南天
刃物を持った人物の登場で、大通りは混乱と恐怖に染まった。その切り裂き魔自身は、さきほど芽生えた現世の者として黄泉の者への恐怖と、悪霊の〝彼〟への恐怖が最高潮になって錯乱状態に陥った末に、凶器を我武者羅に振り回すという愚行に走った。彼奴が進めば進むほど、その狂乱で負傷する者が出てしまい、幽体は現世の者のフリを捨て、それでも走ってると錯覚するように浮遊し、背中――正確には、悪霊本体の背面――を掴んで、力任せに地面に沈める。
「やめろ! 放せ! バケモノ! 放せ!」
幽体は、喚く切り裂き魔へ馬乗りになり、片手でその頭蓋骨を、もう片方で下顎付近を鷲掴んだ。頭蓋骨を掴んだ手は、実際には悪霊を掴んでおり、第三者から見れば、何もない宙を掴んで何故か手を持ち上げていってる奇行に見えているだろうが、構わずに強引に切り裂き魔から悪霊を剥がしていく。
「ひぎっ……! アァアッ、ア゛アァア゛!」
凄まじい痙攣を起こす身体をもろともせずに引き剥がし続け、腕が頭上に位置した時、バッチンと、まるでゴムが引きちぎられたような音が響いて、切り裂き魔の身体は脱力し、四肢を投げ出した。魂に悪霊が絡みついて干渉され、更には強引に剥離されたのだから数日間は苦しむだろうが、瑞穂や数人の通行者を傷つけた罪を償え、といった思いで幽体は冷ややかに見下ろす。
掴んでいる悪霊は、今なお手の内で藻掻いている。こいつをどう冥府へ送り還そうかと、思案していると「きみ……」と弱弱しい声が届いてきた。
「瑞穂」
立ち上がった幽体は駆け寄って、悪霊を掴んでいない方の腕で彼女を引き寄せ、抱き締める。しかし、瑞穂は出血が多くて平衡感覚を失いつつあり、ずるりと力が抜けたので、幽体にもたれかかってしまった。幽体はそれを力強く抱き締め直し、建物の壁際に除けて、共にゆっくりと座り込んだ。そして、ここで周りの数多の目に意識を向け、
「誰か、警察と救急車には連絡した?」
と、訪ねる。サラリーマンらしい若い男性二人からの「携帯が操作できない」「電話が掛かっても、呼び出し音じゃなくて不可解な音がするだけ」という返答で、氣が昂っている己の存在と悪霊の悪足掻きで、電波障害を起こしている事にようやく気付いて、ああそうかと溜息が幽体の口から零れる。彼らは何回も電話を掛けようと、挑戦している。時には、互いに意見を交わしているようだ。
「なんで、……きみ、ここにいるの……」
「しぃー」
ぽんぽんと優しく体を叩き、安静にするよう促す。その反面、彼らを取り囲んで見下ろしている野次馬が身震いするような視線で射貫き、
「通報しようとしない、介抱の手伝いをもしようともしない、そこに転がってるのを束縛もしない、見世物を見るだけの野次馬は、そこに居る意味はあるの? 不愉快だよ」
肉声でそう言い放ったのち、言霊で〝散れ〟と命令すると〝彼〟が排除したい対象の足が動き、人垣は薄れていく。残ったのは、電話をかけようとしている二人のみ。人垣が消えると、幽体は悪霊を自分に取り込んで押さえつけ、電波障害を起こさないように努めた。すると途端に、連絡を取ろうとしていた二人から「繋がった」と歓喜の声が上がる。幽体は氣の安定を図りながら、一人がそのまま通話をし、もう一人がネクタイを外して、失神している切り裂き魔を俯せにしてから、両手首をそのネクタイで縛る様子を視界に入れていれば、氣も安定したので、瑞穂にこう言った。
「もうちょっとだけ、貰うね」
脂汗の滲む辛そうな瑞穂は、意識が朦朧とする中で〝彼〟が背を丸めて腕を赤く染める血液を口に含むのを見て、実体化する原因が解明されて、頭痛が更に酷くなるのを感じた。由々しき事態だからだ。だめだよ、と呟いたが、分かってる、とだけ返されてしまう。危険性を説きたかったのだが、瑞穂の意識は残念ながらここで暗転となった。
「瑞穂?」
僅かにかくんと落ちた頭を不思議がり、幽体は呼びかけ、絶命ではなく気絶したことを確認すると、脱力して落ちた彼女の腕の代わりに、傷口を圧迫して止血を試みた。その時、新たな人物が、幽体と気絶した瑞穂へ近寄ってくる。
「これ、使ってください」
「ああ、包帯。代わりに巻いてくれる? 巻ける?」
瑞穂と別の制服を着たその女子高生が、手慣れた風に巻いていった。
「看護婦の卵? いや、今の時代は看護師だっけ」
「弟がよくケガするから」
「そうなんだ。……お願いがあるんだけど、彼女の体温、どれぐらい?」
戸惑いながらも女子高生は、幽体に「けっこう熱い」と瑞穂の体温を伝えた。そして、スカートのポケットからハンカチを取り出すと、脂汗を拭うことまでする。
「……あの、寒くないんですか?」
幽体の恰好は、学生の印象を与える恰好であるが、半袖の開襟シャツ一枚だ。文化祭シーズンの今は秋。日にもよるが、陽のある内は暑い日も陽が沈めば、一枚羽織った方がいいくらいに気温は下がる。尋ねる女子高生自身も、制服の上からカーディガンを羽織っていた。
「うん。平気」
白い開襟シャツが、瑞穂の血でどんどんと赤く染まっていくが幽体は気にせず、体温が無いので温めることはできずとも、瑞穂自身の熱を逃がさない毛布代わりにはなろう、と彼女を抱きしめ続ける。遠くからサイレンが響いてきて、救急車が向かってきている事を知らせた。
「おや、ずいぶん早い到着だ」
「あっちの方で、ナイフに斬られたって人がいたので、電話かけたんです」
どうやら、目の前で心配そうにしている、さきほど連絡を入れてくれた二人より先に、彼女が救急連絡をいれていたようだ。白い車体が、目の前の道路に路肩駐車する。その車体に走る病院の名前を記憶したらば、幽体は、手助けしてくれた女子高生に瑞穂を任せ、引き止める声を背にその場を離れ、路地裏に駆け込む。存在する次元を、現世から黄泉に変えるためだ。そうすることで、現世の者にこれからの行動を気付かれずに、動けるのだ。
黄泉の次元へ戻って現世の者から見えなくなった彼は、一蹴りで五階建てのビルほどまで浮遊すると、三村家を目指して飛行する。もし運よく動画に収めたのであれば、高速で移動する白い影か黒い影、もしくはオーブと騒がれ、心霊番組に取り上げられるだろう。
数分もしない内に、幽体は三村家の玄関前へと降り立った。間も置かずに、玄関前のインターホンのボタンを押す。しかし、応答はない。家の窓を窺い見ると、灯りはカーテンの隙間から漏れているので、在宅であることが知れる。時刻は夕食時であるがゆえ、きっと支度をしていて聞こえていないのだろうと予測してもう一度呼び鈴を押して待つ間、ふとある事に気が付いた。
「……しまった。血塗れで来たのが、間違いだった気がする」
「なにか用ですか」
シャツと肌に掛かる血は、まだ赤いまま。どこか公園で水浴びをして来ればよかったと、どこかズレた反省をしていると、警戒を含んだ声が飛んできた。幽体が、緊張してはっと顔を向けてその人物を確認したが、一方的に見知った顔だったので努めて穏やかな声で話しかける。
「律紀くん。会えて良かった。お姉さんの瑞穂さんの事で、知らせたいことがあるんです」
「……あなたは?」
「知り合い、と言っていいかな。切り裂き魔のニュースは、知ってますか? 今さっき彼女が、あっちの大通りで被害に遭った。それを知らせたくて、僕はここに来ました」
「被害って――、姉ちゃんが? ちょっと待て、それ、血? お前が犯人なんじゃないのか?!」
瑞穂の弟である律紀は、話しながら近づいていたのだが、不穏な井出立ちの幽体に、再び警戒を強め、足を止めた。そして、見合ったまま携帯を取り出して、どこかへ電話をかけだしたので、
「待って待って! 通報はしないで! M病院へ早く行って」
ハンズアップをしながら、慌てて用件を伝える。
「父さん、家? ――ちょっとさ、家の前にヤバい人いてさ、家ン中、入れないんだ」
どうやら警察ではなく、父の雅弘に繋げたようだ。ハンズアップをしたままで様子を窺っていると、少しの沈黙のあとに律紀が驚愕の声を上げた。「え、病院? まさかM病院?」と聞き返しているということで、連絡がいったことに安心し、黄泉の次元に戻ろうとしたところ、
「本当に、姉ちゃんのことを知らせに来てくれた人?」
と、律紀から声を掛けられたので現世に留まった。そのタイミングで玄関ドアが開いて、男性がひとり出てきた。
「父さん。この人が」
「――きみは、もしかして」
「ああ、やっぱり、僕のことが見えていたんだね」
「車を出す。きみも行こう」
「いや、僕は」
「なんでその姿なのかも、知りたいな」
「……わかった」
雅弘は幽体に、律紀と共に車の後部座席へ乗るように指示を出した。家の中から続いて鏡子も出てきたので、車を発進させて病院へ向かう。車中で、幽体は瑞穂の容態を伝える。
「左腕を斬られた。僕がこっちに来る直前に、気を失ってしまった。もしかしたら、輸血が必要になるかも」
「俺の血が使える」
「それは良かった」
その後、会話は途切れるも、いくばくもせずに雅弘が口を開いて、客人を妻と息子へ正直に紹介した。幽体でさえ失笑を漏らすほど、説明を受けた二人はビシリと石像になる。
「はっきり言った! ふっ、んっふふふ!」
「笑うとこじゃないぞ」
「どうするのさ、幽霊が怖い鏡子さんの顔色が、凄く悪くなってしまったよ」
幽体がバックミラー越しにそう指摘するように、ホラーに耐性がまったくない鏡子は顔面蒼白になっている。なにせ、自分の真後ろに幽体が座っているのだから。律紀も、隣の幽体に体を硬直させている。幽体は、生前よく使っていた微笑みをして、霊力の高い瑞穂の新鮮な血液を媒体に摂取した生命力で、仮の肉体を得ていることを説明した。
「そんなおとぎ話……」
律紀が背もたれに体重を預けて天を仰ぎ、
「奇跡はあるもんなんだな」
雅弘は摩訶不思議の世界に感動し、
「……」
鏡子は声を発することも臆するほど、助手席で息を殺した。
「ああ、そうだ。せっかく話せたから、あのこと謝ろう。時々、律紀くんの電話とか、電化製品の調子が悪かったのは、僕のせいなんだ。ごめんね。これでも、ラップ音とか出さないように抑えてはいたんだ」
いやはや、とどこか楽し気な雰囲気の相手を、律紀は叩きたくなる衝動を抑え、そーかよ……、と脱力したまま、ぼやく。
「そろそろ、血の効力も終わりそうだ。姿が見えなくなる前に、君らに知らせられて良かったよ」
「あ、おい、待て! これからも家に――、消えちまった」
「いいや、彼は居る。言っていただろう? 姿が見えなくなるって」
三村一家が病院に到着すると救急扱いですぐに話が通り、長女の容態が、深く斬られたが命に別状はないと知らされて、安堵のため息が三人分、大きく響いた。
花言葉【良い家庭】【私の愛は増すばかり】