01、始まりの物語
始めはシリアスパートです。ご了承ください。
「おはよっ!」
ドンッ
廊下を歩いていたら背中に強い衝撃が走った。ぶつかられたのだ、と理解するのに数秒もかからなかった。ふと気づくと私の服が濡れていて甘いオレンジの香りを放っている。ぶつかってきた少女は私の方をちらりと見やると、悪びれもせず何でもないような顔で言った。
「あ、ごめーん!気づかなかった~!」
「もう、かれんったら。あいりちゃんがかわいそうでしょー。ごめんね、服濡れちゃったよね?」
「……」
形だけの謝罪は、この世に存在するありとあらゆる物体よりも軽くて、薄いものだった。彼女たちが本気で謝っていないのは誰の目からみても明らかだ。二人の少女は何が面白いのか、その目に無様に濡れた私の姿を映し、とても楽しそうに目を細めて笑った。
体の芯まで冷えていく感覚に襲われ、意識を自身の着ている衣服に向ける。現状を把握するにはそれだけで十分だった。
かれんと呼ばれた少女の片手には紙パックのジュースらしきものが握られている。なるほど、私の衣服を鮮やかなオレンジに染め上げた液体の正体はこれだったのか。
「というか、かれん、もうお昼だし。今日は学校来ないのかと思ったよー」
「私もあまり来たくはなかったんだけどねー。担任がうるさいからさー」
「……」
何も反応しない私に興味を失ったように、二人は会話を始めた。私なんて視界に入っていない、というような調子で、楽しそうに。
人の慣れとは一種の洗脳のようなものだと思う。まるでその待遇が当たり前であるかのように、私はそれを受け入れる。
どんなに酷い言葉を投げつけられても、どんなに酷いことをされても、耐えて、耐えて、耐えて…
耐え続けたその先で、私は抵抗することを止めた。声を発することを諦めた。声を荒げて助けを求めても、無駄なんだと気づいてしまった。私の声は、誰の耳にも届かない。
家に帰っても私はどこまでも孤独だ。今日はいつも以上に母の機嫌が悪かった。机にお酒の空き缶が散乱しており、部屋中が荒れている光景が目に映った。それを横目に夕飯の支度をするのはいつものルーティーンで、その最中に情緒不安定な母の罵声を浴びせられることが私の日常だった。
「あんたなんか産まなければ良かったっ!あんたがいるせいで、私、私は…あの人を失ったの!…もう、死んじゃえばいいのに…!!どうしてそう平然と生きてるのよ!」
「……」
いつも軽く聞き流す罵声の中でその言葉だけが薔薇の棘のように心の真ん中に引っかかって離れなかった。酷いことを言われるのには慣れていたが、『死んじゃえばいい』とは言われたことがなかったからだ。
黒く鋭利なそれを何度も胸中で反芻する。その時、張り詰めていた何かが弾けるような音がし、ある考えが脳裏をよぎった。今の生活に疲れ切っていた私にはそれが一番の解決策に思え、これ以上の思考を自ら放棄する。
あぁ、なんだ、簡単なことじゃないか。初めからそうすればよかったのに。
私は母に何も告げず、ひっそりと家を抜け出した。
ーカンカンカンカンー
すぐ近くに踏切の音が聞こえる。そこへ何を思ったのか、幼い少女の身が投げ出される。
ガタンゴトン、ガタンゴトン……
どうやら電車が近づいてきたようだ。しかし少女は動かない。まるで自らその終わりを待ち焦がれているみたいだ。
「危ないっ!!」
誰かの声がした。少女の異様な行動に気づいた通行人だろうか。しかし気づいたときにはもう遅い。すでに電車は少女のすぐそばに迫っていた。少女の顔には微笑が浮かんでいた。死に対する恐怖など、一切感じさせないような、美しすぎる笑みだった。
ああ、やっと、終わるんだ。やっと…
小さな命の灯はそこで消えると思われた、が、少女の体は眩い光に包まれた。その瞬間、少女は意識を手放した。
***
気づくと私は見知らぬ土地に倒れていた。おかしい。私は確かに電車にひかれたはず。立ち上がって周囲を確認したいけど、体が思うように動かない。
もう、どうだっていいや…
半ば投げやりな気持ちで地に体を預ける。
しばらくの間そうしていると、耳元で小さい囁き声が聞こえてきた。
<ミツケタ、ミツケタ>
<ホウコク、ホウコク>
だ、誰?薄目で当たりを見渡すと、小さくて明るい光が二つ、私の周りを飛び回っている。
<ダイジョブ?>
<ダイジョブ?>
<ツレテク?>
<ツレテコ!>
そんなやり取りの後、
パカラッパカラッ
何かが近づいてくる音がする。だが、確かめるだけの体力もない。
<ナニカ、クル>
<ニゲル、ニゲル>
<マタネ>
<マタネ>
二つの光はそう言い残すと一瞬のうちにどこかへ消えた。
光が消えた直後、今度は近づいてきたそれが私の目の前で止まる。
「おいっ!!君!大丈夫かい!?」
「あなた、この子すごく衰弱しているみたいよ!休ませてあげた方がいいんじゃなくて?」
「それもそうだな、君、自分の名前はわかるかい?」
「……」
私が黙っていると、その男性は急に私の体をゆすって意識の有無を確かめ始めた。
「大変だっ!意識がないようだよ。医者にみてもらおう!」
お願いだからこれ以上体をゆするのはやめて欲しい、という思いをこめ、自分の名を告げる。
「私…の、…名前………、あい、り………」
しかし声が小さすぎたのか、男性は上手く聞き取れなかったらしい。
「何だって?あいり、?いや、アイリスか?」
なぜそうなるのだ。そんな外国人みたいな名前な訳がない。どう見ても私は日本人だというのに。あいり、なんて名前、それほど珍しくもないだろう。でもそれが限界だった。私は再び自分の意識を手放した。
目を覚ませば見知らぬ綺麗な天井が目に入った。
ここはどこだろう?私、まだ生きてる…?
とりあえず状況を整理するべきか。急いで自分の体に異変がないか確かめる。とりあえず目立った外傷は見られない。そしてどうやら自分はこの無駄に大きいベッドに寝かされていたらしい。それにここは私の住んでいた家とは比べものにならないほどの広さだ。大きな窓から外を見てみると、風変わりな建物がいくつも見える。
一人静かに考えを巡らせていると、控え目にこの部屋のドアがコンコンとノックされた。
「失礼いたします。入りますよー」
と、気の抜ける声がして、一人の女性が入ってきた。綺麗な身なりの黒と白の給仕服姿の彼女は、私を見るなり、
「旦那様ー!奥様ー!お嬢さんが目を覚ましましたよーっ!!」
と叫びながら部屋を飛び出していった。その直後、ドスドスと豪快な音を立てて、とても綺麗な容姿の男女が入ってきた。
「君っ!!よかった!目が覚めたのか!」
「ほんとに心配したのよ!ケガがなくてほっとしたわ」
「そうだね。とりあえず一安心だ。ところで、なぜ君はあんなところで倒れていたんだ?プレモスの森の中で君を見つけた時は心臓が飛び出るかと思ったよ。覚えているかい?」
「ほんと、びっくりしたんだから!それよりあなたはどこの家のお嬢さん?早く連絡してあげないとご両親もきっと心配してるわ」
(プレモスの森…?なにそれ。私が飛び込んだのは踏切の中のはず……それにこの人たちは一体…?)
困惑した表情が伝わったのか、給仕服姿の女性が口を出した。
「あのー、旦那様、奥様。お嬢さんが混乱されているみたいなので、一つずつゆっくりとご説明してあげてはいかがですか?」
「それもそうだね。目が覚めたと聞いて安心して話しかけすぎたようだ。改めまして僕の名は、シード・アルベルン。アルベルン伯爵家の現当主だよ。こちらは、」
「妻のメイシィ・アルベルンよ。よろしくね」
二人は綺麗な所作で丁寧に、育ちの良さが見て取れる挨拶をする。
「さて、こちらの自己紹介も済んだことだし君の名前を伺ってもよろしいかな?お嬢さん」




