02 それでもやはり嫌いです。
目が覚めると時刻は午後三時を回っていた。
凪は両腕を伸ばしながら欠伸をすると、木を支えにしながらゆっくりと立ち上がる。
「起きたか。どうだ身体の調子は?」
「ん。だいぶ楽になったかな」
悪友は隣で教科書を広げながらノートに色々と書き込んでいた。凪と共に授業をサボりながら、しかし自習はしっかりしているのが面白い。
凪達が通うこの高校は県内でも有数の進学校で、毎年有名大学への合格者も多い。
碧は見かけによらずしっかりと勉強しているようで、高校入試も一桁の順位で入学を決めた。天才というよりは努力型で、負けず嫌いな性格も上手く勉学に向かっている。
対して凪の成績は中の中。良くも悪くもない位置をキープしており、おそらくこれからもそれは変わらない。
「水瀬と話したんだろ? 告白でもされたか?」
「まさか。逆だよ。嫌いって言ったら嫌いって言われた」
「それはそうだろ! ははっ! 水瀬にそんな事言えるのおまえぐらいだぞ?」
「事実だしな」
「そっか」
気が付けばもうすぐ放課後になりそうだ。凪と碧はタイミングを見計ってそれぞれの教室へと戻った。
凪が教室に入ると明らかに空気が変わった。皆の視線を独り占めして、それでもどこ吹く風で自分の席に戻る。
「見ろよあの傷。八神と一緒に喧嘩してるんだろ? 意外だよな」
「目とかやばいよね。なんか事件起こしそう」
(悪口なら本人がいない所でやればいいのに)
すると、クラスのお調子者っぽい男子が話し掛けてきた。
「月島って喧嘩とかするの?」
「しないよ」
「じゃあその傷なに? 階段から落ちたとか明らかな嘘はいらないから」
「ふー……うざいな。あんたには関係ないだろ」
「なんだと!? 調子乗ってんじゃねぇ!!」
その男子は凪の胸ぐらを掴むと壁へと押し付ける。凪は抵抗せずにじっと侮蔑の眼差しを向けた。すると胸ぐらを掴んでいた手から少しずつ力が抜け、ついには両手を下ろしてしまう。
それでも凪は冷ややかな視線を送り続けた。
「なんだよおまえ。気持ち悪っ」
「ありがとう。今後二度と話し掛けなくてもいいよ」
「そうかよ!」
教室内でのこのやり取りは一気に凪を孤立させた。音葉はチラチラとこちらの様子を窺っていたが、口を挟んでくる様子はない。
机の中の物を鞄に詰めると、皆の視線など気にする事なく悠々とその場を後にする。教室を出た後に様々な悪口が聞こえてきた。
「随分嫌われたみたいだな」
「そうみたいだね。俺と一緒にいて大丈夫? 少なくとも碧の評価は下がるよ?」
「糞みたいな評価なんか気にするかよ。あ、でも殴られたりしたら言えよ?」
「気が向いたらね」
凪達は帰路につく。碧は用事があるようで途端で別れ、凪も適当にブラブラしてからアザミ荘に帰った。
玄関のドアを開けると見慣れない靴がある。住人の靴は基本的にそれぞれの靴棚に入れる決まりになっているので、来客の類だろうか。女物の靴は学生のような気もする。
(なるほど。追加の住人かな?)
特別仲良くするつもりもないが、せめて最初の挨拶だけはきっちりした方がいいだろう。リビングの方から話し声が聞こえてきたので、邪魔をしないように静かにドアを開いた。
「あ、凪くんおかえりなさい。新しい住人が増えたわよ」
「……そうみたいですね」
「月島、さん?」
水瀬音葉が目を丸くしてこちらを見ている。どうやら新しい住人は、今一番関わりたくない人物だったようだ。
咲が見ている手前、あからさまな嫌悪感を出す訳にはいかない。凪は機械的な笑顔を作ってから頭を下げた。そして右手を前に出す。
「月島凪です。同じクラスの水瀬音葉さんですよね。よろしくお願いします」
「え、えと。あ、はい。こちらこそよろしくお願いします月島さん」
「あら! 二人とも同じクラスだったのね。仲も良さそうだしバッチリね!」
若干引き攣った笑みを浮かべながら握手に応じてくれた。凪の外面の良さに驚いているように見える。
どうやら荷物もある程度運び終えたようで、今から施設内を案内するところだった。すると咲がとんでもない事を口走る。
「そうだ! 凪くん案内してあげて! 女子部屋の場所だけは伝えてるから、それ以外をお願いしてもいい?」
「いや、俺は用事が――」
「じゃあよろしく頼むわね! 私は買い物に行ってくるから。今日は歓迎会よ」
凪と音葉を残したまま咲は買い物へと繰り出していく。そのままじっとしていても時間の無駄なので、凪は音葉に手招きして中の案内を始めた。
凪は部屋の説明をして、疑問点があればその都度、音葉から質問する。二人とも感情さえ殺してしまえば融通の利く性格だった。言い争いもせずに全ての部屋を回り終える。
最後に食堂に行くと、音葉を座らせてから調理場へと向かう。
「紅茶でいいか」
水道水をヤカンに入れて沸騰させると、紅茶のティーバックを二つ用意しティーカップに入れる。お湯を注いで準備ができたら、両手にカップを持って音葉が座るテーブルに向かった。
目の前にカップを置くと音葉は小さくお辞儀をした。凪はテーブルを挟んで対面の椅子に腰掛ける。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
美人とは皆がこうなのだろうか。カップを持つ手から口に運ぶ仕草まで全てが目を惹く。安物の紅茶でさえ気品を感じでしまうのだから感心してしまう。
「安物の紅茶ですら、あんたは絵になるね」
「あんたではなく水瀬です。一緒の家に住むようなものなので、そこはしっかりしてください」
「それは申し訳ない」
音葉はティーカップにもう一度口をつけると静かに置いた。
「作法の問題だと思います。カップは右手でつまむように持ってください。それと口につける時は顎を上げないように気をつけてください」
「なるほどなぁ」
「細かくはもっと色々ありますが、とりあえずそれだけ覚えておけばなんとかなります」
「ふーん」
指導された通りにカップを持ってみると、手元が安定せずに飲み辛い。どうやら凪に貴族の適正は無かったらしい。
「あの――。聞いてもいいですか?」
「答えられることであれば」
「私あなたに何かしましたか? 嫌われる原因が分かりません」
「もう嫌いとかは言わないようにするよ。仮にも一緒に生活するんだし」
「答えになっていません」
「だから言ったじゃないですか。あの時の表情です」
「……分かりませんよ」
「理解してくれなくていいです。俺自身の気持ちの問題なので。好き嫌いなんてそんなものでしょう?」
空になったティーカップを片付けると、軽く洗ってから元の場所に戻す。テーブルの方へ戻ろうとして椅子に脚を引っ掛けてしまった。脇腹の痛みで踏ん張りが利かず、そのまま倒れそうになってしまう。
音葉は咄嗟に正面から凪を支えた。
「すみません」
「いえ、気にしないでください。私のせいでもありますし。それにしても全く動じないんですね」
「何がですか?」
「今のこの状況って抱き合っているようなものだと思いませんか?」
「そうですね。そうかもしれません」
「何も感じないのですか?」
「その言葉をそっくりそのままお返しします」
「……なるほど」
音葉はクスりと笑いながら凪から離れる。手に巻いていた包帯が取れかかっていたので、それを巻き直してくれた。
「あなたみたいな男の人って存在するのですね」
「息してますから。ここにいますね」
「――はい。できました」
「ありがとうございます」
玄関の方から音が聞こえてきたので、どうやら碧が帰宅したらしい。音葉に目配せをすると共にリビングへと向かった。
「訂正させてもらってもいいですか?」
「はい? よく分かりませんがどうぞ」
「私、あなたのことはそれほど嫌いではないです。好きでもないですけど。普通ぐらいでしょうか」
「俺はどちらかというと嫌いですけどね」
真顔で即答する凪を見て、音葉は一瞬びっくりしたもののすぐに笑顔になった。
「ふふっ。月島くんはガサツで下心が見える男の人達とは少し違うんですね。ですからそれほど嫌悪感は無いんです」
「そうやって上辺だけ見て判断するからあんな風に拉致されるんですよ」
「なかなか痛いところを突いてきますね」
「はい。割と得意な攻撃です」
音葉の態度は少しだけ軟化したものの、まだ一線を引いたような見えない壁がある。男というだけで警戒しているのかもしれないが、それも凪にとってはどうでもいいことだ。
そういう意味では音葉はある程度、凪への警戒を緩めたのは間違っていない。
――誰を好きになって、誰と付き合おうが俺には関係ないよ。
少しでも気があればチクりと胸が痛んだりするのだろうか。クラスの有象無象がそんな会話をしていたが、下手をすると一生縁がない感情かもしれない。
それで何が困る訳でもないのだが――。
「水瀬さんに見合う男が見つかるといいですね」
「余計なお世話です。それと敬語はいりませんよ? 私はこれが素なので問題ありませんが」
「分かった。じゃあこんな感じでいい?」
「順応早すぎてちょっと引きます」
言葉はキツいがトゲは無い。水瀬音葉という人物が皆から好かれる理由が、ほんの少しだけ分かった気がした。