幼女に仕える教育係・前編
「幼女に仕える従者編」のルフィニア視点版です。あの時何があったのか? にお答えします。前・中・後の3回に分けてお送りする予定です。
「今日はどれにしようかな……」
クローゼットを開けると、鏡の付いた内扉に下がる数本のリボンが揃って揺れる。赤・青・黄、紫にピンクや茶色までと色とりどりのそれを前にして、私はどれで髪を結おうかと指を彷徨わせた。
服もメイクも決まっていながら、未だに髪だけは肩下までだらりと垂れて広がっている。出勤時間が迫っていることだし、一刻も早くまとめてしまいたい。
「あぁ、もう面倒ね!」
迷うのにも飽きた私は、これまたいつものように目を瞑ってリボンを適当に掴んだ。忙しいのに、気分が定まるまで呑気に待ってなどいられない。
「……青か」
濃いブルーを見て、二日前にも使った記憶が過ぎる。手抜きだと思われるかもしれないが、幸いなことに後輩も主人もそんなことを咎めたりはしない。髪に急いでリボンを絡めて、そそくさと自室を後にした。
『明日は早く来てね』
脳裏に幼い主――イリスの姿が浮かぶ。昨晩、そうフォルトに頼んでいたのを傍らで見た。後輩は仕事熱心ではあるけれど、どこか抜けたところがあるから心配だ。
「まさかとは思うけど、ねぇ」
予測できる嘆かわしい状況を防ぐため、ヒールのかかとを鳴らして螺旋階段を駆け下りた。
食堂フロアへ着いてみると、ふっと暖かい空気に包まれる。朝一番に働きる同僚が、今日も暖炉に火を入れてくれたのだろう。とても助かる。
次いでざわざわとした声も聞こえてきた。従者は男女問わず黒い制服を身に付けるため、離れたところから見ればまさに動めく黒山だ。
「……やっぱり」
その黒の中で目立つ金髪を見付けた時、私は盛大に溜息を付いた。当主の娘であるイリス嬢の世話係という重要な仕事を任されながら、本人には自覚が抜けているらしい。全く困ったものだ。
それを証拠に、指摘した時の顔には馬鹿正直にも「本気で忘れていました」と書いてあった。朝食の機会を捨てて駆け出す背中を見送りながら、思わずもう一度溜息が零れた。
「さてと、用事も終わったし」
窓に切り取られた空は鉛色の雲に覆われ、ちらほらと雪の舞っているのが見えた。今朝一番の用事を終え、景色をぼんやり眺めていると、視界に影が射した。
「おはようございますっ。ルフィニア先輩!」
「あぁ、おはよう」
元気に挨拶してきたのは、城勤めを始めて間もない従者見習いの少女・サスファだった。ピンクの髪を揺らし、あどけなさを残した笑顔を向けてくる様子は、なんとも人懐こい。
多少ドジっぽいところや、他者に対して一歩引いてしまうところは気になるものの、基本的に人と接することに苦労しないタイプだ。周囲を和ませる笑顔に加えて、表情がコロコロ変わるところも好印象を与える。
「お食事、まだでしたら、ご一緒しても良いですか?」
「そうね。いいわよ」
自分とは正反対の魅力を持つサスファの微笑みに、先程までの疲れが薄れて口元が緩むのを感じた。
急ぎの仕事がないといっても、従者は起きてから寝るまでが「労働時間」である。朝食をパンと紅茶のみで済ませることに、二人の意見が落ち着く。
「バター取ってくれる?」
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとう」
他の従者が余分に焼いておいてくれたコッペパンにバターを塗ってから窯に入れ、軽く焼け目が付くのを待つ。その間に、先のフォルトの一件を愚痴り、聞き上手のサスファがくすくすと笑った。
お喋りに興じる時間のない私達にとっては、そんなちょっとしたひと時が気を抜ける瞬間だ。
パンが焼け、紅茶を淹れたら隅の席に向かい合って座る。紅茶に私はレモンを絞り、サスファはミルクと砂糖を入れて一口そっと含む。暖かさがのどを通って体に染みてくるのを待って、何気なくまた外を見やった。
雪が止む気配はない。
「よく降りますね」
軽い世間話のような言葉とは裏腹に、息をゆっくり吐き出すような、実感がこもった響きだった。思ったまま口から零れただけで、誰かに聞かせる気持ちは薄かったのかも知れない。
「そうね。結構積もるのじゃないかしら」
案の定、返答されてはっとしたのを、私は目撃する。
「もしかして雪が好きなの?」
「……実は」
ふふっと笑い、すぐに「恥ずかしがる事ないじゃない」と付け加えた。ほんの少し顔を赤らめて、肩をすぼめながら紅茶をすする姿が可愛らしい。
「だって、雪を見てはしゃぐなんて、子どもっぽいじゃないですか」
へぇ、意外だな。そういうことを気にするようなタイプには見えなかった。彼女はなんでも話せてしまう雰囲気の持ち主で、安心感を与える人間だ。それは、失いきっていない幼さがあるからだと思っていた。
「別に気にしないけど。可愛いし」
「やっぱり子どもっぽいんじゃないですかぁ」
「そういう意味とは違うわよ」
私は細いフレームの眼鏡を外し、紅茶の湯気で出来た曇りをハンカチで拭いた。そこからの数分間は食べることに専念し、キリのいいところまで来ると、今度はこちらから沈黙を破った。
「それにしても早いのね」
私の役目である教育係の仕事は、勉強やマナー、モラルを教えること以外に、も、教材の整理やこれからの予定立てなどと、雑多な内容も多い。
見習いはそんな正式な従者以上に諸々の雑事をやらされるから、考えてみれば当たり前すぎることを言ってしまったか。
しかし、この言葉には予想以上の効果があった。サスファが弾かれたように激しく立ち上がったのである。がたごとと椅子が大きな音を立てた。
「ど、どうしたの?」
音と仕草に吃驚して問いかけると、青ざめた表情で恐ろしい事実を暴露した。
「わ、私、今朝は旦那様の給仕のお手伝いが……!」
「なんですって!?」
震える唇での告白は決して大きな声ではなかったのに、ざわつくフロアを一瞬で静まり返らせるくらいの威力があった。
吸血鬼達の住まうこの城をまとめる当主は、おおらかな人柄だ。たとえ召使いである従者達の前であろうと、柔らかい微笑みを絶やす事はない。
ただし、それに甘えようと考える従者は皆無だ。怒ったところを誰も見たことがないのは、誰も怒らせないからに他ならない。もしこの見習いがその地雷を踏めば――そう考えると背筋が寒くなる。
「何してるの、早く行きなさい!!」
「は、はいっっ!」
私は呆けてしまっている後輩を激しく叱咤した。我に返って走り出す背中を見つめ、きつく言い過ぎたかとも思ったけれど、これも彼女のため、果ては全ての同僚のためである。
片付けを引き受ける旨を伝える頃には、足の速い少女は出入り口に差し掛かっていた。たまに見せるドジも今はなく、そのまま角を曲がって消えていく。
「……大丈夫かしら」
フォルトだけでなく、サスファまでとは。身の振り方を考えた方がいいかもしれない。澄んだ紅茶の面に映った物憂げな顔が、これまでで最重の溜息を零す。
嫌になってそれをスプーンでぐるぐるっとかき回し、一度は取りだして横に避けていたスライスレモンを再び戻して、カップ底に強く押しつけた。
「心配しなくても、あの二人なら大丈夫よね?」
そう、無理矢理にも考えを浮上させたのは10分ほどしてからで、気持ちを入れ替えて二人分の食器を片づけるために席を立つ。周囲を見回すと食事を取る顔ぶれも変わっており、人数自体もぐんと減っていた。
時間の余裕などないというのに、とんだロスである。
カツカツと、またもやヒールが固い煉瓦を蹴る音が、細い螺旋階段に規則的に響く。
従者塔には、あまり知られていない場所がある。それは、一階部分よりも更に下へ降りる階段の先だ。食堂部分の反対側にあるその階段は、真正面からでは見えず、よく確認しなければ発見できない。
代々の教育係の育成過程は、まずこの場所を教えられることから始まる。気付かなかった空間に驚き、先達の背中を追いながら、暗い階段を恐る恐る降りていくのである。
「相変わらず暗いわね」
フロアの準備室から拝借したランプで用心深く足下を照らし、慎重に歩く。下から上がってくる埃っぽくて湿った空気に、自分の声と足音のみが反響するのを聞きながら。
「誰もいない、わよね」
階下には重厚な本棚が延々と続く書庫があった。木製のそれが人の足音に驚いたように軋む様は空恐ろしく、私は肩を震わせる。
「さっさと終わらせて帰ろ」
従者塔の下にあるせいか、余計に孤独感を感じさせる書庫は、来るとどうしても独り言が増える。
壁に手を這わせてランプから部屋の蝋燭に火を移すと、ようやく全容が明らかになってきた。棚と棚の間は大人がすれ違える程度で、全て床に固定してあると知っていても大きく揺れたらと想像してしまう。
「気のせいよ、気のせい」
そんな威圧感の中を奥へ進み、棚に振られた番号と本の背表紙へと視線を流した。今日のイリスにはあれをと、目星を付けていたものは足元の段にあり、体を屈めて手を伸ばす。
「……?」
地下に溜まった動かない空気に僅かな揺らぎが生じ、指先が止まった。消しきれない足音も地面を伝って感じられる。滅多に人の訪れない書庫に、誰かが来たのだ。
私は知らんぷりを決め込もうとした。きっと、物好きな従者が探し物をしに来ただけだろう。仲間の中には読書家もいるし、ここは別に入室禁止ではないのだから。
けれども気配はどんどんこちらに近付いてきて、息を潜めている間にいよいよ無視できないところまで、距離を詰めてきていた。
「……」
蝋燭の灯りでそれなりに明るいはずが、棚が邪魔して相手を定められない。苛立ちが募る。どうしようどうしよう、とそればかりが頭を巡る。
身を固くしていると、ふいに気配がすぐ向こう側から感じられることに気が付いた。
「~~~っ!」
うなじを誰かの視線が舐めるように伝い、私はとうとう声にならない悲鳴を上げて走り出した。靴がカツン! と硬い音を立て、本棚越しの相手と自分の耳をつんざく。
生憎、出入り口はたった一つしかなく、到達するためには「誰か」の横を通る必要がある。けれど、緊張と嫌悪感はピークに達しており、一瞬たりとも留まっていたくはなかった。
「あっ」
出来るだけそちらを見ないように顔を伏せて、全速力で駆け抜ける。視界の端に光沢を放つ茶色いブーツが見え、呼び止められた気がした。心臓が跳ねる。それでも止まることなど出来なかった。
「すみませんっ、失礼します!!」
残されたありったけの勇気を振り絞って叫ぶと、階段を一気に上りきった。
女子視点の分柔らかい雰囲気になるかと思いきや、相変わらず「ほのぼの」が迷子ですね。目標は遠いです……。