03、アイリス・アルベルン
ここから日常パートが始まります。
心地よい風がサラサラと私の前髪をさらってゆく。前髪をなでつけるように手で触れ、太陽の眩しさに目を細める。そんなのどかな時間の終わりを告げるように、私の名前が呼ばれた。
「アイリス様ー!!どこにいらっしゃるのですかー!!もうすぐ勉学の時間ですよー!」
「お嬢ー!どこだーっ!ったく!毎度毎度どこへ出かけてるんだか。怒られても知らないぞー」
もう、そんな大きい声を出さなくても聞こえてるんだから。まだ時間まで10分もあるのよ?あと少しくらい待ってくれてもいいのに。
<アイリス。みんな呼んでるよ?行かなくてもいいの?>
「いいに決まってるじゃない。まだ遅れたわけではないでしょう?それにこの秘密基地を教えてくれたのはライファでしょ」
<うーん。それはそうなんだけどねー。まあ、怒られるのはアイリスだし?僕は全然構わないけど。でもそろそろ来る頃…>
「こーらー!アイリスちゃんったら。またどこかに消えて!大人しく出てきなさい!!」
若干の怒気を孕んだ大人の女性の声がした。足音がどんどん近づいてくる。私は思わず、といった様子で声を出した。
「あ、まずい、」
その声が届いたのだろうか、女性は庭に植えてある大木の上を見上げた。
「そこね?」
女性が手をかざすと木の上に突然少女の姿が現れ強い風吹き、その体が宙に舞った。
<ほら、言わんこっちゃない>
「そう言わずに助けてー!死んじゃうっ」
<アイリスなら死なないと思うけど、ねっ!>
アイリスと呼ばれた少女が地面に落ちるギリギリで風が彼女の体勢を整え、静かに着地させた。少女はムッとした表情で開口一番に女性へと不満をぶつけた。
「お母様ったら!危ないじゃない!」
「それはこちらのセリフよ?また木に登って。ケガしたらどうするの」
「私はそんなドジしないもん!それにこの子がいるし」
そう言いながら私は自分の左肩に座る小さな少年の頭をなでた。その少年は嬉しそうに私の手に頬を寄せてくる。
「なんでもかんでも精霊に頼っちゃいけません!ライファもアイリスちゃんを甘やかしちゃダメよ」
<はーい。…アイリスのせいで僕まで怒られたじゃないか>
悪態をつくライファをわざと無視し、お母様の指示に従っておとなしく屋敷へ入った。まだあと十分は時間があったのに。胸中で文句を垂れながら自室へと向かうことは、もうすっかり私の日常になってしまっている。
部屋に戻る途中、ひそひそ話をするメイド達の声に何となく耳を傾けた。
「アイリス様も随分表情豊かになったわね」
「そうね、このお屋敷に来た時はとても静かだったもの。活発になられたというかなんというか、とにかくお変わりになられたことは間違いないわ」
(ああ、またその話か…)
そっと溜息をついて道中を急いだ。
私の名前はアイリス・アルベルン、15歳。アルベルン伯爵家の長女だ。といっても私は二人の実の子供ではなく、養子である。お母様の体はある時、魔獣の討伐の際に負わされたケガの場所が悪く、子供が産めない体になってしまったらしい。そんな時、森で倒れている私を見つけ、拾ってくれた。それからいろいろあって私はそのままアルベルン家の養子になった。
さっきのメイド達の話に心当たりがないのは仕方ないと思う。それもそのはず、私はなぜか二回も記憶をなくしているのだ。
私のなくした一つ目の記憶は伯爵夫妻に拾われる前のこと。つまり、この世界に来るよりも前のことだ。
お父様が言うには、私に記憶を封じ込めてしまう程のショックな出来事があり、私がそれを思い出すことを拒んでいる、とのことだ。思い出せなくても別に生活に支障はないし、私が思い出したくないのなら、よほど嫌な出来事だったのだろう。
そして失われた記憶の二つ目、それは精霊ライファと契約する以前の生活についてのこと。
お父様とお母様の名前や拾ってもらったことなどは忘れていなかったが、自分が何をしてどう過ごしてきたのか、自分が体験したこと全てがわからなくなっていた。
私がこの世界に来たのは9歳で、ライファと契約したのが12歳だから、3年分の記憶ということになる。
そもそもどうやってライファと契約したのかも分からないぐらいだ。そのことをライファに聞いても、いつもはぐらかされてしまう。
そうそう、精霊との契約には代償がいるらしい。小さな微精霊なら小さな代償、ライファのような人型をとる大きな精霊なら大きな代償、といった具合だ。代償は精霊によって異なり、その重さはその精霊の匙加減によって決まる。
私も代償をいつのまにか払ったらしいが、覚えていないし体に何も影響がないのでよしとしている。
ライファと契約して家に帰った日、珍しく私はお父様に怒られた。
「アイリスっ!精霊と安易に関わったらダメだっ!万が一契約をしてしまったらどうなるか、知っているのかい?微精霊ぐらいならまだいいが、その子は人型の大精霊だ。契約代償に寿命の半分をとられることもあるんだ。僕が言っている意味、分かるだろう?」
その言葉を聞いて私が震え上がったのは言うまでもない。知らなかったとはいえ、なんてことをしてしまったのか。でも、当の精霊は何でもないような顔をして爆弾発言をした。
<もう、ほんと失礼だなー。僕がそんなそんなことするわけないでしょ。僕はアイリスのこと、すごく気に入ってるし、ただでさえ短いヒトの寿命を縮めないってば。それにちゃんと見合った代償は頂いてるからね。大丈夫、大丈夫!決して君が心配している寿命じゃないから。安心していいよー>
「なんだって!?もう契約を済ませてしまったのか!?いくらなんでも早すぎる。一体どうなっているんだ」
その時はお父様の言っていた意味が分からなかったが、大きくなった今ならよく分かる。一般的に精霊との契約は、ヒトのことを気に入った精霊から持ち掛けられるもので、その精霊と選ばれた人間との相性を確かめるため、一週間ほど一緒に生活する期間がある。
相性といっても様々な要素があり、性格面しかり魔力量しかり、全てがぴったり合わないと人間側の体に支障をきたしてしまう。そのようなお試し期間なしに契約してしまうことは異例中の異例で、お父様が顔を青くするのも無理はない。
そのうえ、精霊との代償は契約した人間とその精霊しか知りえないことであり、契約者の私が覚えていないため、どんな大きい代償を払ったかは他の人は検討もつかないということだ。
そんなこんなでメイド達に明るくなったと言われるようになったのは、ライファから聞いた話だとその事件の後かららしい。正直以前の私がどんな態度で過ごしてきたかはわからないが、昔は昔、今は今だ。あまり気にしても意味がない。
***
「…ということですから、ここの問題はこの公式を使って、…アイリス様。聞いておられますか、アイリス様」
さっきのメイド達の話を思い出し考え事をしていたら、家庭教師のウォーレンさんの冷ややかな視線が向けられていた。
「アイリス様、ちゃんと私の授業を聞いていたんでしょうね」
「や、やだなー、ちゃんと聞いてましたよー?この公式を使うんでしたよね?」
「…その公式は前回の授業で教えた範囲ですが」
と、とても綺麗な微笑を浮かべたウォーレンさんが言った。
これはまずい。
じんわり背筋が寒くなるのを感じた。




