時の間の番人
記憶を失った心優しい少年が、不思議な世界で冒険するお話。
人と出逢い、ぬくもりに触れて、少年は何を想うのか。懐かしい音に耳を澄ませ、花の声を聴き、風を感じ、歌を歌い、空を見上げる。その瞳に浮かぶ色は、どこか寂しげで。
少年はなぜ、記憶を失ったのか。
記憶のカケラを探して、少年は駆ける。
ちょっぴり不思議な、心暖まるファンタジー。
チクタクチクタクチクタクチクタク
時計の音が狂ったように響き渡る部屋に、一人の少年が立ち尽くしていた。
少年の足元にはふかふかとした真っ赤な絨毯が敷かれており、天井に伸びる六本の柱には繊細な彫刻があしらわれている。
天井にあたる空間には歯車が幾重にも重なっていて、その奥に、巨大な振り子時計が浮いているのが見える。
そして、周りに、大小さまざまな、ありとあらゆる形をした時計がいくつもいくつも浮かんでいた。まるで時計自身が意思を持っているかのように、速さも向きも長針も短針もてんでバラバラに動いている。
あちらで鳩時計が慌ただしく鳴き声をあげたと思えば、やれそちらでは振り時計が厳かに時を告げる。すると今度はこちらで小さな人形たちが軽快にマーチを奏でて、さらに奥の方からけたたましいベルの音が響いてくる。
永遠に足並みを揃えることのない時計の針の音が、ただ、こだましていた。
*
急に、どこからか古めかしいレコードの奏でる旋律が聴こえて、少年は小さく息を飲んだ。
部屋の中央に、ぼろぼろのローブをまとった怪しい人影が突然現れる。少年が瞬きした一瞬のうちに、人影は今度は遥か上空にいた。まるで手品だ。
足元の絨毯が、上へと向かう真っ赤な螺旋階段を作り上げる。導かれるように、少年は上へ上へと階段を駆け上がる。あと一歩で頂上というところまで来た途端、少年の視界は暗闇に覆われて、次の瞬間にはあっという間に真っ赤な絨毯の上、最初に立っていた場所にへたり込んでいた。
部屋の奥に先ほどの人影が見える。腰を曲げて老人のように見えるその人影は、片足を引きずるようにしながら、杖をついてゆっくり少年の方へ足を進めた。少年の目の前までたどり着くと、ローブをはらりと脱ぎ捨てる。
目の前に広がる光景に、少年は、目を奪われた。
老人ではない。まるで人形のように美しい青年が、片足で自らを支えながら、優雅にお辞儀をする。
上質そうな生地の真っ黒のタキシードに、[[rb:青褐色 > あおかちいろ]]の宝石のついた紐ネクタイ。隙なく磨かれた黒い革靴。絹糸のような金色の髪に、陶器のような白い肌に埋め込まれた、形の異なる深い青と紫の瞳。
形の良い唇に、意味深な笑みを浮かべる。
「久しぶりに人が来たな、あんたは、哀れな迷い羊か?・・・・・おや?君は望みを持ってきた、お客様、なのだね。」
途中から声色と表情が柔らかなものに変化した。低く甘い声に酔いそうになって、少年はあわてて両手で頬を叩く。
「おやおや、叩いたりしたら駄目だよ。ここは夢の中じゃないんだから。」
青年は少年の頬を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。今ここは、お客様だけの秘密の時間さ。だけど他の世界の時間にもなるし、朝にも夢にも、もちろん、あちら側の時間にだってなる。ここは不思議な時の間。私だって、ただの時の番人、操り人形なのかもしれないね。」
内緒話をするようにそう囁く。
彼の言葉に合わせて、歯車から覗く深い闇が、茜色になったり、朝日のように差し込んだり、きらきらと幻想的に色を変えた。
それから、青年はまるで歌うように言葉を紡ぐ。
歌に合わせて、青年は次々と手品を披露していく。手のひらに息を吹きかけると鳩が飛んでいき、杖の先からはカラフルなフラッグが。少年がトランプカードを一枚引くと、すぐにカードの柄を導き出す。ウインクするとシルクハットが現れて、うさぎが飛び出し踊りだす。指を鳴らせば全て消えて元どおり。
「あなたの望みは望めば叶う?いらない記憶があるならばぜ〜んぶ食べてあげましょう。悲しみ、痛み、憎しみ、苦しみ、怒り、嗚呼、なんて可哀想。綺麗に食べてあげましょう。スパイスたくさんふりかけて。望みは望みは叶ったの?なにもなんにもなくなって。なんにもなんにもなんにもないないないないないないないないないないないないないないないないあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
青年の声にかぶさるようにいろんな人の声が混ざりあい、美しいハーモニーを奏でたかと思うと、少しずつ音程が狂い出し、最後にはめちゃくちゃに喚き散らす声だけが響き渡る。
青年は眉をピクリと動かすと、杖をコツリと床にぶつけた。
瞬間、悪夢のような喧騒が嘘のように静まり返り、たった一つの時計の音だけが響く。
*
いつの間にか現れた豪華なソファに腰をおろし、腕を使って器用に足を組むと、青年はじっと少年を見つめた。
「あははっそんなこわばった顔しないでよ!ほら、見てごらん!」
青年は朗らかに笑うと、片手を開いて軽く息を吹く。美しい青い蝶が現れ、夢のように消えた。
少年は魅せられたようにパチパチと瞬きをくりかえすと、ふらふらと、これまた突然現れた豪奢なソファに身を預ける。
「改めまして、お見知り置きを、ちいさなお客様。私は記憶屋。美味しい記憶をいただくのを生業としております。
私は人間の、哀しい記憶や苦しい記憶、嫌ぁ〜な記憶が大好物なもので。ただ、美味しいだけだと面白みにかけるので、スパイスをたくさんかけて食べるのですよ。
つまり、お客様が空っぽになるまで記憶を全ていただいてよろしいのなら、契約成立といたします。」
青年は今までと打って変わってかしこまった声で説明すると、”ポケットから”ティーカップを取り出し、紅茶を飲んで、少年の返事を待つ。
青年がすすめる紅茶を丁重に断ると、少年はしばしの沈黙の後、覚悟を決めたようにソファから立ち上がる。
「はい。お願いします。」
まっすぐに青年を見つめてそう告げた。
青年の雰囲気がふっと変わる。
「なあ、本当に、それが正しいことだと思っているのか?それが、“あの子”のためになると?本気で?あんたの記憶を全部消すってことだぞ。二度と元には戻らない。」
少年の耳元に低く、囁く。念を押すように。確かめるように。
ふいに少年が可笑しな質問をする。
「あなたの名前が、知りたいです。教えてくれませんか?」
青年は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻して呟いた。最後の方は、吐き捨てるように。
「っ、、私は、ただの、"記憶屋さん"ですよ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。」
「・・・・・記憶屋さん。お願いです。僕の記憶を、消してください。」
少年の意見は変わらない。青年をただまっすぐに見つめ、彼は真摯にそう願う。
青年は諦めたように小さくため息をついた。そして、片足をかばうように立ち上がると、少年の額に、杖を向けた。
ふと、少年の体が、魂を失った人形のように崩れ落ちる。
「っ!?」
次の瞬間。
先程まで一つだけ残してどこかに消えていた部屋中の時計が現れ、それぞれの針が恐ろしいスピードで回り出す。ひっきりなしに鳩が鳴き、小鳥が歌い、ちいさな音楽隊は回り続ける。時計という時計があちこち動き回り、ぶつかり合い、耳障りな音を立て続けた。