11 お出かけの朝
いつも読んでいただきありがとうございます!
憂鬱な朝がやってきてしまった。
朝食を終えると洗面所で歯磨きしながら鏡を眺める。
映った姿はなかなか酷いものだった。昨日はいつにも増して眠れなかったので、目の下のクマが濃い。
もっとも、クマに関しては今回のせいだけではないのだが。
(……寝たいよぉ。せっかくの土日、怠惰な生活が)
重たい足を気合いで動かして自室に戻ると、流れるような所作でジャージを装備する。
(はっ、だめだこれは。殺される)
気の利いた服など持っていないが、それでもジャージは駄目だと本能が告げてくる。
急いでクローゼットを確認したが、そもそも選択肢が無いことに気付く。
――やばい。
頭の中に絶望の三文字が浮かび上がった。
上下のスウェット、いつ買ったか忘れたデニム、そしてジャージ、ジャージ、ジャージ。
愛葉との偽デートのために音葉との仮デート、その仮デートの準備をする猶予さえなかった。凪はもう詰んでいる。
「これしかない」
意を決して着替えたのは制服、学生なのだからこれは間違っていない。というか、これしかない。
――そろそろ時間だ。
昨日逃げてきた部屋へと向かうが、途中の廊下で碧が壁にもたれてスマホを眺めていた。
凪の姿に気付くと軽く手を上げて挨拶してきた。そして不思議そうに首を傾げている。
「今日学校行くのか?」
「学校より酷いところに行くよ」
「なんだそりゃ」
「知ってるか碧。“デート“の語源は古代ローマまで遡る。日付けの指示でつまりは“会う予定の日”だ。これは英語圏では社会の中でも使われる。例えば――」
いつものことのように碧は聞き流しながらスマホを見ていた。
「つまりだ。水瀬と遊びに行くけど服が無いから制服ってことな?」
「遊び? その遊びっていうのは残虐性のあるものか?」
「だめだこいつ」
碧は凪の背中をぽんぽんと叩くと「大丈夫だ凪」と背中を押してきた。
大丈夫というのは「もう諦めろ」との意味だろうか、あるいは「手遅れだ」だろうか。
凪はふらふらしながら歩き、ついには音葉の部屋の前に着いてしまう。
トントントンと三回ドアをノックした。
少しするとゆっくりとドアが開いた。そして現れた音葉の姿を見て言葉を失ってしまう。
「おはようございます。約束通りですね、偉いですよ」
「……」
「月島さん?」
「あ、いや――」
無造作ヘアー、と言えばいいのだろうか。全体的にふわふわで所々外ハネしている。普段の水瀬とは明らかに違うので意図的に作られた髪型なのだろう。
薄らと化粧もしているのか、肌の透明感もより一層際立っている。唇も僅かに色付いているので何か塗っているようにも見えた。
そして全体的に自然だった。もともと化粧など必要ない顔立ちなので、このぐらい薄めの方が音葉には似合っていると思う。
子供のような可愛らしさがあり、艶やかな美しさもある。そしてその端正な立ち振る舞いは″水瀬音葉″という人間の内面が良く表れていた。
(神の子ってあだ名つけたら怒られるかな)
「どうしたのですか、ぼーっとして」
「男共が夢中になる訳だなぁって実感してるところ」
「そうですか? 目の前の男性はそうでもないように見えますが」
「なんか凄すぎて″無″になるよね。俺と同じヒト科なのか疑わしくなってきた」
「返答に困るのですが」
難しい顔をしていた音葉だったが、凪の手を取るとそのまま室内に連れていき鏡の前に座らせた。
鏡越しに目が合うと音葉は柔らかに微笑む。なぜか直視できずに凪は目を逸らした。
背後に立った音葉は凪の髪に触れると、櫛を使いながらゆっくり梳いていく。だいぶ伸びた前髪は、きちんと整えると目を完全に覆ってしまった。
「柔らかい髪なのですね。本当は切った方が良いのでのしょうが、それだと月島さんではなくなってしまいそうです」
「髪が本体みたいに言わないで」
「では、早めに終わらせてしまいましょう」
音葉はワックスを指で掬って掌に乗せ、両手で良く伸ばしてから凪の髪をわちゃわちゃと触り始めた。
「男性の髪を触るのも初めてですし、こうしてセットするのも初めてです。失敗したらごめんなさい」
「参考文献は?」
「ネットが八割、雑誌が二割です」
「ふむ」
失敗しても洗い流せばいいだけなので問題ない。というより延々と失敗を続けてほしい、なんなら時間切れまで粘ってくれてもいい。
「で、片方は耳の上にかけてしまいましょう」
「すーすーする」
「我慢してください。で、最後に軽くスプレーでーー」
セットを終えるとまた鏡越しに目が合うが、音葉は口を開けたまま唖然としていた。そんなに驚くほど酷い出来栄えなのだろうか。
「水瀬さん?」
「……あ。すみません。あまりに変わってしまったので驚いて」
「ん? 一回洗い流してくる?」
「いえ、大丈夫です。これでいきましょう」
鏡越しに自分の姿を見るが、どうにもその良さは理解できなかった。そんなことより死んだ目をしていることに自嘲する。
(相変わらず酷い目してるよおまえ)
椅子から立ち上がると隣に立っている音葉を見下ろした。
「本当に凄いです。地毛が明るめですので、セットするだけで変わるとは思っていましたが。まさかこんなにーー」
「水瀬さんに褒めてもらえば大丈夫そうだね。あ、それと服なんだけど」
「ジャージばかりで着るものがないのでしょう?」
「よくご存知で」
音葉の格好は、ミントグリーンのフレアスカートにストライプのブラウス。胸元が少し開きすぎている気もするが下品な印象は受けない。
凪でも理解できるほどに、今日の音葉はやる気で満ちている。
改めて音葉の全身を確認すると、やはり″神の子″だった。
(これの隣歩くの? 無理でしょ。罰ゲーム?)
「どうかしました? 時間も無くなってしまうのでもう行きましょう」
「持病の腹痛がーー。今日はやめよう。そうだ、別に愛葉さんは制服でもいいと思う。うん」
「とりあえず少し長めに電車に乗りましょう。なるべく知り合いがいない方がいいのですよね?」
「……はい」
もう諦めるしかないようだ。
せめて誰にも会わないことを祈りながら、音葉と共にアザミ荘を出た。
◇ ◇ ◇
電車に乗っている間、基本的なことを教わっていく。
まずは名前の呼び方だ。
苗字に″さん″付けなど論外らしく、下の名を呼び捨てするように指導された。
今回は彼氏役なので、できるだけ親しげに。愛葉が許すなら手を握るぐらいはしてもいいらしい。
まぁ、凪から手を繋ぐなどあり得ない話ではあるが。
「ーーという感じでどうでしょう? 常に愛葉さんを気遣っていればボロは出にくいと思います」
「一番難しいことをさらっと要求するよね」
「せっかくなので私と練習しましょうか。呼び捨てで呼んでみてください」
「音葉」
名を呼び捨てぐらいなら余裕だ。
音葉はなぜか目線をきょろきょろさせて慌て始めた。どうやら自分から言わせておいて照れているらしい。
こんな姿はレアなのでその隙は見逃さない。
凪は隣に座る音葉と正面から向き合い、両肩を掴んでじっと見つめる。真剣に見つめる。
「音葉」
「え、あ、あの……」
「音葉」
「だから、そのーー」
「音葉!」
「遊ばないでください! 失礼な人ですね!」
思った以上に怒られてしまった。
そして、そんな二人のやり取りを他の乗客はしっかり見ていたらしい。
今日の二人は恋人同士という設定だが、周囲の反応から察するにそれなりにらしく見えているようだ。
「いいなぁ、あんな可愛い彼女」
「おまえだと一生無理だって」
「そんなのおまえもだろ!」
ヒソヒソ話しているつもりなのだろうが、車内に人はまばらできっちりと聞こえてくる。
「ーーだってさ。音葉は可愛いから俺は幸せ者らしいよ」
「月島さんは順応早いですよね」
「せっかく練習するなら、少しだけ真面目にやってみようかと」
「それは良い心がけですね凪くん」
音葉はじっとこちらの様子を観察していた。どうやら仕返しを狙ったようだが、残念ながら凪にダメージは無い。
動じない凪に納得できなかったのか、不満げな表情で肩のあたりを何度か叩いてくる。
ーーなにこの可愛い生き物。
普段の端正なイメージからは考えられない行動だったので、さすがの凪も素直に可愛いと思ってしまった。
「なぜ笑っているんですか!?」
「いや、可愛いなーって」
「……へ」
からかい過ぎた凪が全面的に悪いのだが、このあと音葉の機嫌が回復するまでかなり苦労した。