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摂食障害の私を生きる

作者: C.H.


                  1


 きっかけは,本当に,なんてことない一言だった。


「3キロ太ったの?やばくない?」


 それは,彼女にとっては大したことのない,これっぽっちも私への悪意はないであろう一言だったはずだ。だけど私にとって,彼女のそれは,自分の存在価値を揺るがすには十分な,決定的な言葉だった。


 長い月日が経った今も,あの日のことは鮮明に覚えている。


                  2


「やばいよね。めっちゃやばい。どうしよ。」


 クラスメイトの言葉にたじろぐ。3キロなんてちょっとだし,大丈夫でしょ,という言葉が返ってくると思っていたのに。友人は少し引いたような,嘲笑するかのような顔で私を見ている。


 どうしよう。どうしよう。やばいんだ。3キロ太るってやばいんだ。あいつは3キロも太ったんだって言いふらされるのかな。やばいねって笑われるのだろうか。内心焦りながらも,愛想笑いで誤魔化す。やばいよ~なんて言いながら,彼女はすぐに関心を失ったかのように,他の友人の元へ行ってしまった。


 高校入学前,可愛くなりたいとダイエットを始めた。毎日祖父とウォーキングをして,夜は祖母が作る脂肪燃焼トマトスープを食べて過ごしていたら,いつの間にか5キロほど落ちていた。中学では散々,ブスだのキモイだの言われて過ごしてきた私は,高校は誰も知り合いのいない場所で,毎日おしゃれして可愛くして過ごすんだと,心に誓っていた。そんな誓いのもと入学した今の高校では,痩せて可愛くなったからなのか,皆に「可愛い。」と言われ,友達にも囲まれて,男の子からもモテるようになって。やった,私は成功したんだ,瘦せたからだ!そう思っていた。


 だけど,今日,この健康診断で,そんな私の順風満帆な高校生活が崩れ去ろうとしている。


 診断結果に印字された「50」の数字。誰にも見えないように,隠しながら何度も覗き見ては,その数字に落胆する。


 可愛くなった。瘦せたから。人気者になった。瘦せたから。あんなに毎日努力して痩せたのに。この1年間,放課後のアイスや,夕飯までのおやつ,そんなことを繰り返していたら,あっという間に戻ってしまった。


 なんで私はだめなの。痩せてる子たちは皆,頑張ってるのに。私はなんで頑張れなかったんだろう。我慢できなかったんだろう。


 そういえば,この前読んだ雑誌で,「50キロ越えたら女じゃない。」って書いてあった。ああ,私,女じゃないんだ。デブの仲間入りかな。どうしよう。皆,私のこと,50キロのデブって思ってるのかな。引いてるかな。


 1人の帰り道,すれ違う人が皆,自分のことを見て,デブだと思っているように感じる。あの人も,この人も,今私のことを見た気がする。あ,あの人,細いな,綺麗だな。


 「50キロ」,「太った」,「やばい」。その言葉が頭の中に響いて重くのしかかる。


 「瘦せなきゃ…。」


 とにかく瘦せなければ。じゃなきゃ,皆離れてく。私の魅力なんて,瘦せて可愛くなった,この見た目しかない。そうじゃなくなったら,あっという間に離れていってしまう。家に帰ったら,ダイエット計画,立てなきゃ。


                  3


 あの日から,私は片っ端からダイエット方法を漁り続けた。本屋で,ネットで,探し続けた。別に,絶食とか,バナナしか食べないとか,そんな無理なダイエットをするつもりはなかった。“ちゃんとした”,“安全な”ダイエットをするために,『健康的に痩せる!大人気インストラクターの食事方法』とか,“ちゃんと”してそうなダイエット方法を探していた。一日に必要な摂取カロリーや栄養素を考えて,3食規則正しく食べて。それならリバウンドもしないし,問題ないでしょ,そう思っていた。


 そして,ダイエットを続けて2か月。気づけば3キロどころか,5キロも痩せていた。夜は絶対に糖質を食べないとか,間食は無添加のナッツだけとか,そういうダイエットは最初こそつらかったけれど,するする,あっという間に減っていく数字を見るのは気持ちが良くて。それが楽しくて,やめられないまま,ここまできた。むちっとしていた太ももがすっきりと細くなり,皆から羨ましがられた。板書をノートに書き写す際にいつも気になっていた,下を向くとできるたぷっとした二重あごも,なくなった。


 私を「やばい」と言ったあの子も,これで私を馬鹿にはできない。あんたは全然,瘦せてないね。私はちゃんと頑張ったでしょ。


 「さえちゃん,なんでそんなに痩せたの?ちゃんとごはん食べてる?」

 「なんか最近,痩せちゃって。あんまり食べれないんだよね。」


 彼女たちはまるで,心配してるよ,という言い方をしている。けれど本当は,痩せた私が羨ましいとか,自分も痩せなきゃと焦ってるとか,そういう,複雑な顔をしている感じだ。


 私は“食べれない”んじゃなくて“食べない”だけ。でも,ダイエットしてるとか言うと,彼女たちは「やめなよ~痩せる必要ないじゃん。」とか「太れ太れ。」とか,ダイエットを頑張れない自分たちと同じ方に引っ張ろうとする。女子特有の抜け駆け禁止みたいな空気感。


 「ねね,お菓子持ってきた。食べよ~。」


 そのうちの1人が持ってきたチョコレートに皆が集まる。前の私なら同じように真っ先に貰いに行ってたけど。無駄な間食はしないと決めてるから我慢。


 「さえちゃんにもあげる!」


 げ。私は,言葉に詰まる。


「…ありがとう。」


 せっかく食べてと言ってくれているのに断るのは感じが悪いかなと,渋々受け取る。私は恐る恐る,そのチョコレートを口に運ぶ。1粒くらい…。しばらく食べていないチョコレート。どんな味だっただろう。とろけるような食感が脳内に蘇ってくる。


 けれど。私はぴたっと手を止める。口に入れようとした途端,急に怖くなる。食べちゃだめだ。太る。


 私はそっと手の中にチョコレートを隠して,いかにも食べたかのように口をもごもごとさせながらトイレに向かうと,チョコレートをトイレットペーパーに包んでゴミ箱へ捨てた。


 ごめんなさい。せっかく貰ったものを捨てることは心苦しかったけれど,ダイエットのためには仕方ない。


 私は,何事もなかったかのように教室へ戻る。


                  4


 最近,思うように,体が動かない。


 バレーボールのサーブは,弱々しく足元に転がり,ネットを越えることはない。体育は元々苦手だけれど,さすがにサーブくらいはできていたのに。こんなに痛かったっけと手首を見ると,骨が浮き出て,そこが赤くなっている。


 私,痩せたなあ。ほっそりした手首を見つめる。


 「さえちゃん,がんばれー。」


 サーブ競争は,もう私しか残っていない。皆が私の弱々しい姿を見て,声援を送ってくる。恥ずかしい。早く入れたいのに。全然打てない。


 「高橋,お前そんなんじゃ子ども産めないぞ。」


 先生が,なんとか無理矢理サーブを入れて,疲れ切っている私に声を掛ける。先生は,それも入れられないなんて,一体どれだけ力がないんだ,と言いたげな,呆れたような顔を向けてくる。


 「えー。どうしよう。やだー。」


 適当に受け流す。めんどくさくておせっかいな言葉。“子どもが産めない”。それがなんだって言うのだろう。私は頑張って瘦せた。細くなった。体育の授業では,皆が私の足を見て,「ほそぉい。」と言ってくれる。子供なんか知らないよ。別に今,産みたくなんかないし。


                  5


 私の体重はどんどん軽くなっていく。「35」。今までに見たことのない数字。ここまでこれた。気持ちがいい。


 なのにどうして。こわい。


 私は痩せた。それなのに。どうして,いつまでもこんなに不安なんだろう。こんなにこわいんだろう。軽くなった私の体は,空っぽに感じる。空っぽで,何にも満たされなくて,冷たい感覚。羽根のように軽くなったんじゃなくて,今にも折れそうな枝みたい。


 最近は,何も感じずにごはんを食べている気がする。白滝にオクラをのせたものを毎日,おいしいと感じずに食べている。食べ始めた頃は,これはこれでおいしいかもと思っていたけど,段々と慣れてきて,何も感じない。無,だ。ただ,何かをお腹に入れないと,食べ物のことだけで頭がいっぱいで,授業中もぼうっとしてしまう。ずっとずっと食べ物のことを考えてしまう。


 夜眠るときは,骨が布団にあたって痛くて仕方がない。擦れる痛みで眠れず,母のところへ向かう。


 「お母さん,背中が痛いの。眠れない。」


 「可哀想に。」


 母はそれ以上何も言わず,ただたださすってくれる。こんなことをさせて申し訳ないな,とも思うけれど,この時間は母の体温を感じられて,甘えられて,うれしい。


 皆,心配してくれる。「大丈夫?」,「細すぎだよ。」って言ってくれる。なのに,それは私の心を満たしてくれない。なぜだかわからないけれど,惨めだ。細いと言ってくれる声も,まるで私を憐れんでいるように聞こえる。


 私は可愛いんだろうか。綺麗なんだろうか。誰も,細いとしか言ってくれない。


 いつまで瘦せればいいんだろう。いつまで続くんだろう。苦しい。ずっと苦しい。終わりが見えない。何キロになったら楽になれる?まだ頑張らなきゃだめ?


                  6


 お寿司や母の手作りの唐揚げ,大好物のフルーツタルト。太りそうな,カロリーの塊が,テーブルいっぱいに並んでいる。ずっとこの日を待ちわびていた。


 今日ぐらいは食べたい。誕生日だから。母にそう伝えて用意されたご馳走。母は張り切って,うれしそうに用意してくれていた。


 いいよね?今日は誕生日だもん。許されるよね?誰も,だめな子だって言わないよね?


 いいのかな,太らないかな,とずっと不安げに呟く私に,何をいつまで気にしてるんだ,と呆れたように母は言う。

「このぐらい食べたって太んないわよ。もう十分痩せてるじゃない。」


 母の言葉を信じて,一口食べてみる。


 「…ん~!!」


 こんなにおいしかったっけ。久しぶりの唐揚げは,いかにも太りそうな,揚げ物特有の味がした。たっぷりの肉汁と皮の脂身は,ここ最近食べていた味気ない食事とは違って,食べているということを実感する。涙が出そう。


 ずっとずっと我慢してきたんだもん。今日ぐらい。箸が止まらず,あと1個と思うのに,結局,もう1個,と食べてしまう。お腹いっぱいを超えても,箸は止まらない。


 明日からは食べられない。明日からは元の生活。今日のうちに食べておかないと。吐きそうで気持ち悪い。でも止められない。だって明日から,もう食べられない。また我慢しなきゃいけないから。


 また1年後まで我慢しなきゃいけないのかな。なんで我慢しなきゃいけないんだろう。それは,太りたくないから。だけど,なんで太りたくないんだっけ。でも,とにかく太りたくない。


 だから今日だけ。今日だけ,好きなだけ,後悔のないように食べるんだ。


                  7


 結局,次の日も,その次の日も,私は食べてしまっている。


 残っていた唐揚げやお菓子。だって,ちょっとぐらい食べたって太らないはずだから,いいよね。お母さんも大丈夫と言ってるし。ちょっと食べたくらいじゃ太らないように,いっぱいいっぱい痩せておいたから。少し体重が増えたって,前には戻らない。大丈夫。大丈夫。


                  8


 体重はやっぱり1キロだけ増えていた。念のため計ろうと体重計に乗ってみて,数字を見て悲鳴を上げる。


 「うそ!増えてる,どうしよう。」


 太ってしまった苛立ちや自分への嫌悪感。体重計の上にしゃがみこむ。


 リビングへ向かうと,声を荒げて母に言う。


 「今日からもう,朝と夜は食べないから!昼はちゃんと500キロカロリー以内にして!!!」


 狂ったようにわめき散らかす私に,母や妹が,いろんな言葉をぶつけてくる。


 「頭おかしんじゃない?おいしいもの食べられないなんて可哀想。」

 「なんでそこまでするの。もういい加減にして。」


 母は,痩せて,太って,わめいて,を繰り返されることに疲れ切っている。


 妹は,毎日太るのは嫌だと叫ぶ私に対して,軽蔑したような眼差しを向けている。私の目の前でこれ見よがしにケーキを食べている。私は,よく目の前で食べれるね,気を遣ってよ,と苛立ちを感じながらその姿を睨む。


 「食べたいならお姉ちゃんも食べれば?あ,でもダイエット中なんだもんね,可哀想~。」

 

 うるさい。うるさい。お前みたいなデブに何がわかる。そんなんだから太るんだよ,それで,太ったやばいなんて言いながら,何もしないじゃないか。そういう努力もできないデブが。何も言わずにふっと嘲笑う。


 気づけばそのまま,罵り合いになっている。いつもこの繰り返し。


 わかってる。


 私だって,頭がおかしいと思う。こんな,毎日のように泣き叫んで,わめいて,狂って。カロリー表を持ち歩いて,食べるものをすべて量って。


 止めて。誰か止めて。


 褒めてほしい。ちゃんと太った分,戻したよ。我慢してるよ。私はこんなに頑張ってるよ。なんでやさしい言葉をかけてくれないの。なんでわかってくれないの。


                  9


 「高橋さん,体重ほんとに減ったよね。15キロも。すごいな。」


 高校3年生の健康診断。身体測定後,先生が声を掛けてくる。何か聞き出そうとしている空気感だ。


 私は誇らしくなったけど,「はい,なんか瘦せちゃって。」とはにかんで見せた。気づいたら勝手に痩せてたんです,とでも言うように。正直に言ったら,「なんでこんなにダイエットしたの?」と怒られるような気がしたから。自分があんまり良くないことをしていることは,何となくわかってる。


 「生理はちゃんと来てる?」


 先生は,まるで腫れ物に触るような扱いで,聞いてくる。そういえば。最近全然来てないな。


 「来てません。半年ぐらい。」


 先生は少し目を丸くして,そっか,と呟いて,考え込んだ。しばらくすると,これはお節介かもしれないけれど,と落ち着いた声で言う。


 「もしかしたら産婦人科とか,行った方がいいかも。もしかしたら生理が止まってるのは,瘦せたせいかもしれない。親御さんと一緒に行ける?」


 怒られそうだし行きたくないけれど,なんだか,病院に行かなきゃいけないほどの自分が気持ちよくて,行くことにした。ずっと健康な人間だったけど,弱くて,華奢で,皆が心配するようなそんな人になれたのが少しうれしかった。


 家に帰って,保健の先生から痩せすぎで生理が来ないのかもしれないから,病院に行くように言われたと母に告げる。母は,困惑したような,そんな顔をしている。あんまり心配してなかったんだろうか。そんなことで病院に行く必要なんてないと思っていたのだろうか。そのうち生理も来るだろうって。


 けれどすぐに,そうね,ちゃんと行ってなかったし,診てもらおうか,と言われて,ほっとする。よかった。見捨てられたり,放っておかれたりしなくて。


 次の日,放課後に母と産婦人科へ行った。


 「なんで生理が半年も止まってたのに,ほっといたの。だめでしょ。お母さんも,なんで何も言わなかったんですか。」


 「すみません,私も不順気味な頃があったので,そのうち来るかと…」


 母は恥ずかしそうな,少し落ち込んだような顔をしている。


 病院に着いて診察を受けるなり,すぐに先生から叱られる。やっぱり怒られた。怒られるのは嫌。


 「赤ちゃん産めなくなるよ?わかってるの?」


 まただ。子供なんてどうでもいいけど。そんなのいつの話。そう言えば響くと思ってるのか。


 「すみません,気を付けます。」


 「本当だよ。何かあってからじゃ遅いんだから。自分の体なんだからちゃんと考えなさい。」


 先生は険しい顔で伝えてくるけれど,そんなの,よく知らないあなたに言われても,という感じだ。なんで怒られなきゃいけないんだろう。それに,先生の低く大きな声がこわい。体がビクッと震える。生理,来ないんだね,大丈夫かなってやさしく言ってくれるかと思ってたのに。


 ずっと先生の顔を見て話していたから,母の顔は見えない。お母さんを怒らないでほしい。私が勝手にやったダイエットなのに。そう思うのに。悲しませたい。私はこんなになっちゃったよって。頭がおかしくなったのは,お母さんがちゃんと止めてくれなかったからだよって。


 先生が言っていた言葉は殆ど覚えてないけど,これだけは頭に残った。


 「ちゃんと食べなさい。」


                  10


 私は先生に言われた通り,食べている。今までが嘘のように。堰を切ったように食欲が湧いて出てきている。食べたい,食べたい,食べたい。


 先生が食べていいって言ったから。生理を来させるためだから。私がダメなんじゃない。そう思うと,いくらでも食べられるのだ。


 受験のストレス解消に,焼りんご丸々1個にアイスクリームと蜂蜜をトッピングしたデザートが,最近の私のお気に入りだ。一度食べ始めると,それなしでは生きられないようで,中毒状態みたいだ。はじめは焼きりんごに蜂蜜だけでじゅうぶん甘く,体中がその甘さに喜んでいたけれど,毎日食べていると,麻痺してしまったのか物足りなく感じるようになった。さらに甘くてこってりした味を求めるようになり,ついにアイスクリームまでトッピングするようになった。


 母は,それでストレスがなくなるなら食べた方がいい,と,毎日勧めてくる。


 「さえちゃん,今日もいつもの食べる?」


 お母さんが甘やかすから私はこんなに食べちゃうんだ,と思いつつも,お母さんがいいと言っているならいいか,と流されてしまう。


 最近では,周りから少しずつ,「ちゃんと食べてるんだね。」,「お前太ったなー。」とか,いろいろ言われる。この前は,どうせ受験のストレスで太ったんだろ,顔がぱんぱんだぞ,と先生から笑われた。さすがにやばいかな。確かに顔に肉はついてきてるし,去年の写真と比べてふっくらとしている。


 けれど,食べてもいいって先生が言ったから,母も言っているから。大丈夫。まだ私はデブじゃない。少し,ふっくらしただけ。


 53キロ。いつの間にか,体重はあの身体測定のときよりも増えていた。


                  11


 大学に入ってから,毎日食べ続けているのがわかる。食べたくて食べたくて,食べても食べても食べたい衝動に駆られる。目の前にある食べ物すべてが魅力的に見える。あんなに我慢できていた私はどこにいったんだろう。いつの間にか,大学の帰りにコンビニでお菓子や菓子パンを買い込んで,こっそり部屋に持ち込む癖がついていた。まるで我慢していたときに食べられなかった分を体に流し込むかのように食べていた。ひとりきりの部屋で,体の中がすべて食べ物でできているように感じるぐらいまで,食べる。苦しくて,ぼうっとして,そのまま眠る。夜中に目が覚めると,また食べ物のことしか考えられなくて,夜な夜な冷蔵庫を漁る。


 大学にいる間は不思議と食べたいと思わなくて,人の前で食べることも嫌で,静かな図書館で過ごす。ただ眠っている。ここで食べなければ帳尻が合って,太らないんじゃないかとも思う。


 今日はこのまま何も食べなくても大丈夫かもしれないと思っても,部屋でひとりで過ごしていると,ざわざわして,無性に食べたくなって,お金を握りしめてコンビニに行き,いつも通り限界まで食べる。


 その繰り返しの日々。


 もう,お腹がすいたって感覚がわからない。おいしいのにおいしくない。もう食べたくなんかないのに。でも,食べたい。喉元まで食べ物が詰まっていて,吐き出したいぐらいなのに,私は食べ続ける。


                  12


 少しずつ太る私に,母は見て見ぬ振りをする。母は昔から,何かあると食べていた。ご褒美は甘いもの。つらいとき,しんどいときは食べたら元気が出る。そういう人だった。だから私が多少食べ過ぎていたって,少し太ったって,昔から何も言わない。隠れて食べていることはわかっているのかもしれないけど,気づいていないふりをしている。ほっといたほうが楽だから?そっとしておこうと思ってる?何か言われればうるさいと思うのに,心配してほしいとも思う。


                  13


 久しぶりに,仕事で家にいなかった父が帰ってきた。父は私の姿を見て目を見開いている。私の体をまじまじと見て,固まっている。その理由を私は知っている。けれど,何も言われたくなくて,すぐに部屋に戻る。


 あんな顔で見なくてもいいのに。どうせこの体のことだ。父が前回単身赴任から帰ってきたときは,痩せすぎたことに文句を言っていたのに。しかも,いつも直接は何も言わないのだ。裏で母に言っているだけ。


 そのうち,リビングから父と母が話す声が聞こえてくる。私は気づかれないように,そっとリビングに近づき,耳をそばだてる。


 「さえはなんであんなに太ったんだ。あれじゃいつか,すごいデブになってしまうぞ。」


 父の顔は見えないけれど,食べさせている母に対して苦言を呈しているような,厳しい声色だ。うーん,と母は言葉を濁している。なんて言ったらいいかわからないようだ。


 “すごいデブになってしまう”。


 その言葉が頭の中を駆け巡る。


 ふと鏡を見ると,小太りの女が映っている。着ているピンクの花柄のパジャマワンピースはパツパツで,女の子らしさの欠片もない。そんな自分を見ていると,涙が出てくる。あんなに痩せていたのに。あんなに細くて可愛かったのに。


 でも。あの頃には戻れない。あんな,無添加のピーナッツとか,春雨とか,それだけの生活なんて続けられない。おいしいものが食べたい。それだけ食べて生きていたい。もう我慢なんかしたくない。


 自分の姿も,それに対して裏で何か言う父と母も,自分がデブとして存在しているこの世界も,全部が嫌で,何も聞きたくなくて,布団にもぐりこむ。深く深く眠って,二度と目を覚ましたくない。涙が止まらない。


                  14


 その日の夜中,私は目を覚ますと,また冷蔵庫に向かった。目を覚ました瞬間,ざわざわして,何か口に入れて体をいっぱいにしないといけない気がして,食べ物に手が伸びてしまう。その繰り返しだ。


 部屋に持ち込んだ食べ物を夢中で貪る。ひたすら口に入れる。ハムやソーセージ,たまごサラダ,食パンにケチャップやマヨネーズを塗りたくる。しょっぱいものに飽きて,チョコレートやアイスクリームを口に入れる。しょっぱい,甘いという順で,永遠に食べていられる気がする。舌が馬鹿になったかのように,すごくしょっぱいとか,すごく甘いとか,味が濃いものでないと食べた気にならない。ゲームに出てくるモンスターが肉に夢中でがっついているかのように食べ続ける。

 けれど,ふと父の言葉が蘇り,動きを止める。このまま食べ続けていいのか?このままじゃ,もっと太ってしまう。でも,食べることはやめたくない…。


 そうだ。噛むだけ噛んで,味を感じたら,出してしまおう。食べ物を口に含んでは,噛んで,ビニール袋に吐き出す。今度はそれを繰り返す。


 その途端,なぜか虚しくなる。我に返る。私は何をしてるんだろう。食費を無駄にして,ただ吐き出して。なんでここまでして食べたいんだろう。お母さんは気づいているのだろうか。私か妹が知らない間に食べた,ぐらいに思っているんだろうか。


 何も考えたくない。ぼうっとしてきた私は,食べ物が吐き捨てられた袋を捨て,布団に倒れ込んだ。


                  15


 父と母が朝から口論している。私を病院に連れて行ったほうがいいという父と,私は病気なんかじゃないからやめてという母。私は部屋で,息をひそめながら過ごし,まだ寝ているように見せかける。


 あの子はおかしい,なんでこうなった,ちゃんとダイエットさせろ。父はいろんな言葉を母に放って,赴任地へ戻った。しばらくは帰ってこないだろう。


 いつもそうだ。私には直接言わないのだ。言いたいことがあるなら言えばいいのに。直接言うと傷つけると思っているのか,避けているのかはわからないけれど,今回の帰省でも,父とはまともに会話をしなかった。


 母は何の気力もなさそうだ。私の太った姿に,父の言葉に,疲れ切っている。母が食べさせたんじゃないか,自業自得だ,という気持ちと,私のことで申し訳ないという気持ちが入り混じる。

 母はその日1日何かを考え込んでいるようだったが,次の日の朝,意を決したように私に言った。


 「さえちゃん,病院に行くよ。」


 「えっなんで。」


 私は少し戸惑う。あんなに病気じゃないと言い張っていたのに。母は私の考えなんてお構いなしというように,なんでもいいからと無理矢理支度をさせる。


 半ば強引に病院に連れてこられると,診察の手続きを済ませて,母と椅子に腰かける。


 病院の待合室は,暗い雰囲気だ。具合が悪そうな人が多くて,皆,やつれた顔や,疲れ切った顔をしている。そんな中で,丸々と太った私は,なんだか浮いているように感じて,いたたまれない。最近,授業もゼミだけだしズームだから,大学にもどこにも行っていなかった。太った自分を見せたくなくて。人が多いところに来たくなかったのに。早く帰りたい。誰も自分のことなんて見ていないはずなのに,視線が気になってしまう。


 それに,太り過ぎ,食べ過ぎで病院なんて。そんなの,ただの食べ過ぎです,ダイエットしてください,怠惰なだけですと言われるだけなのに。


 隣の母の顔をそっと見てみると,こわばった顔をしている。また,産婦人科のときのように怒られると思っているのだろうか。あのときは,病院に行った帰り道,どんな言葉を交わしたか,正直覚えていない。2人して怒られたことに疲れて,とりあえずおいしいものでも買って,おうちで食べてみようか,と話しただけだ。今日は,これからダイエットしようね,と言われるのかな。


 「高橋さん,どうぞ。」

 

 なんて言われるだろう。怒られたくない。体がこわばる。椅子に腰かけて早々,質問される。


 「最近,食事はどうしてるんですか。」


 先生はやさしそうな声で聞いてくる。怒られそうな感じはない。よかった。


 先生に最近の食生活や大学生活,体重の推移について簡単に聞かれる。夜な夜な冷蔵庫を漁っていることは,恥ずかしくて言えない。


 一通り話し終えると,お母さんと2人だけで少し話すから,と待合室に戻される。


 しばらくして戻ってきた母は,今にも泣きだしそうな,複雑な顔をしている。何て言われたの,と問うと,お母さん疲れちゃった,ごめんね,とだけ言われた。そしてこうとも。


 「さえちゃん,痩せよう。ちゃんとダイエットしよう。」


 やっぱり言われた。確かにそれが一番だ。だってそうすれば,もう父にあんな屈辱的な言葉を言われなくて済む。あんな風に陰でデブだと言われ,じろじろと見られることもない。


 でも,簡単にダイエットなんてできない。だってあんなにつらかったんだから。あのときにあんなに我慢できていたことが嘘みたいだ。あんな風においしくないものを食べ続ける日々は,もうたくさんだ。


 私は,うん,わかった,と適当に流して,うなだれた母の後ろを歩きながら,やるせない気持ちになる。2人で,無言で歩く。なんでこんなことをしているんだろう,と思う。母も同じ気持ちだろう。結局,病院に来たって何にもならなかった。母は私を見ると,苦しそうな顔を向けてくる。私だって苦しいよ。


                  16


 その夜,母に「健康的な食事」を出されて完食した後,私はまた夜中に目が覚めて,冷蔵庫に向かってしまう。寝ている母を起こさないようにリビングに向かった。冷蔵庫には,私が食べたいものたちは,何一つ入っていなかった。母がきっと捨ててしまったのだ。


 朝になれば「健康的な食事」が出てくるだろう。薄味で,栄養バランスが整っていて,太らなそうな食事。あれを食べ続ければ,きっと痩せるだろう。あの,味気なく,食べた,と満足できないような食事。


 気づいたら,私は衝動に駆られて,財布を握りしめて,そっと玄関の扉を開けていた。無理だ。今すぐ食べたい。味の濃いものが食べたい。食べていることを見た目で,味で,体に悪そうな匂いで,はっきりと感じたい。それを食べるときの,口の中での食感や味を回想したら,もう我慢できないのだ。


 コンビニには,私が食べたかったものが並んでいる。ジャムパン。ポテトチップス。たまごサンド。チョコケーキ。唐揚げ弁当。目についた物を買い物かごに放り込んでいく。どうせこれも吐き出してしまうんだよな,と思うと,悪いことをしているような,馬鹿馬鹿しいような,そんな気持ちになるのだけれど,何も考えたくない。今はただ,思いきり食べたい。


 家に戻ると,母はぐっすりと眠っていた。そっと部屋に戻ると,私の恒例の時間が始まる。母に申し訳ないと感じる気持ちもあったけれど,それをかき消すように食べ物を貪り始める。食べる。食べる。とにかく口に運ぶ。噛んでは吐き出す。けれど,なにか物足りなくなった私は,つい飲み込んでしまった。あ,やばい。一瞬手を止めたけれど,衝動は抑えられない。もういいや。食べちゃおう。たっぷりの生クリームや甘いジャム。マヨネーズやチーズのこってりした味。すべて私が食べたいものだ。


 けれど。あんなに食べたかったはずなのに,満たされて,うれしい気持ちにはなれなかった。口の中で味はしている。味を感じる。なのに,おいしい,と心から思えない。


 私は,普通にごはんを食べられていたはずなのに。いつから私はこうなったんだろう。ごはんを食べたい。普通に,おいしいと思えるようになりたい。何も不安に思わず,皆と一緒に食事をして過ごしたい。あの頃に戻りたい。


 鏡を見ると,化け物が映っている。食べ物を貪って,泣いている。


 「豚みたい…。」


 止められない。誰か止めてほしい。助けてほしい。だって,食べたくて仕方ないの。こんな,化け物みたいな自分は嫌なのに,どうしてもやめられない。お願いだから,私を縛りつけて,食べられないようにしてほしい。


 急に気持ちが悪くなり,トイレに駆け込む。今胃の中にあるものをすべて吐き出してしまいたい。私を豚にする食べ物たちを。すべて出して綺麗にしたい。


 なかなか吐けない私は,昔見たダイエット掲示板を思い出す。吐けないとき,指を突っ込むといい,と。そのときは,そんなこわいことするならダイエットした方がマシ,と思っていたけれど。恐る恐る指を口に入れて,奥へ突っ込む。


 「うっ。」


 食べたものが出てきたとき,私は,こわい,と思った。自分がやっていることが恐ろしくなる。ついにここまできてしまった。もう二度と戻れないような気持ちになる。けれど,同時に安堵している。これで,全部リセットできる。

 

 自分のやっていることが悲しくて虚しくて,疲れ切った気持ちになりながらも,ほっとしている自分もいる。口の中は後味の悪い嫌な臭いがして,何度も水ですすぐ。


 私は眠りにつく。食べながら痩せられる方法を見つけたことに安心しながら。


                  17


 食べては噛んで吐き出す,それでも物足りないときは,飲み込んではトイレで吐き出す。それを繰り返している。母の前では健康的な食事を摂り,誤魔化している。母は私が何も言わずに言われた通りに食べる姿を見て,やっと元に戻ってくれた,とでも言うように,うれしそうな顔をしている。そんな母を見て,嘘をついていることに罪悪感を感じないわけではなかったけれど。食事後,母の見ていない隙にトイレで吐き出す。


 吐いている時間は,地獄のように苦しい時間だ。なんでこんなことしなきゃいけないんだろう,気持ち悪い,苦しい。だけど,終わってしまえばなんてことない。たった一瞬,それだけで,全部チャラになるんだから。


 けれど,その地獄なのか天国なのかわからない生活も,ある日,幕を閉じる。


                  18


 「さえちゃん,何してるの!!」


 母が恐ろしいものを見るような目で私に叫ぶ。


 見られた。ついにバレてしまった。


 トイレに頭を突っ込み,吐き出す私を見た母は,何を感じたんだろう。

 リビングに連れて行かれ,一体何をしていたのか,問いただされる。私は,今まで夜な夜なコンビニに行っていたこと,食べては吐くを繰り返していたこと,これまでの行動全部を話す。もうどうでもいい。ああ。この生活も終わりだ。せっかくうまくやっていたのに。


 母は泣いている。涙をぼろぼろ流して,私に訴えかける。


 「なんでそんなことしたの!どうしてそんなことができるの!ママはさえちゃんが健康になれるようにごはんも作って,頑張っているのに!どうしたら元に戻ってくれるの?もう嫌!」


 そんな母の責め立てるような言葉に,カッとなって,つい言い返す。


 「そんなこと頼んでない!私は食べて痩せたいの!デブになんかなりたくないけど,我慢できないの!止められないの!体が動いてしまうの。食べることがやめられないの。もう何がおいしいのかも,お腹がすいたって感覚も,全部,全部忘れちゃったの。私だって自分が頭がおかしいってわかってるよ。病気かもしれない。でもお母さんは見ないふりしたじゃない。」


 母は,図星をつかれたような,逆に責め立てられてつらいような,はっとしたような,いろんな気持ちが入り混じった顔をする。


 「お母さん,きっと病院で何か言われたんでしょ!私が病気とか!でも認めたくないんでしょ?自分の娘が病気なんて。そんな子どもがいるなんて。私だって嫌だよもう。苦しいんだよ。でも助けてくれないじゃない。しんどくても泣いてても見ないふりしてたじゃない。助けてよ。もうしんどいよ。」


 「お母さんだってしんどいよ。さえちゃんがつらいのもしんどいよ。さえちゃんがおいしそうにごはんを食べていたときに戻ってほしいの。でもお母さんだってどうしたらいいかわかんないのよ。」

 母も私も泣いている。大泣きだ。こんなに感情をぶつけたのは,言葉にしたのはいつぶりだろう。本当の気持ちをぶつけ合う。


 「ごめんね。お母さん,いっぱい怒って,知らないふりもして,苦しいときに助けてあげられなかった。さえちゃんが病気だなんて思いたくなくて,お母さんの育て方が間違ってたんだって,ずっと苦しかったの。ごめんね。」


 やっと母の気持ちが見えた。やっと本当の気持ちを言ってくれた。私のこと,見ていてくれた。考えてくれていた。


 「私こそ,ごめん。お母さんがわかってくれないから,お母さんのせいにしたくて,つらい思いいっぱいさせた。本当にごめんなさい。」


 ぎゅっと抱きしめてくれる母の胸があったかい。涙が止まらない。


 ずっと,こうしてほしかった。


 苦しくてどうしようもない,出口の見えない日々が終わる予感がした。


                  19


 「さえちゃん,カウンセリングを受けてみない?」


 母と私は,2人でこれからのことを話すことにした。母は,「食べて吐くことを頭ごなしに怒ったりはしないようにするけれど,やっぱりさえちゃんがそれを続けることには賛成できないし,食べることで苦しんでほしくない。」と言う。私も,それは同じだ。けれど,今すぐにそれをやめることができそうにないとも思う。


 「ママね,病院の先生から聞いたの。さえちゃんがダイエットしたり,食べ過ぎちゃったことを後悔したり,頑張って綺麗になろうとしたことは悪いことじゃないんだって。ママもそう思う。でも,ちょっとダイエットを頑張り過ぎちゃったから,その反動で,栄養が足りなくて,たくさん食べたくなっちゃうんだって。」


 母は病院で先生に聞かされたことを,私がだめなんだとか,私がちゃんと食べることを我慢できないからいけないんだとか,そういう風に自分を責めないように,その言葉で傷つかないように,柔らかい言葉で説明してくれる。


 「さえちゃんが今やっていることは,さえちゃんが自分で決めてやっていることだけど,さえちゃんがだめなんじゃなくて,そういう風に動いちゃう癖がついちゃったんだって。だから,心と体をちゃんと整えたら,前みたいにごはんが食べられたり,食べ過ぎて吐いちゃったりはしなくなるって。摂食障害っていうんだって。」


 摂食障害。どこかで聞いたことがあるような言葉。体がガリガリになっちゃう病気,というイメージだったので,食べ過ぎている私がその病気だなんて,意外だ。


 ちゃんと病名があるんだ。私は,自分がだめな子だから,ちゃんと自分を律してダイエットを維持できなかったから,食べ過ぎて太ってしまったわけではなかったんだ。ふっと,気持ちが楽になる。


 「さえちゃんの病気は,ちゃんと治るんだって。いきなり,すぐに元に戻れるわけじゃないけれど,今みたいに苦しい気持ちにならないようになれる。そのために,さえちゃんも頑張らなければいけないけれど,お母さんも頑張るし,病院の先生もいる。一緒に少しずつ,やってみない?」


 今より楽に。でも。


 「私,やっぱり太ってるのは嫌。おいしい食事を摂ったら太るじゃない。だけど,太らないものばかり食べたら我慢できないし,でもまた食べて,太ったら嫌だから吐いてって同じことをしてしまうと思う。ダイエットする前の普通の食事に戻ったら,太っちゃう。病院に行くってことは,食べることを我慢し続けなきゃいけないの?」


 「さえちゃんが,我慢して苦しくないようにどうしたらいいか,考えていこう。太りたくないという気持ちがあることはママもわかったけれど,さえちゃんはそんなに太りたくない理由が何かあるの?」


 ふと,考えてみる。私はなんで,太りたくなかったんだろう。それは,人に嫌われたくないとか,痩せている方が綺麗だからとか。いろんな理由が湧いて出てきて,それを1つひとつ,言葉にしていく。


 母は,それをただただ,うん,うん,と聞いてくれた。


 「さえちゃん,そういう気持ちを,カウンセリングに行って話してみない?」


 「カウンセリング?学校のスクールカウンセラーみたいな?」


 「そう。病院の先生が,摂食障害は,心が少し疲れている現れでもあるから,さえちゃんが今つらい気持ちや,太りたくないっていう気持ち,食べることとか,これからのこと,いろんなことを話して,整理できるといいんだって。病気は,さえちゃんが向き合わないと治らないって。カウンセリングに行ったからって治るかはわからないし,さえちゃんにとってつらいことかもしれないけれど,行ってみて無駄ではないと思うって。どうかな。」


 「ママも,いろんな話を聞いてあげたいけれど,やっぱり,ママも苦しいときがあるんだ。ママもいろんな気持ちをカウンセリングで話してみたい。一緒に行ってみない?」


 カウンセリングという未知の場所や,知らない人に話をすることには抵抗があるけれど,もしかしたら,楽になれる何かがあるかもしれない。母も一緒なら。もし嫌だったらやめてもいいという母の言葉で,私は人生で初めてのカウンセリングに行く決心をした。


                  20


 カウンセリングは,思っていたものとは違っていた。


 怒られるかと思っていた食べ過ぎることや吐くことについては,何も言われない。こうしなさい,ああしなさいと指示されることもない。1回目は昔のことや今のこと,食べることについていろいろ聞かれたけれど,2回目の今日は,何か突っ込まれることもなくて,静かな時間だ。私が言いたくないことは,黙っていても,怒られたりしない。


 太りたくなかったこと。そう思ったきっかけ。もっと昔のこと。先生と話すうちに,いろんな話が口から出てくる。


 でも,正直,話した内容よりも,何も否定せずに聞いてくれる人がいることが心地いいのかもしれない。


 ふと,疑問が湧いた。


 「先生は,私が食べ過ぎて吐いてしまうことに対して,だめだって思ったりしないんですか。」


 先生は,私の言葉を受け取って,やさしい顔を向けながら,聞いてくる。


 「さえさんは,だめだって思うことがある?自分のそういうことに。」


 「だめなことだと思ってきました。吐いて,それで一瞬は楽になるんです。でも,すぐに,なんでこんなことしてるんだろうって。わかってるんです。こんなことしても良くならないって。でも,やってしまう。それを人にだめだって思われて,幻滅されそうで隠して,でも,どこかで許してほしいと思っていました。そういう風にしてもいいんじゃない?って言ってほしかったんだと思います。」


 そうか。私は自分の言葉にはっとした。私は,そういうことをする自分も,そういうことも,別にいいんだと言ってほしかったんだ。自分の口から出た言葉に,驚く。そうなんだ。私はずっとそう思っていたんだ。


 カウンセラーの先生は,私を否定も肯定もしないけど,少しずつ,気持ちを紐解いてくれる。急いで私の病気を治そうともしないし,でも,いつかは治したいという気持ちも理解してくれて,ゆっくり,病院の先生と,家族の人と相談しながら治していけるように,私がどうなりたいか,どうしたいかを話していこう,と伝えてくれる。


 この先生なら,怒ったり,見ないふりをしたりせずに,まっすぐに話してくれるかもしれない。


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 病院は,紹介された摂食障害専門のクリニックに通院している。栄養士の先生に,食べ過ぎてしまうのはなぜかを,体のメカニズムで教えてもらう。そして,これからどうしていくかも考えている。

 

 たとえば,食べないと子どもが産めなくなるとか,そういう,今言われてもわからないピンとこない話じゃなくて,食べないと余計に食べたくなるとか,おいしいものも食べながら綺麗でいるにはとか,食べることをマイナスに捉えないでいられるような話だ。前に食べ続けたときは太ってしまったけれど,おいしいと感じたり,ちゃんとお腹がすいた,と体が感じたときに食べれば,すぐに太ったりはしないらしい。


 帰り道,母と私は手を繋ぎながら,今日教えてもらったことを振り返る。母は,少し遠慮気味に,提案する。


 「久しぶりに皆で一緒に食べようか。」


 帰宅後,食卓に母のハンバーグが並ぶ。ハンバーグは,私の中で,「太りそうなもの」だ。どうしようか。食べたら,吐きたくなるだろう。でも,私は摂食障害を治して,吐いたりせずに,食べられるようになりたい。変わりたい。横にいる妹は,母から私のことを聞いたのか,「食べられなかったら私が食べるし!半分でもいいじゃん!」と励ましてくれる。今なら,2人がそばにいるなら,吐かないでいられるかもしれない。


 母と妹が見守る中,ハンバーグを口に運ぶ。おいしい。母のハンバーグは,決して味が濃いわけじゃないから,物足りないようにも感じる。でも,なんだかやさしい味がして,ちゃんと,ゆっくり噛んで味わおうとすると,ちゃんと,おいしい,と感じられる。やっと母と妹の前で,昔のようにおいしいものを食べられて,うれしくて気持ちが溢れる。私,おいしいと感じられてる!


 けれど。どうしよう。どうしよう。今までの癖なのか,体から出してしまいたくなる。これを出さないと,また太ってしまうかも。


 立ち上がる私を2人が一瞬不安そうに見つめる。けれど,だめ!とも,いいよとも言わず,ただ見守ってくれている。


 「ごめん,2人とも。やっぱり不安で,吐きたい気持ちがある。お母さんがせっかく作ってくれたのにごめんなさい。おいしいと思うのに,太るのがこわくて。でも,もしかしたら吐かないでいられるかもしれない。とりあえず一緒にトイレまで来てほしい。そばにいてほしい。」


 私は,カウンセラーの先生と決めた,ちゃんと自分の気持ちを伝えて,具体的にお願いをするということを意識しながら,母と妹に伝えてみる。


 「わかった。そばにいるからね。」


 母と妹は,やさしくうなずいてくれる。


 トイレの便座を前に,葛藤する。このまま吐いてしまえば,一旦は安堵できる。病院の先生や栄養士の先生は,もし吐いてしまっても,それはそれでいいし,いきなりは治せないから,できるときにやっていこうと言っていた。だから,吐いたっていい。どうする?


 なんだか,今なら止められる気がする。私は,なんとか吐きたい衝動をぐっとこらえる。大丈夫。これぐらいなら,太らない。先生は,食べなければ余計に食べたくなる,って言ってた。だから,今,ちゃんと食べるんだ。


 「もう,大丈夫。吐かないでも平気そう。ありがとう。」


 母と妹はうれしそうな顔で,うん,うんとうなずいていた。


                  22


 病院に行って,先生に,ハンバーグの日のことを話す。


 先生は,うん,とうなずいて微笑む。


 「食べたいと思うものを,食べたいときに食べるんだよ。お腹がすいていなかったら無理に3食食べる必要もない。残してもいい。カロリーを気にして食べたくないものを口にする必要もないよ。食べたいな,と思ったものを,満たされる分食べてみなさい。」

 

 先生のその言葉が,すごく,心に染みわたってくる。食べ過ぎることに苦しんでいた前の自分だったら,しっくりこなかったかもしれない。じゃあ,食べたい分食べていいんだと,先生が言ったからいいんだと,また同じことを繰り返していたかもしれない。けれど,今の自分には,その意味がわかる気がする。


 少しずつだけれど,おいしいという気持ちや,お腹がすいたという感覚を取り戻しているような気がする。今食べても,次の食事だって,次の日だって,食べたいものをまた食べていい。食べたいときに。そう思って食べていると,一気に食べ過ぎることがなくなって,急に太ったり,食べ過ぎて罪悪感に駆られることもなくなってきた。


 母も,3食しっかり食べなければならないという考えや,残してはいけないという考えの人だったから,食べたいときに食べたいものを食べたい分,ということに抵抗があったようだけれど,先生たちと話したり,良くなっている私を見たりするうちに,前ほど食べることにこだわりを持たなくなったようだ。


                  23


 順調に良くなっていた日々だったけれど,ある日,小さな事件が起こった。


 体重が1キロほど増えた。太っても,それは必要な栄養を体に入れたからだ,という先生たちの言葉を頭の中で繰り返しても,やっぱり太ることはこわい。


 少しパニックになり,トイレに駆け込み,衝動的に吐いてしまう。母は何も言わずに横にいてくれる。けれど,少し悲しそうだ。


 「ごめんね。またやっちゃった。ごめん。」


 私の謝罪に,母は首を横に振る。


 「先生がゆっくりでいいって言ってたでしょ。謝らなくていいよ。ゆっくりいこう。」


 うん。母のやさしい言葉で胸がぎゅっとなる。大丈夫だと自分に言い聞かせる。けれど,やっぱり吐いてしまったことに落ち込む。


 次の日。せっかくうまくいっていたのに。また元に戻ってしまうのかな。また繰り返そうとしている自分が情けなくて。それを責めなくていいと言われたのに,それもできない自分が悔しくて。そんな気持ちでカウンセリングに向かう。


 「またやってしまいました。私,もう大丈夫だと思ってたのに。やっても責めないって決めてたのに。母も悲しい顔をしてて。でも,どうしても太りたくない気持ちが勝ってしまうんです。」


 「さえさんの,太りたくないっていう気持ちについて,もう少し話してくれるかな。この表に書き出してみない?」


 カウンセラーの先生は,私が今不安に思っていることや,悩みを書いてみて,それをやってどうなったか,不安に思っていたことが起こったかどうかなどを思い出してみよう,と言う。


 こんなことで変わるのかな。最初は乗り気になれなかったけれど,しばらくして,気持ちが乗ってくる。ノートに自分の気持ちを書いたり,整理したりすることが好きだから,目に見えるようにさせてくれて,やりやすい。


 ノートを先生と一緒に振り返る。太って,体重が増えることで起こってしまうと思っている悪い想像は,これまでそんなに起こっていないのだと気づく。起こっていても,それは私が勝手に悪く捉えて,思い込んでしまっていたことだと気づかされる。


 瘦せたいと思ったきっかけは,昔見た雑誌のダイエット特集で,男の子が,体重が50キロある女は女じゃない,と言っていたこととか,クラスの男子にブスだと言われて,せめて体型は細くないと,と思ったこととか,太って恋人や友人に見放された人が出てくる漫画とかだ。でも,ダイエットする前も,自分のことを綺麗だと言ってくれた人がいたことや,体重や見た目ではなく,ずっと仲良くしてくれている友達もいる。


 そして,太ることを気にしてダイエットし過ぎたり,食べ過ぎたりする前の私が,体型について何かを言われたことは,あの身体測定以外,一度もなくて,そんなに見た目が太り過ぎていたわけではないことも,ちゃんと思い出せた。


 「先生,私,少しずつだけど,太ることがそんなにこわいことじゃないって思えるようになっていくかもしれないです。でも,やっぱり,デブって言われるのは嫌だし,綺麗でいたい。瘦せすぎていない,ほどほどの体型の自分もいいんだと思えるようになりたいです。」


 「じゃあ,どうしていったらいいか,一緒に考えてみようか。」


 先生はいつも,一緒に考えよう,と言ってくれる。あなたが自分で考えなさい,でもなく,こうしなさい,でもなく。一緒に歩いてくれる。それが,うれしい。


 先生と一緒なら,頑張れる。


                  24


 治療を始めてから随分経ち,栄養指導はなくなった。カウンセリングも,頻度は少しずつ減っている。


 私は今まで通り,食事は栄養士の先生の言葉を思い出しながら,食べたいものを食べるようにしている。体重計に乗って,太ったことをわざわざ確認することもやめてみた。体重や数字が増えても,それは私がだめだとか,そういうことではないことに,カウンセリングを通して気づけたから。もう,体重を計る必要はないし,計って数字が変わっていても,ただの数字でしかないと思う。それでも気になったら,計ってもいいとも。


 いきなり,体重なんか気にしなくていい!なんて考えることはできないし,今でもたまに,太ることがこわくて食べることを躊躇ったり,吐いてしまいたいときもあったりする。そんなときは,カウンセラーの先生と一緒に決めた,「大丈夫,そういうときもあってもいい。」,「こういう自分も,いい。」というおまじないみたいな言葉を自分に掛けてみる。


 あれはだめ,これをしなきゃ,と,私はいつも,自分に制限を課していたんだ。だから,これからはそれを1つずつ外しながら,過ごしてみよう。たぶん,うまくできないときもあるだろうけど。


 見た目も,体重も,大きく変化することはなくなった。いつも,同じぐらい。すごく痩せているわけでも,太っているわけでもない。ダイエットする前の,理想の自分とは違う。


 けれど,今の私は,おいしいものをおいしいと感じて,食べたいときに食べて。昔のように,元気な私だ。


                  25


 摂食障害が治った今,治ったあの頃を振り返ると,あんなことで治るんだな,という感じだ。本当に,いつのまにか,気づいたら治っていた。


 もちろん,今も,雑誌のダイエット特集とか,有名なモデルさんを見れば,自分と比べてしまうし,見た目については,自分が思い込んでいたよりも何か言ってくる人はいないけれど,やっぱり,「めっちゃ痩せてたのに,太ったな。」とか,いろいろ言う人はいる。極端なダイエットをしたり,吐いたりする自分に戻れば,また痩せられるかもしれない。


 けれど,そんなことをしても,もう意味がないことを,私は知ってる。あのときのようにしたくなったときは,カウンセラーの先生と話したり,自分で気持ちを整理したりすると,雑誌や周囲のために瘦せる必要なんてないな,と思えてくる。


 なにより,食べ物をおいしいと感じられて,それがとても幸せなことだと思えていることが,うれしい。食べることがこわくて,醜くて,苦しいことだと思っていた自分には戻りたくないし,他人の考えとか,言葉とか,そんなことよりも,今の自分が,ちゃんと食べて過ごすことができていることが一番だと思える。それに,自分に合った食事や食べ方を,母や先生たちとゆっくりと見つけていったことで,体が満たされて,食べ過ぎたりしたいと思うこともない。


 自分の体型に何も思わないわけじゃない。たまに筋トレとか,少しだけ食べる量を控えるダイエットとか,やったりもする。自分の体も全部愛せるようになりました,なんて綺麗なことは正直思えない。


 けれど,あのとき,たくさん悩んで,母と話したり,先生たちに助けてもらったりしながら,一緒に頑張った自分は誇りだった。たくさんの愛情や想いをもらって,ここまでやってこれた。ちゃんと元気になれた。あのときの自分も,もう戻りたくはないけれど,必要だったと思える。もう,あの頃に戻ることはない,と,なんとなく,でも,はっきりとわかる。


 また戻りたくなったら,何度でもここへ戻ってくればいい。摂食障害と向き合ったあの日々は,私を支えてくれる軸になった。


 自分を好きになれたわけじゃない。今も自信なんてそんなにない。私なんて,とか,こんなんじゃだめだ,見た目も…と塞ぎこむこともあるけれど,そんなときは,一人で抱えずに,周りに助けを求めながら,自分と向き合いながら,また,自分に合うやり方を見つけて,進んでいけばいい。


 いつかまた,私みたいな子を見つけたら,そばにいられるように。抱きしめてあげられるように。私も大丈夫だったから,あなたも大丈夫,いつかきっと笑えるよ,って,伝えたい。


 そう思いながら,私は今日も,おいしいごはんを食べている。




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