02、戸惑い
「……」
(私の名前…?私の名前は…あれ?なんだっけ。よく思い出せない)
名前どころか、私はどこの誰なのか、それさえも分からない。唯一覚えていることといえば、私は確か自殺をしようとしたこと、その瞬間体が光に包まれて気づいたら見知らぬ土地にいたことだけだ。
(それに多分ここは絶対日本じゃないよね。日本では、黒髪黒目が基本だったし、あんなひらひらした服を着ていなかった。だとしたら、ここは?)
そんな私の態度にしびれを切らしたのか、シード、と名乗った男性が再び尋ねる。
「お嬢さんの名前を教えてくれないかい?」
そんなこと私が一番知りたいくらいだ。
「…分か、らない。……分からない……。何も……」
「なんだって!?それは大変だ!記憶が混乱しているのか?君が倒れていた時も聞いたんだけど、はっきり聞き取れなくて。あいり、いや、アイリス?みたい名前だったと思うんだ。この名前に聞き覚えは?」
静かに首を振り、考える。アイリスだって…?そんなに外国人っぽい名前だったっけ。やはりピンとこない。
「そうか…じゃあご両親がどこにいるのかも…」
『両親』という言葉を耳にしたとき、激しい激情が込み上げた。体の中の冷えた血が急に熱を帯び暴れだす。両親のことももちろん思い出せないが、思い出したくない、思い出すことを拒むような、ドロドロとした気持ちが爆ぜた。
「私に両親なんかいないっ!!…私は、ずっと一人だった!…一人で!」
言葉に出した直後、感情的な自分の声に驚きはっとする。自分がこんな大きな声を出すことができるなんて知らなかったし、声を出すのも久しぶりで喉の使い方が分からず不格好な発音になっていたことだろう。
加えて、とても大きな後悔の波が心に押し寄せる。見ず知らずの人に八つ当たりするなんて。この人は私を心配してくれているだけなのに。でも止まらなかった。その話題は、擦りむいて出来た傷を無遠慮に触られるかのような、そんな感覚だった。
「すまない…辛いことを聞いてしまったね。無理して話さなくても大丈夫だよ」
「…………っ」
ふと顔を上げると、三日月型に細められた蜂蜜色の瞳と目が合った。心の底から私を心配してくれているのだとわかる、そんな優しい目だった。
私を安心させるために浮かべられた微笑は、この状況であるにもかかわらず見惚れてしまうほど美しかった。何の根拠もないけれど、この人は大丈夫だと思った。
その様子を見て、今までじっと黙っていたメイシィと名乗った女性が、
「とりあえず、名前がないと不便でしょう?あなたのことはいったんアイリスちゃんと呼びましょうか」
と優雅にほほ笑んだ。
「アイリスちゃん。ご両親がいないなら、どこか行く当てもないんでしょう?しばらくうちで一緒に暮らさない?」
「……?」
この人は何を言っているのか?一瞬意味がよく分からなかった。素性がよく分からない娘と暮らすなんて普通はありえない。真意を探るべく、私はじっとその女性の目を見つめる。
「メイシィ、それは後でゆっくり話すと決めていただろう?アイリスも今起きたばかりなんだから」
「あら、どちらにしても話すんだから、大事なことは早い方がいいでしょう?ねえ、アイリスちゃん」
その後、私はずっとベッドに横になっているわけにもいかないので、その屋敷の応接室に通してもらい、その突拍子もない提案についての詳細とこの国についていろいろと説明してもらった。
ここは、センシアという名の魔法が発達した国であること、アルベルン伯爵夫妻はプレモスの森の視察を兼ね、別荘に行く途中で私が倒れているのを見つけたこと、そして私を連れ帰り看病してくれていたことなどが分かった。
魔法なんかは日本にはなかったしファンタジー世界だけの話だと思っていたから、素直に驚いて胸が高鳴ったが、今は関係ないことだろう。
二人が事細かに教えてくれた内容は、どれも知らないことだらけで私の記憶を取り戻すきっかけにはならなかった。
「…と、ざっと説明し終わったかしら?今までの話で覚えていることはある?」
「……」
残念だが思い当たる節がないので静かに首を振った。
「そう、じゃあやっぱり私たちと暮らした方がいいと思うの。何も知識がないと下町でさえ暮らしていけないわ。ここみたいに治安が良いところばかりではないもの」
「そうだね。こんな幼い子が一人で生きていくには危険すぎる。アイリスさえ良ければ一緒に暮らさないかい?もちろん永遠に、とは言わないよ。自立したくなったらいつでも言えばいい」
そう言って二人は私の答えを待ってくれている。
本当にお世話になってもいいのだろうか。迷惑なだけではないだろうか。
ネガティブな思考がグルグルと頭の中を回る。でも、ほかに行く当てがないのも事実で。考えれば考えるほど自分がどうしたいのかが分からなくなってくる。
でも、こんな優しい言葉をかけられたのは生まれて初めてだった。そのせいか、この二人の元にいたい、という欲が心の奥からこぼれた。
「…ありがとう、ございます…お世話に、なります……」
しばらく使うことがなかった声帯がかすかに震えて声にならない音を生み出す。使い方を忘れたそれは先ほど久しぶりに声を荒げた反動によるためか、喉がヒリヒリと痛む。かろうじて発した音はあまりにも小さく、静かに部屋の中に消えた。
だが、二人にはちゃんと届いたらしい。
「そう言ってくれてうれしいよ。よろしく、アイリス」
「ええ、本当に。これから楽しみだわ。よろしくね、アイリスちゃん!」
「……」
こうして私はアルベルン伯爵家にしばらくの間お世話のなることを決めた。
そんなやり取りの裏側でその様子を見つめる小さな影が静かに窓辺から飛び立ち、周辺の草木の葉を揺らす。
<へー?あの子があの方のお気に入りの…。いつもはあんなくだらない噂、本気にしないんだけど。あながち間違いってわけじゃなさそう。
それにあの方があの子に目をかけるの、分かる気がするなあ。僕、ちょっと気に入っちゃったかも!ちょっかいだすなって言われてるけど、要は危害を加えなければいいってことだよね。これから楽しくなりそう♪>
そんなつぶやきは風と共に空へ消えた。




