最後の瞬間、俺が伝えたかったことは
「幼稚園児みたいだな」
看護師国家試験を終えた彼女の萌と久しぶりのデート。萌のテンションの高さに、思わず言葉にしてしまった。
「幼稚園児って!」
「乳児の方が良かったか?」
看護学生の萌に言う言葉じゃないと思ったが、あまりにもはしゃいでいたから、ついつい言ってしまった。2歳年下の彼女は可愛くて仕方ない。そんな彼女との時間を少しでも楽しく過ごしたい。このあとの事を考えるとそう思ってしまう。
「国家試験に落ちたら看護師にはなれないんだろ?」
「うっ……」
萌は言葉を詰まらせたが、表情からそこまで深刻に考えている素振りではなかった。
「萌がいつも頑張ってるの知ってるから。大丈夫だよ。意地悪を言ってごめん」
俺は萌に向かって笑顔で告げる。そして萌の目を見て一言伝えた。
「立派な看護師になれ」
驚いて顔をあげる萌に微笑んで見せた。そして大切な一言を伝えなくてはいけない。
普段緊張なんてあまりしないが、今から伝えなくてはいけない言葉は萌が思っていることとは真逆の言葉なのだ。俺は決意を新たに萌に別れ話をした。
本当なら看護師国家試験が合格した時に渡そうと思っていたものがあったが、会社の健康診断で異変が見つかり精密検査の判定をもらっていた。そのため病院で検査を受けていた。
結果は──
「スキルス性の胃癌」
スキルス性だったため発見が遅れステージもかなり進んでいた。だから萌との別れを選んで別れを告げた。萌の人生の足枷にはなりたくない。
病名がわかり治る見込みが低いこともあり、辞表を書いて事情を話して渡すと上司が理解ある人で
「病気休職扱いにしておいたら良いじゃないか。治してまた戻ってこい。お前の席は空けておく」
そう言ってもらった。この上司に応えるため、医師に勧められる治療は全て行ってきた。しかし、ステージが進んでいたため色々な治療を受け小康状態を保っていたが、遂に主治医から緩和ケアを勧められ緩和ケア病棟への入院が決まった。
病室に案内され、母が荷物を片付けてくれている。その間にパジャマに着替えベッドに座り病室を見渡し、ここが最期の場所になるところかぁ……。そんなことをふと思った。萌も今頃、看護師してるんだろうな。看護師国家試験が終わった後、デートしたのが萌と会った最後だった。結果は聞いていないが、きっと合格をしているだろう。本当に頑張っていたから。懐かしい思いが心の中を駆け巡った。病院という場所が、彼女のことを思い出させたのだろうと思った。
「母さん」
「ん?」
「ありがとう」
「可愛い息子のためだからね」
「俺って可愛かったんだ。初めて知ったよ」
「そう?こんなに愛情かけて育ててきたのに、気づいてもらえていなかったんだねぇ」
「母さんの愛情たくさんもらってたんだな。こんなことでもないと気づかないものだな」
「今からしっかり感じて後から恩返ししてもらうから良いよ」
「俺に、そんな時間残ってるのかな」
こんな話をしていると、病室の扉をノックする音が聞こえた。
「中谷様、こんにちは」
カートを押しながら1人の看護師が入ってきた。
「中谷様、看護師の碓井と申します」
その声と苗字を聞いて萌だとわかった。萌は、俺に気づいているんだろうか、動揺もせず俺の対応をしている。
「入院したばかりでお疲れでしょうけど、血圧と脈拍を計らせてくださいね」
久しぶりに彼女との出会いに、こんな姿を見られるとは思ってみなかったが、最後に萌の憧れだった看護師姿を見られただけで満足だった。そんなことを思っていると萌から声がかかる。
「安定してますね。何かありましたらナースコールしてください」
萌が一言残し病室を出ていく。母さんが萌に頭を下げて俺に向き直り布団を掛け直してくれた。
「中谷さん、車椅子の用意ができました。お外に行きますか?」
天気のいい午後、萌が声をかけてくれた。病室にばかりいる俺を気遣って外に連れ出してくれるのだろう。
「ホスピス病棟の屋上って喫煙所もあるんだな」
ボソッとつぶやいて、たぶん人生最後の一本であろう煙草に火をつけた。
「煙草を吸うの、知らなかった」
煙が苦手なのか、萌は少し離れて俺に話しかけた。
「萌と別れてからだからな……」
「そうだったんだ」
「子供が生まれたときに禁煙したんだよ」
彼は懐かしそうに目を細めた。
「結局また吸い始めたんだけどな」
俺の病気を知っていてそれでもなお一緒にいたいと言ってくれた人と結婚をした。奇跡的に子供も生まれた。でも、今はひとりでいる人生だ。
「萌、いくつになった?」
煙草の火を消しながら、話しかけた。
「26だよ」
「歳とったなぁ」
「大人になったって言ってくれる?」
ひどい別れ方をしたのに俺に笑顔で接してくれる萌。看護師ってすげ〜なぁと思いながらあの頃の記憶が蘇ってくる。
屋上での萌との最後の時間から数日が過ぎた真夜中、だんだん悪化してきているんだろう。自分でも覚悟ができていた。
「中谷さん、失礼します」
白衣姿の萌が病室に入ってきた。
「萌……」
掠れた声しか出なかった。
「萌、に、看取って、もらえる、のか?」
「シフトによるけど」
俺は人生最後の時を、萌にいて欲しいと思っていたんだなとわがままな自分の心を知った。
「萌……ありがとう」
いろいろな想いを込めた。萌から出た言葉は
「少し眠って」
目をつむり心を落ち着かせる。萌は俺にキスをして病室を出て行った。目の奥が熱くなった。頬に一筋の涙が流れた。
医師から連絡を受けたであろう母親がきた。萌からのキスから数日、母に手を握られ萌の声が聞こえたような気がした。
「サチュレーション振れません」
憧れだった看護師になった萌に看取ってもらい俺は人生最後に素敵な思いをもらって旅立った。
「萌、ありがとう。立派な看護師になったんだな」
「頑張れよ」
伝えたいことはたくさんあるが、俺が言わなくてもきっと……わかってるよな、萌。