30、幸せになりたい
※ソフィア視点
課外授業当日になった。先生の注意を聞いてから私たちはペアに分かれて散策を開始した。
私のペアはアイリス様。
とくに話しかけることも話しかけられることもなく淡々と薬草を採集していった。それもそのはず。先日あんな醜態を晒しておいて、どんな会話をすれば良いのか分からない。アイリス様は普段通りにしていらっしゃるけど、こちらとしては何を言われるか気が気じゃない。
どうしていじめられていたのか、とか、なんで抵抗しなかったか、とか。何を聞かれたとしても答えを持ち合わせていないから。
そう思いながら心の奥底ではこのままじゃダメだとちっぽけな感情がついに産声をあげた。
「…アイリス様は…なぜ私に構うのですか?」
勇気を振り絞って出た言葉がこれ。本当に自分にうんざりする。
違う、こんなことが言いたいんじゃないのに。
一度あふれた感情は歯止めが効かずにどんどんと湧き出てきた。
私の口から発する言葉は全て鋭いナイフのようだ。自身を守るためには、人を傷つけることをも厭わない。そんなナイフを沢山投げつけた相手は、怯むこともせずに堂々と近づいてくる。これ以上はだめ、来ないでと防御しようにも、意志の強い瞳で射抜かれると心が震えた。
「貴女、私と取引しない?」
不意に告げられたその一言で、私の思考は停止を余儀なくされた。何を言っているのだろうか。
「そうよ。取引。貴女はこれから私の傍にいるといいわ。そうしたら貴女を悲しませる全ての要因を私が取り除いてあげる。どうかしら。悪い話じゃないと思うけど」
こんなつまらない女に、どうして手を差し伸べるのだろう。理解出来ない。しかしその言葉が私の心に一筋の光をさしたのもまた事実で。私の心は、使い終わりの絵筆を洗った色水のようにごちゃ混ぜになった。彼女の本音が見えなくて、確かめたくて、彼女の瞳をぼんやりと見つめ返す。その瞳には、元来の闇色以上に深い激情が燃えているような気がした。それは私が抱えているものに近しい何か。そのまま吸い込まれてしまいそうでたまらなくなり、視線を外した。
彼女の言葉は私にとって都合が良すぎる甘言だ。危険すぎる、でも目が離せないような艶やかな誘惑。頭ではわかっていても、体が言うことを聞かないような。気づいた時には目の前に差し出された細くて美しい手を取っていた。
「取引、成立ね。」
重ねた手を、まるで逃さないとでもいうかのように力強く引かれた。一度そらしたはずの瞳を強引に合わせてくる。恐ろしく美しいそれに思わず見惚れ、言葉が出ない。まるで私の心を見透かしているみたいだ。そこには何の感情も持てなくなったマリオネットが映っている。
「もう大丈夫よ。私がいるから」
それを聞いた途端、安堵したのだろうか急に視界がぼやけた。
….ああ、もう一人じゃない。我慢しなくていい。
たったそれだけのことが私の押さえつけていた感情の蓋を外す。涙を流したのは何年振りだろうか、母が亡くなって以来流すことはなかったのに。そうして私は雨が降っていたことに気づく。寒くて体が震えるけれど、それ以上に私を抱きしめる温もりによって体の奥はとても熱かった。彼女の体温を感じながら、私はこんな日が来ることをずっと待ちつづけていたのだと感じた。空虚な日々を過ごしながらも、奥底では誰かに救われたがっていたのだ。
ふいにあの日の出来事がフラッシュバックした。
「幸せになってね」
今まで呪いのように感じてきたその言葉の真意が今ならわかる。あれは呪いではなく母からの祝福であったと。むしろ今までどうしてそう受け取れなかったのだろう。ずっと私の幸せを願い続けてくれた私の一番大切な家族へ心からの愛を込めて。
(お母さん、ありがとう。…私、幸せになるよ、絶対)
一人では頑張れないことも彼女となら、きっと。




