 胸の中でミュシカが上目づかいになった。うるうるした瞳にキュンとなる。


「お母さまになって?」

「え?」

「ミュシカ」


 ダニールが慌てたように止めた。うっすら照れている。


「その言い方は――」

「――!」


 ああそうか。

 ダニールが「お父さま」でマルーシャが「お母さま」なら、二人は結婚することになる。

 そう思いあたってマルーシャはどぎまぎした。ミュシカを胸から離し、せいいっぱい大人ぶる。


「あ、あのね。ミュシカはとてもいい子だし、娘なら嬉しいわ。でもダニールさんに私なんて釣り合わないから」

「いや、そんなこと」


 マルーシャが卑下したのを真面目に否定するダニールは、とても紳士だ。

 だけどいたたまれなくて、マルーシャは買い物袋を奪い返した。


「あの、私、帰らないと。それじゃあね、ミュシカ」

「あ!」


 寂しそうなミュシカを振りきりマルーシャは駆け出した。残されて、ダニールは困り顔になった。


「……そりゃあびっくりするよ。お母さまに、なんて言われたら」

「だって」


 泣きベソのミュシカをダニールは抱き上げる。


「だけど彼女がアレーシャさんの娘みたいだね……思ってたのとは雰囲気が違うけど。さて、追いかけようか」


 指先をスイとマルーシャの去った方角に向けると、ダニールは唱えた。


「シェイディ コン ケルブ〈彼我をつなげ〉」


 あとは、導かれるままだ。


「……だけど、気恥ずかしいぞ」


 ミュシカが「お母さまに」などと言ったせいだ。


 ――正直に言うと、うっかり見惚れた。

 陽に輝く淡い髪が綺麗で目を奪われていたら笑顔で見上げられ、照れてしまった。年甲斐もない。


「いこ、お父さま!」


 ダニールは無邪気な姪っ子を抱いたまま肩をすくめると、自分の飛ばした()()()()()を追い始めた。



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