10 二人だけの勉強会
色々あった一週間だったがようやく金曜日の夜だ。
″花金″という言葉が死語となり、現代人としては自宅で好きな時間を過ごす者も多いだろう。
凪もまた筋金入りのインドア派だ。このまま成長すると社会に出てから困るかもしれないが、アザミ荘の住人であればそこは問題ない。
団体生活というのはある意味社会の縮図で、良くも悪くも人と接して適応能力を磨いていくのだ。アザミ荘では様々なことが起こるので経験を積むにはもってこいだろう。
だとしてもだ。これはさすがにやりすぎだと思う。
「あおくんかまってよぉ」
「うるせぇ酔っ払い!!」
「俺部屋に戻っていい?」
「それだと私が困りますので我慢してください」
食堂には珍しく人が多く、ちょっとした祭のように盛り上がっていた。
凪達は角のテーブルを使って勉強していたのだが、度々酔っ払いが絡んでくるのでなかなか捗らない。
あまりに鬱陶しいので自室に戻ろうとしても、音葉がそれを許さないのでどうしようもなくなってしまった。
「音葉ちゃーん! 彼氏いるのー?」
「いえ」
「じゃあ俺なんかどう? なんでも買ってあげるよ?」
「品性は買えませんよ」
「やめとけって」
プチ爆発気味の音葉をなだめつつ、どうしたもんかと頭を悩ませてみるが良い案は浮かばない。
いっそ外でやった方がまだマシだ。
(ん、そっか。簡単なことじゃん)
ようは凪と音葉が一緒であればいいのだ。今日は碧もいるので三人だが。
「ねぇ、俺の部屋でやれば?」
「え? それはーー」
「おー!! いいじゃねえか! こんなうるさいところでやってらんねーよな!」
「凪くんの部屋? わたしも行く〜」
リビングでもいいと思ったが、残念ながら今日はそこも社畜集団に占領されている。
だから選択肢としては凪か碧の部屋なのだが、碧の部屋は魔窟になっているので実質の選択肢はひとつだった。
テーブルは小さめだが、スペースは音葉と碧の二人分あれば足りる。凪は何かを書く必要がないので近くに座っているだけでいいだろう。玲那が付いてくるのはよく分からない。
「ん? 水瀬? ……あー、なるほどな」
碧は教科書等を纏めると、隣に座る玲那の腕を引きながら立ち上がった。
「俺はもう勉強はいいや。これだけやっとけば余裕だろ。って訳でちょっとぶらぶらしてくるから、こいつ貰っていくわ」
「あおくん強引だよねぇ。もちろんおっけ〜」
「なんだよ急だな」
「おまえらはしっかり勉強しろよ?」
碧は去り際に音葉に何か言っていたようだが、周囲の雑音が酷すぎて内容は分からない。
音葉が「違いますよ!」と慌てるのを見て碧は満足そうにしていた。
「そろそろ行く? 早くしないと時間が無くなるし」
「えっと、では……はい」
アザミ荘では男女の部屋の行き来を制限していない。ただし、何か苦情があったり問題が起きたら即退寮となる。
男女交際をするとしても清く正しく。間違っても半同棲のような生活は認められないし、そのあたりは咲が常に目を光らせていた。
大人の付き合いもあるかもしれないが、それも周囲に迷惑が掛からないように気遣うことーー。これは暗黙の了解だろう。
妙に大人しい音葉を連れて自分の部屋に戻る。
「どうぞ」
「あのーー」
「どうかした?」
不思議そうにしている凪を見て音葉は少し呆れたように息を吐く。そして少し困ったように微笑んでいた。
「本当にもう。私が馬鹿みたいじゃないですか」
「少なくとも現時点で俺より馬鹿だからこうして指導を受けている。違う?」
「そうでした。あなたはそういう人でした」
何か吹っ切れたように「お邪魔します」と音葉は部屋に入るが、目の前に広がる光景に絶句する。
凪があまりに堂々としていたので部屋は綺麗にしていると思ったらしい。音葉の期待はあっさりと裏切られてしまった。
その場に立ち尽くす音葉の横を、さぞ当たり前のように通り過ぎるとテーブルの前に座る。
「どしたの? 座ったら?」
「仮にも女性を招いた部屋でしょう。なぜ月島さんはそのように堂々としているのですか?」
「え? でも碧の部屋だと散らかってるし」
「八神さんはこれよりも酷いと? ……頭が痛くなってきました」
しばらく言葉を失っていた音葉だが「仕方ないか」とぶつぶつ呟いている。
服は散乱し、至るところに雑誌が積んである。ベッドの上には脱ぎ散らかした制服があり、衣装ケースは無理矢理詰め込んだ衣服やらタオルでパンパンだ。
幸いにも食品類が無いので異臭等はない。
「ほら、座れば?」
「どこに座れと? ……もう結構です」
「そう? じゃあ今日は終わりだね」
「月島さんと交際するであろう人に同情します」
「それは大丈夫かな。そんな人いないだろうし」
「とにかく。ここでは無理です。……非常に不本意ではありますが、私の部屋でどうでしょう?」
意外な提案に少し驚いた。
大概の男子であれば、このような僥倖には邪な気持ちを持って飛び付くだろう。なにせ相手はただの女子ではなく高嶺の花のような存在だからだ。健全な男ならば意識するのが普通なのかもしれない。
だが、凪の考えは違う。
初めて入る異性の部屋。湧き出る感情は恋愛的、あるいは性的なそれではなく純粋な好奇心だった。
「いいの?」
「月島さんは害が無いようですし」
二人は早速、音葉の部屋に向かった。
部屋の前で少し恥じらう音葉は「汚いですけど」とドアを開ける。
男の部屋ではあり得ない良い匂いがする。バニラのような少し甘い香りは、音葉に近寄った時のものと一緒だった。
「どうぞ」
ちなみに机は凪の部屋のものを持ってきた。折りたたみタイプなので持ち運びは楽だ。
まだ引越ししたばかりのためか、部屋の隅にはいくつかダンボール箱があったものの、物はきちんと整理されていて音葉の几帳面さが伝わってきた。
持っていた机を部屋の中央で広げると、音葉は一応テーブルの上を少し拭いている。
「お茶でよろしいですか?」
「え? あるの?」
よく見ると、割とスリムなタイプの冷蔵庫がある。同じ構造の部屋でも凪のそれとは別世界のようだった。
「冷蔵庫かぁ」
「土日は自分で食事を用意しなくてはいけませんし」
土日の食事は希望制の配達弁当だ。咲の休日も兼ねているので誰も文句は言わないし、調理場は開放しているので自炊することもできる。
凪は言うまでもなく弁当派だった。
音葉は、水色のグラデーション模様のコップにお茶を注ぐと、それぞれのコースターを用意してその上に置いた。
「これはどうもご丁寧に」
「なぜか馬鹿にされている気分になりますね」
「さっき「品性は買えない」って言ってたから、割と感心してるよ」
「ありがとうございます」
音葉は背筋を伸ばした綺麗な正座をしている。普段は胡座で座っている凪も、その凛とした雰囲気に圧されたように目の前に正座した。
音葉はそんな凪を見てくすくすと笑う。
「足を崩してもいいんですよ? 慣れていないようですし」
「バレた?」
「バレバレです」
「正座きっつ」と足を崩して伸ばす。音葉はシュシュで軽く髪を纏めると早速教科書を広げていた。
「あの、早速で申し訳ないのですがこの問題はーー」
「ん? えーと、ちょっと待って思い出す。……そっちの参考書の127Pだったかな。確認してみて」
「……相変わらずの理不尽な頭脳で。もう嫉妬する気さえ起きません」
そこからは、黙々と勉強する音葉が時折質問して凪はそれに答える。そんな作業を一時間半続けた。
来週の月曜からテストは始まるので音葉の気合いも違う。本気で首位を取りにいく熱を感じた。
凪も今回は珍しくやる気に満ちている。その方向性はかなり間違ってはいるがーー。
「そんなに頑張らなくても一位取れるよ多分」
「いえ、まったく勝てる気がしません」
「え? 誰かと競ってるの?」
「あなたですよ、あなた! そうですか、眼中にないということですか」
「いや、ちょっと待った。違うって!」
物凄い勘違いをしている音葉に説明する。
かなり不満そうだったがそれでも凪自身が決めた目標だ。結局は渋々ながら納得してくれた。
「月島さんと話すと疲れますね。……でも、その目標は自信を持って取捨選択できるからこそなのでしょうね」
「ご期待に添えるよう頑張ります」
「期待していませんけど頑張ってください」
実際、一位を争って音葉とギスギスするよりはずっといいと思った。仮に凪が首位でも文句は言わないだろうが、きっと心の中にわだかまりができるはずだ。
こうして澄ましていても、音葉は割と負けず嫌いだと知っている。
(俺はテストよりも面倒な問題抱えてるしなぁ。ほんとどうしよう偽デート)
できれば考えたくないがリミットは刻々と近付いており、明日、明後日の二日でなんとかしなくてはならない。
ーーいっそ仮病で欠席するか。
「約束したのですからそれは失礼ですよ?」
無意識に声に出ていたらしい。
「俺にとってはテスト勉強より憂鬱だよ」
「あなたは憂鬱になるほど苦労しないでしょう?」
「あー言えば、こー言う」
「かなり本気で困っているみたいですね。……そうですか。では、準備も兼ねて予行演習したらどうですか? 服装の助言もできますし」
「そんな人いたら困ってないよね」
音葉は自身を指差して微笑んでいた。冗談で言っているようには見えなかったのでどうやら本気らしい。
仮想デートの相手としては申し分ないが、相手が音葉だと色々と問題点も多い。
魅力的な提案ではあるが″なし″だろう。爆発物を持って歩くようなものでリスクが高すぎる。万が一クラスメイトに知られた日にはーー。想像したくもない。
「凄く魅力的な提案だけど、さすがにーー」
「行くなら明日か明後日ですよね。色々買うかもしれませんので予算は多めでお願いします」
「愛葉さんより水瀬さんの方が、万が一見られた時のーー」
「ヘアワックスは私が持っているものを使いましょう。月島さんは髪が長めなので問題ないはずです」
「あ、あの」
凪は顔を引攣らせながら抵抗を試みるも、音葉はまったく聞く耳を持たない。そういえば愛葉にも同じように押し切られたことを思い出す。
しかし、愛葉と音葉とでは根本からまったく違うので、同じように決められてしまっても困る。
(負けるな俺! これは今後の学生生活に関わることだ!)
「今回は碧に頼むからだいじょーー」
「愛葉さんにはこのように半ば強制的に決められていましたよね? では、私が同じことをしても問題ありませんよね? まだなにか言いたいことはありますか?」
「えっと、さすがに愛葉さんと水瀬さんだとランクが違うというかーー」
「明日は朝食の後に私の部屋に来てください。いいですね?」
「……はい」
(怖いよう。なんだよこの迫力。ていうか、ムキになって後に退けなくなってるだけじゃん)
凪はびくびくしながら立ち上がると音葉の様子を窺いながら後退する。
震える声で「おやすみ」と告げてから逃げるように退室した。
「怖いよう」
「あれ〜? 凪くんだ〜。震えてるけど、どうしたのぉ? ……よしよし」
廊下で会った玲那に慰めてもらいながら自室に戻った。
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