29、全てが初めて
※ソフィア視点
16歳を迎える年になると、貴族の子供たちは学校に通わされる。交流関係を広め、社会的知識を得るために三年間学校に通うことは貴族では当然のことらしい。私も例外ではなく、厄介払いされるようにグレードウォール学園に通わされることになった。
入学式の次の日、人が少ない時間を見計らって食堂に朝食を食べに行く。食堂に足を踏み入るだけでこちらを見て噂話をするような声が聞こえるけど、気にせず黙々と食事をとる。
その時だった。食堂内がわずかに騒がしくなったのを感じた。なんだろう。食事を取る箸を止め、皆の視線の先を目で追う。
異質…。その言葉がぴったりくるほど、この場にそぐわない人物がそこにいた。見たこともない黒髪、見たこともない黒目。それでいてとても美しい。食堂にいた全員の視線を独り占めした彼女は、それに気づいているのかいないのか、終始堂々とした姿勢でカウンターに食事を取りに行き一人静かに着席した。すぐに開始される噂話。それは私同様に、聞いていて気持ち良くないものも混じっていた。
自分のことを言われている訳ではないのになぜだか耐えられなくなって下を向き、急いで食事を終わらせる。席を立ってトレーを返却し、下に向けていた目をふと上げると、ぱちりと彼女と視線が絡み合う。それはほんの数秒の出来事。私は自分から目をそらし真っすぐで陰りのない視線から逃れるようにその場を立ち去った。
数分後、学園に向かい、自分のクラスの確認をする。
私の名前は…あった。αクラスの真ん中あたりに自分の名前を見つけてほっとする。よかった、自分にしては悪くない出来だ。
この学園のクラス発表は独特で、成績順に名前が綴られると聞いたことがある。つまり私はそれなりに出来た方だということ。ついでに一位の子は誰なんだろうか。少し気になって一番初めに書かれている名前を見る。
アイリス・アルベルン…。ああ、噂の。貴族の社交場で一切顔を見せないことで有名な伯爵令嬢。本当に実在したんだな…。などと余計な事を考えるくらいにはクラス発表を見て心の余裕が出来たのだろう。まあ、どうせ関わり合いになることもないから関係ないんだけど。
自己紹介の時、先ほどの食堂の彼女がアイリス・アルベルンだと知った時は素直に驚いた。でも同時に納得出来る部分もあって。あんな好奇の視線にさらされても動じない彼女は只者ではないと思っていたから。
入学してからの私は図書館に入り浸るようになった。本は好きだ。本を読むときだけ私は自由になれる。現実の嫌な事から目を背けて、驚くようなワクワクドキドキの冒険をしたり謎を解いたり、時には甘い恋を主人公の視点を通して疑似体験する。自分が他の何かになれるその瞬間がたまらなく楽しい。
今日もいつものように図書館に行く。お気に入りの場所で一人読書をするのが私の日課になりつつあった。本を読み終えパタンと閉じた直後、聞き覚えのある声をかけられた。
「ごきげんよう、ソフィア様」
そこにいたのは今や学校中の注目の的となっている彼女。どうして、こんなところに…。それに私の名前…。疑問がいくつも浮かんだがそれを後回しにして慌てて挨拶を返す。
「…ア、アイリス様…?…ごきげん、よう…」
それを聞くとアイリス様は目を丸くしてきょとんとした顔をする。
「あの、どうして私の名前を知ってるのかしら」
彼女の名前を知っているのは当たり前だ。彼女の名前は入学する前から知っていたし、入学してからはもっと有名になった。そのずば抜けた学力と、珍しい容姿で。
アイリス様は不思議な方だった。私を見ると軽蔑の目を向ける人達と違い、いたって普通に接してくれるし何より無知だった。学園にいれば噂話の一つや二つ入ってきそうなものだが、自分が有名だということも、その理由さえも知らない。こんなので今までどうやって生きてきたのだろう。
次の日も、そこにアイリス様がいる。どうやらアイリス様は本がお好きらしい。私も大好きだから、今日はいつも以上に口数が多くなってしまった。それに準男爵家に引き取られて以来初めて、対等に人と言葉を交わせた。いつも使っていない声帯を無理やり動かしたせいで、うまくしゃべれなかったけど。
話が終わるとアイリス様は当然のように「また明日」と言う。…それは、また明日もここで会おうっていう意味…?分からなくて顔を上げた時には目の前に誰もいなかった。
次の日、昨日の出来事が頭から離れなくてずっとそのことを考えて過ごした。そうするとあっという間に放課後になってしまう。「また明日」の意味を深く考えないように図書館に向かっている最中、数人の女子生徒に絡まれる。
…ああ、またか。難癖をつけられ髪を引っ張られた。これではまるで屋敷にいた時と同じだ。何も変わっていない。
でも傷つく心を持ち合わせていない私は、ただ黙ってされるがままになる。気が済んだのか女子生徒たちは去って行く。もう昨日の時間を大分過ぎてしまった。絶対にいないと分かっていても図書館に向かう足は止まることがなかった。
「…なんで…」
思わず声が出た。美しい黒髪と大きな黒い瞳の彼女は紛れもなくアイリス様本人で。いるはずがないと思っていた人がそこにいる。それだけでなんだかたまらない気持ちになった。
アイリス様はいつもと変わらずごく普通の挨拶で話しかけてくる。それから一言二言会話をしたような気がするが、実感が沸かず何も覚えていなかった。
…いや、違う。「また明日」と同じ調子で言われたその言葉だけはやけに耳に残った。
それからはほぼ毎日この図書館でアイリス様に会うようになった。読書の合間に話しかけられる言葉に短い相槌を打つだけだったけど、好きな本の話題になるといつもより上手く言葉が出てくるようになった。
それはアイリス様も同じみたい。アイリス様は美しいから、口を閉ざしているだけで妙な威厳があって話しかけにくいけど、本について語っているときだけは自然な笑みがこぼれて女の私でさえ見惚れてしまいそうになる。
そんな日々を過ごしていたある時だ。図書館に向かって歩いていた私を呼び止める声がする。仕方なく立ち止まって振り返ると、嫌な笑みを浮かべた三人の女子生徒に絡まれた。抵抗はするだけ無駄だと分かっていたから大人しくついていく。
人気のない植物園にまで連れてこられ、開口一番に礼儀がなってないだの醜いだの、いろんな罵詈雑言を浴びせられる。彼女たちに罵られても、その言葉を右から左へと受け流し、無表情で耐え続けた。挙句には突き飛ばされたりもしたけど、痛みなどは感じなかった。
私の表情がずっと変わらないのに怒りを覚えたのか、リーダー格らしい女子生徒が手を上げようとした。私は目をつぶることもせず、その様子をじっと眺めた。私の頬にその手が触れる寸前で、彼女の動きが止まる。
私も、彼女たちも状況が飲み込めず、少しの沈黙が流れた。
「皆さま、ごきげんよう。随分と楽しそうなことをなさっているのですね」
ふと気づくと自分の目の前に影が落ち、私を取り囲んでいた女子生徒の姿が眼前から消える。
私を庇うように彼女たちとの間に立ったその後ろ姿はアイリス様だった。だが、先ほど耳に捕らえた声を私はアイリス様と結びつけられなかった。
いつも図書館で私に笑いかけてくれる優しい声の面影がない。丁寧な言葉遣いで冷たく、抑揚のない声。
慌てて言い訳する彼女たちを正論で追いつめ、残されたのは私とアイリス様の二人だけ。
「ソフィア様、ケガはない?」
真っ先に私の心配をしてくれるアイリス様。
…初めて、だった。誰かにこうして庇われることは。誰に助けを求めても、皆見ないふりをして向こう側につく。そして遠くで口元を隠しながら笑っているだけ。
誰かに心配をされたのは二度目だ。もう亡くなってしまったお母さん以来。闇色の瞳はただ私だけを映している。嫌悪の欠片も見えず、心配の色だけが浮かぶそれを何となく見つめ返す。そこには地べたにみっともなく座り込む、情けない顔の私が映っていた。
新生活でバタバタしてるのでもうしばらく投稿が遅くなってしまいそうです。ご了承ください。




